今日は、明治維新の大きなターニングポイントとなった「王政復古の大号令」について、わかりやすく解説していきます。
「王政復古って何?」「誰が決めたの?」「どうしてそんなことをしたの?」と疑問に思っている人も多いでしょう。実は、これは徳川幕府を終わらせ、新しい時代を作るための重要な出来事だったのです!
この記事では、王政復古の大号令の背景や内容、そしてその影響について、テストに出るポイントも交えて解説します!最後には、語呂合わせや重要用語も紹介するので、ぜひ最後まで読んでくださいね!
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王政復古の大号令とは何かわかりやすく解説
王政復古の大号令は、1867年12月9日に発表された「政治の大変革を宣言した命令」のことです。この命令によって、江戸幕府は正式に廃止され、天皇を中心とする新政府が誕生しました。
しかし、ただの「お知らせ」ではなく、これは実質的なクーデター(政変)だったのです。
では、具体的にどんな内容だったのか、誰が関わったのか、詳しく見ていきましょう!
王政復古の大号令とは?一言でいうと「天皇中心の新政府設立」
王政復古の大号令とは、武士が政治を行っていた時代を終わらせ、天皇中心の政治に戻すための宣言です。
「王政復古」という言葉の意味は、
- 王政=天皇による政治
- 復古=昔のやり方に戻ること
つまり、「天皇が政治をする時代を取り戻す!」という宣言ですね。
それまでの700年間、日本は鎌倉時代から続く「武士の政治」でした。特に江戸幕府は260年以上も続き、大名や将軍が政治を動かしていました。しかし、幕末になると「日本の政治を天皇中心に戻そう!」という考えが強くなり、これを実現させたのが王政復古の大号令です。
この大号令によって、江戸幕府は完全に廃止され、新しい政府がスタートすることになりました。
王政復古の大号令は誰が出した?中心人物を解説
王政復古の大号令を出したのは、天皇の名のもとですが、実際には岩倉具視(いわくらともみ)という公家が主導しました。
この時、日本の政治の主導権をめぐって大きな勢力争いがありました。
- 幕府を存続させたい「佐幕派」(徳川慶喜など)
- 幕府を倒して新政府を作りたい「倒幕派」(岩倉具視・薩摩藩・長州藩など)
この2つの勢力が対立していましたが、岩倉具視は倒幕派の中心人物として、薩摩藩・長州藩と手を組み、王政復古の大号令を発表することで幕府を完全に消し去ろうとしたのです。
つまり、王政復古の大号令は「天皇の命令」としつつも、実は倒幕派のクーデターだったのですね!
なぜ王政復古の大号令が出されたのか?その理由をわかりやすく
王政復古の大号令が出された一番の理由は、徳川幕府の影響力を完全になくすためです。
大号令が出される直前の1867年10月、徳川慶喜は「大政奉還(たいせいほうかん)」を行い、「もう幕府はやめます!」と宣言しました。
しかし、この大政奉還には裏がありました。
実は、「幕府がなくなっても、新しい政府には徳川家が関わるだろう」と考えていたのです。つまり、幕府はなくなっても、結局、徳川慶喜が政治を動かすつもりだったのです。
これを見抜いた岩倉具視ら倒幕派は、「徳川家が新政府に関わると、また幕府のようになってしまう!」と考え、徳川家を完全に排除するために王政復古の大号令を出したのです。
王政復古の大号令の内容を簡単に解説!何が変わったのか?
王政復古の大号令では、以下のような大きな変化がありました。
- 幕府の廃止 → 江戸幕府を正式に終了
- 摂政・関白の廃止 → 朝廷内の古い政治制度も廃止
- 新政府の三職(さんしょく)を設置 → 「総裁・議定・参与」という新しい政治制度を作る
- 徳川慶喜を政府から完全に排除 → 将軍の辞職を認め、新政府に入れないようにした
これにより、日本は完全に「幕府の時代」から「天皇の時代」に変わることになったのです。
王政復古の大号令はクーデターだった?その背景を解説
王政復古の大号令は、「新しい政府を作るための命令」と言われますが、実際は倒幕派が武力を背景にして行った「クーデター(政変)」でした。
- 倒幕派は、幕府の影響力を排除するために、事前に計画していた
- 幕府側の武士(会津藩など)を御所から締め出し、一方的に発表した
- 幕府が対応できないように、薩摩藩と長州藩の兵士で御所を固めた
このように、実際には一部の勢力が強引に政治を動かしたのが王政復古の大号令なのです。
しかし、これによって日本は新しい時代へと進むことになりました。これがなければ、今でも日本は武士が支配する国だったかもしれませんね!
王政復古の大号令を分かりやすく:影響や日本の変化
王政復古の大号令は、日本の歴史にとって大きな転換点でした。この命令が出たことで、日本の政治の中心が幕府から天皇へと移り、江戸時代が終わりを迎えたのです。
しかし、単に「幕府がなくなった」だけではなく、その後の日本にも大きな影響を与えました。ここでは、王政復古の大号令がどのような影響をもたらしたのかを詳しく解説します!
小御所会議とは?王政復古の大号令の直後に起きた出来事
王政復古の大号令が発表されたその夜、すぐに「小御所会議(こごしょかいぎ)」という重要な会議が開かれました。この会議では、「徳川慶喜を新政府に入れるか?」という大きな議題が話し合われました。
結果として、小御所会議では
- 徳川慶喜の内大臣辞職(将軍職はすでに辞めていたが、政府の要職も辞めることが決定)
- 徳川家の土地(領地)を朝廷に返す「辞官納地(じかんのうち)」を命じる
という決定が下されました。
これはつまり、「幕府を終わらせるだけでなく、徳川家自体を政治から排除する」という厳しい処分だったのです。この決定により、徳川慶喜は政治の舞台から完全に外され、日本の支配構造が大きく変わることになりました。
徳川慶喜の反応は?王政復古の大号令に対する幕府側の対応
王政復古の大号令と小御所会議による決定は、徳川慶喜にとっては予想外の厳しいものでした。もともと、慶喜は大政奉還を行ったことで「自分が新政府の中心に入る」と考えていたのです。
しかし、実際には「徳川家は完全に排除される」という結果となり、大きなショックを受けました。
この決定に対し、慶喜は一度は「戦いを避けるべき」と考え、江戸城にこもりました。しかし、幕府を支持する武士たちの間では、「このままでは徳川家が終わってしまう!」という怒りが高まり、戦争の火種となっていきました。
鳥羽・伏見の戦いが勃発!王政復古の大号令が引き金となった戦争
王政復古の大号令によって追い詰められた幕府側は、最終的に「武力で新政府に対抗する」という選択をしました。
1868年1月、幕府軍と新政府軍の間で戦争が起こります。これが「鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)」です。
- 幕府軍:約15,000人
- 新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩など):約5,000人
兵の数では幕府軍のほうが圧倒的に多かったのですが、新政府軍は「天皇の軍」として戦っていたため、士気が高かったのです。
さらに、新政府軍は最新の西洋式武器を使用し、幕府軍を圧倒しました。この戦いに敗れた幕府軍は江戸へと撤退し、日本全国を巻き込む戦争(戊辰戦争)へと発展していきます。
王政復古の大号令がもたらした明治維新への影響
王政復古の大号令がきっかけとなり、日本は大きく変化しました。この大号令の影響で、江戸幕府は完全に消滅し、新しい政府が誕生しました。
ここから始まるのが「明治維新(めいじいしん)」です。明治維新では、日本の政治や社会の仕組みが大きく変わり、以下のような改革が行われました。
- 廃藩置県(はいはんちけん):全国の藩を廃止し、天皇のもとで新たな県を設置
- 四民平等(しみんびょうどう):武士・農民・町人などの身分制度を廃止
- 徴兵令(ちょうへいれい):武士だけでなく、全国の男子が軍隊に入る制度に
- 学制(がくせい):全国に学校を作り、すべての子どもが学べるように
これらの改革によって、日本は近代化の道を歩むことになったのです。
王政復古の大号令を覚えやすく!語呂合わせとテスト対策ポイント
歴史の勉強では、「王政復古の大号令っていつ?」「どんな影響があったの?」と聞かれることがよくあります。ここでは、テストに役立つ語呂合わせやポイントを紹介します!
① 語呂合わせで覚えよう!
「イヤな(1867)徳川、終わる王政復古」
「徳川家”18″の人は半泣き”67″の王政復古」
1867年(慶応3年)の出来事なので、「イヤな徳川」と覚えるといいですね!
② テストでよく聞かれるポイント!
- 王政復古の大号令の目的は? → 幕府を廃止し、天皇中心の政治にするため
- 王政復古の大号令を主導したのは誰? → 岩倉具視
- 王政復古の大号令の後、すぐに開かれた会議は? → 小御所会議
- 王政復古の大号令がきっかけで始まった戦いは? → 鳥羽・伏見の戦い
- 王政復古の大号令の結果、日本はどう変わった? → 明治維新が始まり、近代国家へと進んだ
これらのポイントをしっかり押さえておけば、テストでも高得点が狙えますよ!
総括:王政復古の大号令をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 王政復古の大号令とは?
- 1867年12月9日に発表された命令で、江戸幕府を廃止し、天皇中心の新政府を作ることを宣言。
- 実質的に倒幕派(薩摩藩・長州藩・岩倉具視ら)によるクーデターだった。
- 王政復古の大号令の目的
- 幕府の影響力を完全に消し去り、天皇中心の政治を実現するため。
- 幕府をなくしても、徳川家が新政府に影響を与えるのを防ぐため。
- 王政復古の大号令の内容
- 幕府の廃止:江戸幕府を正式に終わらせる。
- 摂政・関白の廃止:朝廷内の旧来の権力構造も解体。
- 新政府の三職(総裁・議定・参与)を設置:天皇のもとで新たな政治体制を構築。
- 徳川慶喜の排除:将軍職辞任の許可とともに、新政府への関与を阻止。
- 王政復古の大号令の影響
- 小御所会議の開催(1867年12月9日夜)
- 徳川慶喜の内大臣辞職と領地返還(辞官納地)が決定。
- 鳥羽・伏見の戦い勃発(1868年1月)
- 追い詰められた幕府側が新政府軍と戦闘 → 幕府軍が敗北。
- 明治維新の開始
- 廃藩置県、四民平等、徴兵令、学制など、日本の近代化が進む。
- 小御所会議の開催(1867年12月9日夜)
- 王政復古の大号令の覚え方(語呂合わせ)
- 「イヤな(1867)徳川、終わる王政復古」
- 「徳川家”18″の人は半泣き”67″の王政復古」
- テストで狙われるポイント
- 主導者:岩倉具視
- 直後の会議:小御所会議
- 発端となった戦い:鳥羽・伏見の戦い
- 結果:幕府の完全な消滅 → 明治維新がスタート
