みなさん、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」という和歌を知っていますか?
これは百人一首にも収められている有名な歌で、作者は阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)という人物です。彼は奈良時代に中国の唐(とう)へ留学し、そのまま高官になりました。しかし、日本に帰りたくても帰れず、唐で生涯を終えることになります。
なぜ阿倍仲麻呂は帰国できなかったのでしょうか?
今回は、その理由や彼の功績を分かりやすく解説していきます!
阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由

では早速、阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由について解説していきます。
主な原因は以下の通りです。
最大の理由は「玄宗皇帝の引き留め」
阿倍仲麻呂は、日本から唐へ渡った遣唐留学生の一人でした。彼は唐の「科挙(かきょ)」という超難関試験に合格し、官僚として働くようになります。科挙は唐の役人になるための試験で、多くの中国人ですら合格できないほどの難関でした。
彼の能力はすぐに認められ、なんと当時の皇帝玄宗(げんそう)にも気に入られます。玄宗は「この男は優秀すぎる!日本に返すのはもったいない!」と思い、仲麻呂を引き留めました。
結果的に仲麻呂は唐の官僚として働き続け、日本に帰ることができなくなってしまったのです。
日本への帰国を試みるも「船の遭難」で失敗
阿倍仲麻呂は何度か帰国しようとしましたが、うまくいきませんでした。特に753年、遣唐使(けんとうし)の船に乗って日本へ向かったときの出来事が有名です。
彼はついに帰国の許可を得て、船に乗ります。ところが、運悪く暴風に巻き込まれ船がコントロールを失いました。最終的にたどり着いたのは、日本ではなくベトナム(当時の安南)でした。このまま日本に帰れると思ったのに、またしても失敗です。
この事故のせいで、「阿倍仲麻呂は亡くなった」と誤解した人もいたようです。
その証拠に、仲麻呂の親友だった唐の詩人・李白(りはく)は、彼の死を悼む詩を詠んでいます。
帰国できなかった背景に「安史の乱」があった
阿倍仲麻呂の帰国がさらに難しくなったのは、755年に起こった「安史の乱(あんしのらん)」が関係しています。これは唐の国内で起こった大反乱で、国が大混乱に陥りました。
この騒動により、仲麻呂も忙しくなり、日本に帰るどころではなくなります。
皇帝は「仲麻呂、お前は唐のために働き続けなさい!」と言い、彼は安南(ベトナム)の統治を任されてしまったのです。こうして、ますます帰国が遠のいてしまいました。
藤原清河の帰国計画の失敗
実は、藤原清河(ふじわらのきよかわ)という遣唐使のリーダーが、日本に仲麻呂を連れて帰ろうとしたことがありました。しかし、唐の政府が「今は帰国させられない」と拒否し、計画は失敗。
こうして、仲麻呂の帰国のチャンスはますます少なくなっていきました。結局、彼は生涯、日本に戻ることができなかったのです。
「李白の詩」が伝える仲麻呂の無念と望郷の念
仲麻呂は何度も帰国を試みましたが、その願いは叶いませんでした。しかし、彼の望郷の気持ちは多くの人に伝わっています。その証拠が、彼の詠んだ和歌です。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
この歌には、「日本に帰りたい」という強い思いが込められています。彼の友人李白も、仲麻呂のことを思い、次のような詩を詠みました。
「明月帰らず 碧海に沈む」
(明るい月は帰ることなく、青い海に沈んでしまった)
これは、「仲麻呂は故郷に帰れず、異国で生涯を終えた」という悲しみを表しています。こうして、阿倍仲麻呂は唐の地で一生を終えました。帰国は叶いませんでしたが、彼の功績は今も語り継がれています。
阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由の後に:何した人?

阿倍仲麻呂はなぜ日本に帰れなかったのでしょうか?実は、彼の優秀さが逆に足かせとなり、帰国が叶わなかったのです。その背景を詳しく見ていきましょう。
「科挙」に合格し唐の官僚として活躍
阿倍仲麻呂の最大の功績は、唐の官僚登用試験「科挙(かきょ)」に合格し、唐の政治に関わることができた点です。
当時、唐の役人になるためには、この超難関試験「科挙」に合格しなければなりませんでした。科挙は中国人ですら合格するのが難しい試験でしたが、なんと仲麻呂はこの試験を突破したのです!これは、日本人としては初の快挙でした。
試験に合格した後、仲麻呂は「左拾遺(さしゅうい)」や「左補闕(さほけつ)」といった高い官職に就きます。これは、皇帝に助言をする重要な役職でした。外国人がこうした重要なポストに就くのは、極めて異例のことでした。それほど、彼の能力が高く評価されていたのです。
唐の皇帝・玄宗に重用され:政治の中枢で活躍
阿倍仲麻呂は、唐の皇帝玄宗(げんそう)に非常に気に入られました。玄宗は「開元の治(かいげんのち)」と呼ばれる安定した時代を作った皇帝で、優秀な人材を積極的に登用していました。
仲麻呂は「秘書監(ひしょかん)」という役職に就きました。これは、現代で言えば「国立図書館の館長」に相当する役職で、書物の管理や文化政策に関わる仕事です。また、彼は「衛尉少卿(えいいしょうけい)」にも就任し、唐の軍事にも関与していました。
彼がどれほど信頼されていたかを示すエピソードの一つに、「鑑真(がんじん)」の渡航支援があります。仲麻呂は、日本に仏教の戒律を伝えようとする鑑真(がんじん)という僧侶の渡航を手助けしました。これが成功したことで、日本の仏教発展にも間接的に貢献したのです。
日本との外交に貢献:文化の架け橋となる
阿倍仲麻呂は、日本と唐の架け橋としても活躍しました。彼は遣唐使(けんとうし)の受け入れを担当し、日本からの留学生や使節団が唐で安全に過ごせるようにサポートしました。
また、日本の文化や政治体制についても、唐の皇帝に報告する役割を担っていました。唐の朝廷から見れば、仲麻呂は「日本のことをよく知る外国人官僚」として貴重な存在だったのです。そのため、彼は外交官としても重要な役割を果たしました。
唐の文学界でも活躍!李白や王維とも交流
阿倍仲麻呂は、唐の詩人たちとも深く交流していました。特に、李白(りはく)や王維(おうい)といった有名な詩人と親しくしていたことが知られています。
彼自身も詩を詠むことができ、「日本に帰りたい」という望郷の気持ちを詩に込めていました。彼の代表的な和歌である「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」は、日本だけでなく唐でも有名でした。
唐の文化の中でも、彼はその才能を発揮し、詩人たちとの交流を楽しんでいたのです。
安南(ベトナム)を統治:地方行政でも活躍
阿倍仲麻呂は、755年に安史の乱(あんしのらん)という大反乱が起こったことで、日本への帰国がますます難しくなりました。皇帝は、混乱の中で安定した政治を行うため、信頼できる仲麻呂を「安南都護(あんなんとご)」に任命しました。
安南とは、現在のベトナムのことです。唐の統治下にあったベトナムの行政を担当する重要な役職に、仲麻呂は任命されました。ここでも彼は地方政治を安定させるために尽力し、その功績が評価されました。
彼は最終的に「鎮南都護(ちんなんとご)」というさらに高い役職に昇進し、唐の地方統治においても大きな影響を与えました。
総括:阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由
- 玄宗皇帝の引き留め
- 仲麻呂は科挙に合格し、唐の官僚として優秀すぎたため、皇帝が帰国を許さなかった。
- 帰国船の遭難
- 753年、日本への帰国許可を得たが、暴風により船が難破し、ベトナム(安南)に漂着。
- 安史の乱の影響
- 755年に唐で大反乱が発生し、帰国どころではなくなり、さらに政治に関与することになった。
- 藤原清河の帰国計画の失敗
- 遣唐使のリーダーが仲麻呂を連れ帰ろうとしたが、唐の政府が拒否し、帰国の機会を失った。
- 李白の詩による無念の表現
- 仲麻呂の帰国が叶わなかったことを、親友の詩人・李白が詩に残した。
阿倍仲麻呂の功績
- 科挙に合格し、唐の高官として活躍
- 科挙に合格した数少ない外国人として、唐の官僚制度に関与。
- 玄宗皇帝に重用され、重要な役職を歴任
- 「秘書監」や「衛尉少卿」など、文化や軍事に関わる要職を担当。
- 日本との外交に貢献
- 遣唐使の受け入れや日本文化の紹介を通じて、日中の架け橋となる。
- 唐の文学界でも活躍
- 李白や王維などの有名な詩人と交流し、自身も詩を詠んだ。
- 安南(ベトナム)の統治を任される
- 「安南都護」として地方政治を担当し、唐の支配を支えた。
- 望郷の歌「天の原 ふりさけ見れば」を残す
- 日本への帰国を願い、百人一首にも収められた有名な和歌を詠んだ。
