今日は「蝦夷(えみし・えぞ)」について、わかりやすく解説します。歴史の教科書で「蝦夷」という言葉を見たことがある人も多いですよね。
でも、「蝦夷ってどんな人たち?」「今の日本人と何が違うの?」と思うことはありませんか?
この記事では、蝦夷の暮らしや特徴、歴史の中でどのように扱われてきたのかを詳しく説明していきます。語呂合わせも紹介するので、テスト対策にもぴったり!最後まで読めば、蝦夷についてスッキリ理解できるはずです。
蝦夷とは簡単に?定義と特徴をわかりやすく解説

「蝦夷」とは、日本の古代において中央政権に従わなかった人々を指す言葉です。ただし、時代によって「蝦夷」の意味は変化しました。奈良・平安時代には東北地方に住む人々を指し、鎌倉時代以降は北海道のアイヌ民族を指すようになります。
ここでは、蝦夷の特徴や暮らし、歴史の中での扱われ方について詳しく見ていきましょう。
蝦夷とは何か?簡単に言うと東北や北海道に住んでいた人々
蝦夷とは、簡単に言うと「昔の日本で中央の天皇に従わなかった人々」のことです。奈良・平安時代には東北地方に住んでいた人々を指しました。当時の朝廷(今の政府のようなもの)は、日本全国を支配したかったのですが、東北地方には朝廷の文化とは違う暮らしをする人々がいたのです。
鎌倉時代以降は「蝦夷(えぞ)」という言葉が北海道のアイヌ民族を指すようになりました。しかし、奈良時代や平安時代の蝦夷(えみし)とアイヌ民族は同じではなく、異なる文化を持っていたと考えられています。
蝦夷は狩猟や農耕をしながら独自の文化を築き、朝廷とは異なる生活をしていました。
蝦夷はどんな顔立ち?現代人との違いと特徴
蝦夷の顔立ちは、現在の日本人と少し違ったとされています。
一般的に、東北地方には「縄文系」の特徴を持つ人が多いと言われています。縄文系の特徴は以下の通りです。
- 彫りが深い顔立ち
- 目鼻立ちがはっきりしている
- 身長が比較的高い
- 体毛が濃い傾向がある
これに対して、弥生系の特徴は「平たい顔」「小柄な体型」と言われています。現在の東北地方には縄文系の特徴を持つ人が多く、これは蝦夷の特徴とも関係があるかもしれませんね。
蝦夷の暮らしと文化!食事や住居はどうなっていた?
蝦夷は狩猟、漁業、農業をバランスよく行いながら生活していました。食事では、シカやイノシシなどの肉、川で獲れる魚、山菜などを食べていました。お米を作る技術も持っていましたが、朝廷ほど盛んには行われていなかったようです。
住居は「竪穴式住居」という、地面を掘って作った家に住んでいました。寒い東北地方でも暖かく過ごせるよう、工夫された住まいだったのです。
また、信仰としては自然を神聖視するアニミズム的な考えを持っており、独自の祭りや儀式も行っていました。
蝦夷が話していた言語は?日本語との違い
蝦夷が話していた言葉については、正確なことは分かっていません。しかし、当時の記録や言語学の研究から、次のようなことが推測されています。
- アイヌ語とは異なる
- 古い日本語の方言に近かった可能性がある
- 津軽弁や秋田弁に蝦夷の言葉が残っている可能性
現在の東北地方の方言には、古代蝦夷の言葉が影響を与えたと考えられるものもあります。例えば、青森県の津軽弁には、古代の日本語に由来する独特の言い回しが残っているといわれています。
蝦夷と中央政権の関係!なぜ征伐の対象になったのか
奈良・平安時代の朝廷は、日本全国を統一しようと考えていました。しかし、東北地方の蝦夷は朝廷の支配を受け入れず、独自の文化を持ち続けました。朝廷はこれを「反乱」とみなし、征伐する必要があると考えたのです。
特に、平安時代には蝦夷と朝廷軍の戦いが激しくなりました。有名なのが「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」という人物で、朝廷側の軍を率いて蝦夷を攻めました。このとき、蝦夷のリーダーとして活躍したのが「阿弖流為(あてるい)」です。
阿弖流為は朝廷軍と戦いながらも、最終的には降伏。しかし、彼の処刑をめぐって朝廷内でも意見が分かれました。結果として阿弖流為は処刑されましたが、彼の勇敢な戦いぶりは今も語り継がれています。
蝦夷とは何か簡単に!歴史や戦いの変遷

蝦夷(えみし・えぞ)は、古代から近世にかけて日本の歴史の中で重要な存在でした。特に奈良時代から平安時代にかけての「蝦夷征伐」や、鎌倉時代以降の北海道での変遷は、日本史に大きな影響を与えました。
ここでは、蝦夷がどのように歴史の中で変遷していったのかを、わかりやすく解説していきます。
奈良・平安時代の蝦夷征伐!朝廷との戦いとは?
奈良時代から平安時代にかけて、朝廷は東北地方の蝦夷を服従させるために、何度も「蝦夷征伐(えみしせいとう)」を行いました。この戦いは約100年も続いたのです。
特に有名な戦いは以下の通りです。
- 阿倍比羅夫(あべのひらふ)の遠征(658年)
斉明天皇の命令で派遣された阿倍比羅夫が、秋田地方の蝦夷を制圧しました。 - 伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の反乱(780年)
かつて朝廷に従っていた蝦夷のリーダー、伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を攻め落としました。 - 坂上田村麻呂と阿弖流為(797年~802年)
坂上田村麻呂が大軍を率いて蝦夷を攻め、阿弖流為(あてるい)らの抵抗を受けました。最終的に阿弖流為は降伏し、処刑されました。
蝦夷征伐の目的は、東北地方を朝廷の支配下に置くことでした。しかし、戦いは長く続き、多くの犠牲が出ました。その結果、朝廷は蝦夷の人々を「俘囚(ふしゅう)」として支配下に置く政策をとるようになります。
鎌倉時代以降の「蝦夷(えぞ)」とアイヌ民族の関係
鎌倉時代に入ると、「蝦夷(えみし)」という言葉は使われなくなり、「蝦夷(えぞ)」が北海道のアイヌ民族を指すようになりました。これは、朝廷や武士たちが東北地方を完全に支配したため、蝦夷という言葉の意味が変わったからです。
アイヌ民族は、北海道を中心に独自の文化を築き、狩猟や漁業、交易を行っていました。しかし、鎌倉時代以降、日本の武士たちが北海道にも進出し始め、アイヌ民族との関係が変わっていきます。
- 松前藩の成立(1604年)
江戸時代に入り、徳川家康は北海道南部を支配する松前藩に、アイヌとの交易を独占させました。 - コシャマインの乱(1457年)
和人(日本人)との交易で不満を持ったアイヌのリーダー、コシャマインが反乱を起こしましたが、鎮圧されました。 - シャクシャインの戦い(1669年)
松前藩による不公平な交易に反発したアイヌの首長シャクシャインが、松前藩に対して戦いを挑みました。しかし、和睦の場で騙されて殺され、アイヌの反乱は失敗しました。
このように、鎌倉時代以降の「蝦夷(えぞ)」はアイヌ民族を指すようになり、和人との関係が大きく変化していきました。
明治時代の北海道開拓とアイヌ民族の運命
明治時代になると、政府は「蝦夷地(えぞち)」を「北海道」と改名し、日本の正式な領土にしました。これにより、アイヌ民族は大きな影響を受けることになります。
- 北海道開拓の開始(1869年)
明治政府は北海道を開拓し、多くの日本人を移住させました。この結果、アイヌの人々は土地を奪われ、伝統的な生活を続けることが難しくなりました。 - アイヌ文化の抑圧
明治政府はアイヌの人々に和人の文化を強要し、アイヌ語の使用や伝統的な風習を禁止しました。 - アイヌ文化振興法の制定(1997年)
1997年、日本政府はアイヌ文化の振興を目的とした法律を制定しました。さらに、2019年にはアイヌを「日本の先住民族」として正式に認めました。
このように、蝦夷(えぞ)としてのアイヌ民族は、近代の歴史の中で大きく変化していったのです。
蝦夷(えみし)の名残は今も残っている?
蝦夷(えみし)の文化や言葉は、現代の日本にも影響を与えています。例えば、東北地方の方言や風習の中に、蝦夷の名残があると言われています。
- 東北地方の方言
津軽弁や秋田弁には、古代の蝦夷の言葉に由来する表現が残っていると考えられています。 - 伝統的な祭り
青森の「ねぶた祭」や秋田の「竿燈祭り」などは、蝦夷の文化と関係があるとも言われています。 - DNAの研究
現在の東北地方の人々のDNAを調べると、縄文人の血が多く含まれていることが分かっています。これは、蝦夷の子孫が現在の東北地方に受け継がれている証拠の一つとされています。
このように、蝦夷の影響は現代にも続いているのです。
テストに出る!蝦夷を覚えるための語呂合わせ
歴史のテストで「蝦夷」が出題されることはよくあります。そこで、蝦夷に関する重要な出来事を語呂合わせで覚えておきましょう!
- 坂上田村麻呂が征夷大将軍になった年(797年)
「なくな(797)いぞ!蝦夷を征伐!」 - 阿弖流為が降伏した年(802年)
「ハレ(802)の日に終わる蝦夷の戦い」 - 松前藩の成立(1604年)
「広(1604)く交易!松前藩」
これらの語呂合わせを覚えておけば、テストでもバッチリですね!
総括:蝦夷とは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
蝦夷とは?
- 蝦夷(えみし・えぞ)とは、日本の古代において中央政権に従わなかった人々を指す言葉。
- 奈良・平安時代:東北地方に住む人々を指した(えみし)。
- 鎌倉時代以降:北海道のアイヌ民族を指すようになった(えぞ)。
蝦夷の特徴
- 顔立ち:縄文系の特徴(彫りが深い、目鼻立ちがはっきり、身長が高い)。
- 暮らし:狩猟・漁業・農業を行い、竪穴式住居に住んでいた。
- 言語:アイヌ語とは異なり、日本語に近い方言を話していた可能性がある。
蝦夷と朝廷の関係
- 奈良・平安時代:朝廷の支配に抵抗し、蝦夷征伐が行われた。
- 阿倍比羅夫(658年):秋田地方の蝦夷を制圧。
- 伊治呰麻呂の反乱(780年):多賀城を攻め落とす。
- 坂上田村麻呂と阿弖流為(802年):阿弖流為が降伏・処刑される。
鎌倉時代以降の蝦夷(えぞ)
- 松前藩の成立(1604年):アイヌとの交易を独占。
- コシャマインの乱(1457年):アイヌが和人に対して反乱を起こすも鎮圧。
- シャクシャインの戦い(1669年):松前藩の不公平な交易に反発するも敗北。
明治時代とアイヌ民族
- 北海道開拓(1869年):日本政府が北海道を支配し、アイヌ文化が抑圧される。
- アイヌ文化振興法(1997年):アイヌ文化を守るための法律が制定。
- アイヌの先住民族認定(2019年):日本政府が正式にアイヌを先住民族と認める。
蝦夷の名残
- 東北地方の方言:津軽弁や秋田弁に蝦夷の言葉の影響が見られる。
- 伝統的な祭り:青森の「ねぶた祭」や秋田の「竿燈祭り」など蝦夷文化が関係している。
- DNAの研究:東北地方の人々は縄文人の遺伝子を多く受け継いでいる。
