今日は、日本に仏教の教えを正しく伝えた偉人、鑑真(がんじん) について学びましょう。
みなさんも「戒律(かいりつ)」という言葉を聞いたことがありますよね? それを日本に持ち込んだのが鑑真なのです。彼は何度も失敗しながら、日本へやってきました。でも、ついに日本に到着したころには目が見えなくなっていたんですよ。
そんな鑑真は、日本でどんな活躍をし、どのように最期を迎えたのでしょうか? そして、彼の死因は一体何だったのか?
この記事を読めば、鑑真がどれほどの偉業を成し遂げたかが分かるはずです。
鑑真の死因とは?いつ・なぜ亡くなったのか?

鑑真は、763年6月25日(旧暦5月6日)に亡くなりました。享年76歳でした。
しかし、彼の死因についての詳しい記録は残っていません。ここでは、彼の晩年の生活や健康状態をもとに、考えられる死因を詳しく解説していきます。
鑑真の死因は不明:寿命や病気の可能性が高い
鑑真の死因についてのはっきりした記録は残っていませんが、高齢であったことから、寿命や病気によるものだと考えられています。当時の人々の平均寿命は50歳前後だったため、76歳という年齢はかなりの長寿です。
彼は、海を渡る際に多くの困難に直面しました。何度も失敗し、船が難破することもありました。そのため、栄養状態が悪く、体にもかなりの負担がかかっていたでしょう。
さらに、日本に到着するころには眼病が悪化し、失明していました。このような体の状態を考えると、最期は病気による体調不良が原因で亡くなったのかもしれません。
鑑真の晩年と健康状態 :失明の影響
鑑真は、日本に来るまでの間に失明してしまいました。その原因は、過酷な航海や栄養不足、感染症の可能性があります。
目が見えない状態での生活は非常に大変です。弟子たちの支えがあったとはいえ、体力が落ちやすくなったことは確かでしょう。また、日本の気候や食事に慣れるのにも苦労したかもしれません。
彼の最期については詳しい記録がありませんが、健康が徐々に悪化し、亡くなった可能性が高いとされています。
唐招提寺での最期:弟子たちに看取られた最期の様子
鑑真は、759年に唐招提寺(とうしょうだいじ)を開き、そこで最期の時を迎えました。
このお寺は、彼が自分の教えを広めるために建てた場所です。たくさんの弟子たちが彼を慕い、最期のときまで支えました。弟子たちによると、鑑真は座禅の姿勢のまま静かに息を引き取ったと言われています。これは、「仏の道を最後まで守った」という象徴的な姿ですね。
本と唐の歴史背景:鑑真の死因に影響した可能性は?
鑑真が生きた奈良時代の日本では、仏教が広まりつつありました。しかし、政治的な争いも多く、僧侶の立場も不安定でした。
一方、彼が生まれた中国(唐)では、彼の晩年に安史の乱(755年~763年) という大きな戦乱が起こっていました。この混乱は唐の社会全体に影響を及ぼし、鑑真の精神的な負担にもなった可能性があります。
つまり、彼の死には長年の疲労だけでなく、精神的なストレスも関係していたかもしれません。
語呂合わせで覚える!鑑真の死去年
歴史の年号を覚えるのは大変ですが、語呂合わせを使えば簡単に覚えられます!
✅ 「763年=なろう(三郎)さん(さん)」→「奈良で三郎(僧)が亡くなった」
✅ 「5月6日=ご(5)ろく(6)」 → 「ご苦労さま、鑑真和上」
こんなふうに覚えておくと、テストにも役立ちますよ!
鑑真の死因が分かったら:生涯と功績

鑑真は日本に何を伝え、どんな功績を残したのでしょうか? 彼の活躍を振り返ってみましょう。
鑑真の出身と若き日の修行 – なぜ日本へ来ることを決意したのか?
鑑真は 688年に中国(唐)の揚州で生まれました。
14歳で出家し、仏教の戒律を学びました。彼はとても優れた僧で、なんと 4万人もの弟子を育てた と言われています!
そんな彼のもとに、日本の僧・普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)が訪れ、日本へ来てほしいと頼んだ のです。
このとき、日本の仏教はまだ未発達で、正式な授戒制度もありませんでした。そのため、「正しい仏教を日本に伝えることが自分の使命だ!」 と考え、日本行きを決意しました。
苦難の連続!日本への渡航失敗と失明の経緯
しかし、日本へ行く道のりはとても厳しいものでした。
✅ 1回目:弟子の密告で失敗
✅ 2回目:暴風雨で遭難
✅ 3回目:船が座礁
✅ 4回目:官憲に捕まり送還
✅ 5回目:嵐で海南島に漂流、眼病悪化で失明
✅ 6回目:ついに日本へ到着!
まさに「六度目の正直」ですね!
東大寺での授戒 – 日本の仏教界を改革した
日本に到着した翌年、754年に東大寺で正式な授戒(じゅかい)が行われました。
この授戒とは、仏教の修行者が正式な僧侶になるために受ける儀式のことです。
日本では当時、税金を逃れるために僧侶になる人も多く、仏教の戒律(かいりつ)がきちんと守られていませんでした。
そこで、鑑真は聖武上皇、孝謙天皇をはじめとする400人以上の僧に正式な授戒を行い、日本の仏教界を整えたのです。
この授戒によって、日本の仏教は大きく変わりました。
「仏教はきちんとした決まりを持ってこそ意味がある」ということを、日本の人々に伝えたのです。
唐招提寺の建立 – 日本に根付いた鑑真の教え
その後、鑑真は 759年に「唐招提寺(とうしょうだいじ)」を建立 しました。
このお寺は、彼が日本で仏教の教えを広めるために建てたもので、正式な修行の場 となりました。
唐招提寺の名前には、「唐から招かれた偉大な僧が教えを広める場所」という意味があります。
唐招提寺は、今も世界遺産 に登録され、日本の歴史の中でもとても大切なお寺のひとつです。
ここで鑑真は、授戒制度をさらに広め、多くの弟子を育てました。
彼が亡くなった後も、その教えは受け継がれ、今もなお日本の仏教界に影響を与えています。
医学と薬学の発展にも貢献した
鑑真は仏教だけでなく、医学や薬学の知識にも優れていました。
彼は日本に漢方薬や治療法を持ち込み、人々の健康を守るための活動も行いました。
例えば、鑑真が持ち込んだとされるものには以下のようなものがあります。
✅ 漢方薬の処方 – 中国で発展した薬学の知識を日本に伝えた
✅ 施薬院(せやくいん)の設置 – 病気の人々に無料で薬を与える施設を作った
✅ 薬草の栽培 – 日本で薬草を育てる技術を伝えた
このように、彼の活動は日本の医療の発展にも大きく貢献しました。お坊さんなのに医療にも詳しいなんて、すごいですよね!
総括:鑑真の死因についてまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 鑑真の死因
- 死因は不明だが、寿命や病気の可能性が高い
- 763年6月25日(旧暦5月6日)に76歳で亡くなる
- 当時の平均寿命が50歳前後だったため、長寿といえる
- 長年の過酷な航海や失明による体力低下が影響した可能性がある
2. 鑑真の晩年と健康状態
- 航海中に失明し、日本到着後も健康は悪化
- 失明の原因は栄養不足・感染症・疲労の蓄積など
- 日本の気候や食事にも慣れる必要があり、体調管理が難しかった
3. 唐招提寺での最期
- 759年に唐招提寺を建立し、弟子たちに看取られて亡くなる
- 唐招提寺は日本に戒律を広めるために建てられた
- 最期は座禅を組んだまま静かに息を引き取ったと伝えられる
4. 日本と唐の歴史背景が影響
- 奈良時代の日本では仏教が広まる一方、政治的な不安定さもあった
- 唐では安史の乱(755年~763年)が発生し、唐の社会は混乱
- このような時代背景が、鑑真の精神的な負担になった可能性がある
5. 鑑真の死年を覚える語呂合わせ
- 763年=「なろう(三郎)さん」→「奈良で三郎(僧)が亡くなった」
- 5月6日=「ご(5)ろく(6)」 → 「ご苦労さま、鑑真和上」
6. 鑑真の生涯と功績
- 688年、中国・唐に生まれ、14歳で出家
- 仏教の戒律を学び、4万人もの弟子を育てた
- 日本の僧・普照と栄叡から招かれ、日本渡航を決意
7. 日本渡航の苦難
- 6回目の挑戦でようやく日本に到着(753年)
- 1回目:密告で失敗
- 2回目:暴風雨で遭難
- 3回目:船が座礁
- 4回目:官憲に捕まり送還
- 5回目:嵐で海南島に漂流、眼病悪化で失明
- 6回目:ついに日本へ到着
8. 東大寺での授戒
- 754年、東大寺で正式な授戒を実施
- 400人以上の僧侶に正式な戒律を授け、日本仏教を改革
- 仏教界の風紀を正し、僧侶の質を向上させる
9. 唐招提寺の設立
- 759年、唐招提寺を建立し、日本で戒律の教育を行う
- 現在も世界遺産として残る、日本仏教の重要な寺院
10. 医学・薬学の貢献
- 仏教だけでなく、医学や薬学の知識も日本に伝える
- 漢方薬の処方
- 施薬院(無料の医療施設)の設立
- 薬草の栽培技術を広める
11. 日本最古の肖像彫刻「鑑真和上座像」
- 弟子たちが彼の姿を残すために彫刻を作成
- 現在も唐招提寺で大切に保管され、特別公開されている
