今回は「開拓使と屯田兵の違いって何?」という疑問に、やさしく分かりやすく答えていきます。

教科書を読んでもなんとなくモヤモヤしている子どもたち、そして保護者の皆さんへ。「役所」と「兵士」ってだけじゃ、ちょっと分かりにくいですよね。でも大丈夫!この記事を読めば、ふたつの違いがスッキリわかって、自信を持ってテストにも答えられるようになりますよ。

ではさっそく、違いを比べてみましょう!

開拓使と屯田兵の違いを徹底比較

開拓使と屯田兵。このふたつは、北海道の開拓に深くかかわった存在です。でも、「どっちが何をしていたのか」をしっかり理解している人は意外と少ないかもしれません。

ここでは、見た目でもすぐ分かるように、表で違いを整理しながら詳しく見ていきましょう!

開拓使と屯田兵の違いは?【比較表で解説】

項目開拓使(かいたくし)屯田兵(とんでんへい)
正体明治政府が作った役所(行政機関)北海道の開拓と警備をした兵士たち
活動開始明治2年(1869年)明治7年(1874年)制度化、明治8年に開始
主な目的北海道の開拓、産業育成、交通整備北方の警備と農業による開拓、士族の救済
指導者・設立者東久世通禧、黒田清隆など黒田清隆の提案によって始まる
活動内容土地の調査、鉄道・道路建設、農業支援など家族とともに農業をしながら軍事訓練も行う

表で見ると一目瞭然ですね。開拓使は「北海道を整える司令塔」、屯田兵は「実際に体を動かす人たち」という感じです。

開拓使とは?北海道の近代化を支えた役所!

開拓使は、明治政府が北海道を発展させるために作った役所のことです。北海道は昔「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれていましたが、1869年(明治2年)に「北海道」と名前を変え、そのときに設置されたのが開拓使です。

この役所は、農地の開拓、鉄道の整備、鉱山やビール工場の建設など、北海道の未来をつくる大きな仕事をしていました。また、外国から専門家を呼んで、西洋の技術を学ぶこともしていたんですよ。

つまり、開拓使は「北海道開発の頭脳」ともいえる存在です。

屯田兵とは?開拓も警備もこなす“農業兵士”

屯田兵は、農業をしながら軍事訓練も行う「半分農民、半分兵士」のような人たちです。明治政府は、武士としての身分を失った士族たちの救済と、北海道の開拓・防衛を目的に、この制度を始めました。

屯田兵たちは家族と一緒に北海道へ移住し、与えられた土地を耕しながら、日々の訓練にも励みました。いざ戦争が起これば兵士として出動するという仕組みで、西南戦争や日清戦争にも出陣しています。

彼らの住んだ「兵屋(へいや)」は今でも北海道の博物館などで見ることができます。

なぜ混同される?開拓使と屯田兵のイメージの違い

開拓使と屯田兵は、どちらも「北海道の開拓にかかわった」という点で同じなので、よく混同されてしまいます。「開拓使」という名前だけを聞くと、まるで“人”のように思えてしまうのが理由のひとつです。

でも実際には、「開拓使=役所」、「屯田兵=その役所の指示で動く人たち」という関係なのです。つまり、開拓使が「司令塔」、屯田兵が「働く兵士」というような上下の関係があるんですね。

この関係性を知っておくと、テストでひっかけ問題が出ても迷わず答えられますよ!

テスト対策にも!覚えておきたいキーワードと年号

テストで出やすいポイントをまとめておきます!

  • 開拓使ができたのは「明治2年(1869年)」
  • 屯田兵制度が始まったのは「明治7年(1874年)」
  • 開拓使が廃止されたのは「明治15年(1882年)」
  • 開拓使がしたこと:「札幌農学校」や「鉄道の建設」、「ビール工場(後のサッポロビール)」など
  • 屯田兵がしたこと:「開墾(かいこん)」「農業」「軍事訓練」「戦争への出動」

これらを覚えておくと、社会のテストで高得点を狙えますよ!

開拓使と屯田兵の違いの後に:開拓の中での役割の違い

開拓使と屯田兵は、どちらも北海道の発展に大きな力を発揮しました。でも、それぞれがどのような役割を担っていたのかを知ると、ふたつの違いがもっと深く分かります。

ここでは、歴史的な背景や地域との関わりをふまえて、その違いを丁寧に見ていきましょう。

開拓使は「計画・管理」で屯田兵は「実行部隊」

開拓使の主な役割は、北海道の開拓全体を“計画し、進める”ことでした。どこに町を作るか、どこに鉄道を通すか、何を育てるかなど、すべてを考えて実行するのが開拓使の仕事です。

一方、屯田兵はその計画に基づいて動く“実行部隊”でした。農業や土地の開墾、警備や戦争のための訓練など、現場で汗を流すのが屯田兵の役割だったのです。

たとえば、開拓使が「ここに村を作ろう」と決めたら、屯田兵がそこに入植して開墾を始める。そんな関係だったのです。

開拓使は政策を動かす「お役所」

開拓使は「明治政府の一部門」として、国の政策をもとに北海道の発展を進めていました。いわば国家プロジェクトの「司令塔」ですね。

札幌に本庁舎を構え、道路や鉄道、学校、工場の建設に取り組み、札幌農学校やビール工場(今のサッポロビール)などを作りました。さらに、外国の技術や文化を取り入れるために、アメリカやヨーロッパから専門家も招いていました。

つまり、開拓使は「北海道の未来をつくるための戦略本部」だったのです。

屯田兵は「地域に根ざした暮らし」を支えた

屯田兵は、農業と軍事訓練を両立するという、今では考えられないような生活を送っていました。彼らは家族と一緒に北海道に移り住み、自分たちの手で家を建て、土地を耕し、食べ物を育てました。

さらに、普段は農業に従事しながらも、いざというときには兵士として出動できるよう、日ごろから軍事訓練も行っていたのです。つまり、屯田兵は「地域の安全」と「食の自立」を支える存在だったといえます。

その結果、北海道には今も「屯田町」や「新琴似」など、屯田兵にちなんだ地名が残っているんですよ。

北海道開拓の“時代”によって関わり方が変化

開拓使と屯田兵は、活動した“時代”も少しずつずれていました。開拓使は1869年に発足し、1882年に廃止されるまで、約13年間活動しました。その後は「北海道庁」が役割を引き継ぎます。

一方、屯田兵制度は1874年に制度化され、1904年まで続きました。開拓使がなくなったあとも、屯田兵たちは自分たちの村を守りながら開拓を続けていたのです。

つまり、開拓使は北海道開拓の「はじめの土台をつくった役所」であり、屯田兵は「その土台を現場で実現し続けた存在」だったのですね。

それぞれの功績と北海道に残る“証”

開拓使と屯田兵、それぞれの活躍が今の北海道の基礎をつくったといっても過言ではありません。

開拓使は、鉄道や農学校、工場といった北海道全体の産業インフラを整え、札幌の町の設計にも大きく関わりました。時計台や北海道大学など、今もその姿が残っています。

一方、屯田兵はその土地で根を下ろし、農業を続けながら子どもを育て、村を守ってきました。現在でも「屯田兵屋」などの建物が保存されており、郷土資料館などで見ることができます。

それぞれの“証”が、今も北海道の中に生き続けているんですね。

総括:開拓使と屯田兵の違いまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

項目開拓使(かいたくし)屯田兵(とんでんへい)
正体明治政府が作った役所(行政機関)北海道の開拓と警備をした兵士たち
活動開始明治2年(1869年)明治7年(1874年)制度化、明治8年に開始
主な目的北海道の開拓、産業育成、交通整備北方の警備と農業による開拓、士族の救済
指導者・設立者東久世通禧、黒田清隆など黒田清隆の提案によって始まる
活動内容土地の調査、鉄道・道路建設、農業支援など家族とともに農業をしながら軍事訓練も行う