歴史の授業で「建武の新政(けんむのしんせい)」を聞いたことはありますか?
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府を倒し、新しい政治を始めたけれど、たった2年で終わってしまいました。
でも、どうしてそんなに早く終わったのでしょう?
その理由は、武士たちの大きな不満が原因だったんです。今回は、建武の新政が2年で終わった理由と、武士たちがどんなことで不満を持ったのかを、塾講師の私がわかりやすく解説していきます。
建武の新政が2年で終わった理由:その背景を解説

建武の新政は1333年にスタートしましたが、わずか2年で崩壊してしまいました。この政治は、後醍醐天皇が「天皇が直接政治を行う」という理想を掲げて始めましたが、うまくいかなかったのです。
では、なぜこの新しい政治は失敗してしまったのでしょうか?
建武の新政が2年で終わった最大の理由は「武士の不満」
建武の新政が続かなかった最大の理由は、武士たちの不満が爆発したからです。鎌倉幕府を倒すために戦った武士たちは「新しい政権で良い待遇を受けられる!」と思っていました。
しかし、実際は期待を裏切られ、公家(くげ)たちが優遇されるばかりで、武士たちは冷遇されてしまったのです。
特に、戦で活躍した武士たちが望んでいた「恩賞(おんしょう)」、つまり「報酬」や「領地」がほとんどもらえなかったことが、大きな不満の原因でした。
これまでの武士の世界では、「戦って勝ったら領地がもらえる」というルールがありました。
しかし、後醍醐天皇の考えでは「武士にばかり領地を与えるのではなく、公家にも平等に分けるべきだ」とされ、武士たちの期待は裏切られたのです。
結果として、武士たちは後醍醐天皇の政治に対して怒りを募らせ、反乱を起こすことになります。
後醍醐天皇の政治が公家中心だったことが混乱を招いた
後醍醐天皇は、平安時代の天皇のように、自ら政治を行う「親政(しんせい)」を理想としていました。そのため、公家を重視し、武士たちを軽視するような政治を行ってしまったのです。
公家とは、天皇を中心とした貴族たちのことで、昔から政治を行ってきた人々です。しかし、鎌倉時代になると、武士たちが実権を握り、公家はほとんど力を持たなくなっていました。そんな中で、後醍醐天皇は「やっぱり公家が政治をするべきだ」と考え、武士たちよりも公家を優先しました。
これにより、武士たちは不満を募らせ、「なぜ俺たちは頑張ったのに報われないのか?」と怒りを感じるようになりました。こうした不満が、最終的に足利尊氏を中心とした武士たちの反乱へとつながっていきます。
「二条河原の落書」に見る庶民の不満と社会の混乱
「二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)」とは、京都の二条河原に書かれた落書きで、当時の人々の不満が詰まっています。この落書きには、「戦が終わったのに世の中が良くならない!」といった庶民の声が書かれていました。
建武の新政では、新しい法律や制度が次々と作られましたが、それがかえって混乱を招きました。例えば、土地の所有権を一度リセットし、新しく決め直すという方針が取られました。しかし、これにより「誰の土地なのか」がわからなくなり、多くの争いが発生しました。
また、新しい税金が導入され、庶民の生活はますます苦しくなっていきました。「せっかく幕府が倒れて新しい時代になったのに、なんでこんなに暮らしにくいの?」という不満がどんどん広がっていったのです。
足利尊氏が新たな武家政権を作った
そんな中で、武士たちの期待を裏切らない政治をしたのが、足利尊氏でした。
彼は「武士たちにきちんと恩賞を与える」と約束し、武士たちの支持を集めました。
特に、足利尊氏は「武士たちの土地を守る」という姿勢を見せました。
これにより、多くの武士たちは「後醍醐天皇よりも足利尊氏について行った方がいい」と考えるようになります。
そして、1336年、足利尊氏は後醍醐天皇の軍を打ち破り、新しい武士の政権「室町幕府」を作りました。こうして、建武の新政は2年で終わり、武士中心の新しい時代が始まることになったのです。
建武の新政が続くためにはどうすればよかったのか?
もし後醍醐天皇が「武士の意見をもっと聞いていたら」、建武の新政はもっと長く続いたかもしれません。
例えば、
- 武士たちに公平な恩賞を与える
- 武士と公家のバランスをうまくとる
- 政治の改革を急ぎすぎず、少しずつ進める
といったことをしていれば、武士たちの不満を抑えることができたかもしれません。歴史には「もしこうだったら…」という考え方がとても大切です。
建武の新政の失敗から学べることは、「どんなリーダーも、周りの意見を聞きながらバランスよく政治をしないといけない」ということです。これは、現代の政治や組織運営にも通じる話ですね。
建武の新政が2年で終わった理由の後に:武士の不満はなぜ起きたか

建武の新政が2年で終わった背景には、武士たちの強い不満がありました。
では、具体的に武士たちはどのようなことに不満を持ったのでしょうか?ここでは、武士たちの不満がどのようにして高まり、後醍醐天皇に反発するようになったのかを詳しく解説していきます。
武士たちが求めていたのは「恩賞」だった!
武士たちは、鎌倉幕府を倒すために命がけで戦いました。そのため、「戦いの後には恩賞がもらえるはず!」と期待していたのです。しかし、後醍醐天皇の政治では、武士よりも公家が優遇され、多くの恩賞が公家に与えられてしまいました。
特に問題だったのは「所領(しょりょう)」、つまり土地の分配です。当時の武士社会では、「戦で活躍した者には土地を与える」というのが当たり前でした。
しかし、後醍醐天皇は「元々の土地の持ち主(公家)に戻すべきだ」と考え、武士たちにはほとんど土地を与えませんでした。
これによって、多くの武士が「こんなはずじゃなかった!」と怒りを爆発させることになります。
武士の役割を軽視したことで信頼を失った
後醍醐天皇は、政治を「公家中心」に戻そうとしました。そのため、これまで政治を担ってきた武士たちの意見が軽視されるようになったのです。例えば、武士が政治に関わる機関がほとんど廃止され、公家が中心となって政治を行うようになりました。
しかし、鎌倉時代を通じて、実際に治安維持や戦いを担っていたのは武士でした。
武士たちは「俺たちは戦で命をかけて戦ったのに、なんで公家が政治を決めるんだ?」と強く反発しました。特に、武士たちにとって重要だった「御恩と奉公(ごおんとほうこう)」の関係が崩れたことは、大きな問題となりました。
御恩と奉公とは、武士が戦で戦う代わりに、主君(しゅくん)が報酬として土地を与える関係です。この関係が崩れると、武士たちは戦う意味を失い、後醍醐天皇への不信感を強めました。
足利尊氏が武士たちの不満をうまく利用した
建武の新政に不満を持った武士たちは、「もっと武士のための政治をしてくれる人はいないのか?」と考えるようになりました。そんな中、武士たちの不満をうまく利用したのが足利尊氏です。
足利尊氏は、鎌倉幕府を倒す際に活躍した武士の一人でした。彼は武士たちの不満をよく理解し、「俺が武士たちにふさわしい政治をしてやる!」と訴えました。
そして、1335年に起こった「中先代の乱(なかせんだいのらん)」の後、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、独自に武士を集めて新しい政権を作ろうとしました。武士たちは、「尊氏について行けば、きっと土地ももらえるし、武士の立場も守られる!」と考え、次々と尊氏のもとに集まったのです。
こうして、武士たちは後醍醐天皇ではなく、足利尊氏を支持するようになり、やがて建武の新政は崩れていきました。
武士と公家の対立が決定的に!南北朝時代へ
後醍醐天皇は、足利尊氏に負けてしまいましたが、「まだ諦めない!」と考えました。彼は京都を脱出し、奈良の吉野に逃げ、そこで「南朝」という新しい朝廷を作りました。
一方、足利尊氏は、京都に「北朝」を作り、光明天皇(こうみょうてんのう)を即位させました。こうして、日本には「天皇が二人いる」という異常な状態になり、南北朝時代が始まったのです。
南朝は「正統な天皇の血筋を守る!」という考えで戦い、北朝は「武士の時代を作る!」という考えで戦いました。この戦いは約60年も続き、最終的には北朝が勝ち、室町幕府が完全に日本を支配することになりました。
建武の新政の失敗から学べることと
建武の新政の失敗から、私たちが学べることは何でしょうか?それは、「リーダーは周りの意見をしっかり聞かなければならない」ということです。
後醍醐天皇は、「理想的な政治をする!」という強い意志を持っていましたが、武士たちの意見をあまり聞きませんでした。その結果、武士たちの不満が爆発し、新しい政権はわずか2年で崩れてしまいました。
もし後醍醐天皇が、武士の立場や考えをもっと尊重していたら、建武の新政はもっと長く続いたかもしれません。これは、現代の会社や組織でも同じことが言えます。
「理想を追い求めるのは大切だけれど、現実的にどうすればうまくいくのか?」を考えることが、リーダーにとってはとても重要なのです。
総括:建武の新政が2年で終わった理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 武士の不満が爆発した
- 鎌倉幕府を倒した武士たちは、恩賞(報酬や領地)を期待していたが、公家が優遇され、武士への恩賞がほとんどなかった。
- 後醍醐天皇の「公家中心」の政治が武士を軽視
- 武士を統治の中心から外し、公家を重視したことで、武士の反発を招いた。
- 土地問題で混乱が発生
- 後醍醐天皇は土地所有権をリセットし、新たに決め直そうとしたが、逆に争いが増えた。
- 新たな税や制度が庶民の負担に
- 「二条河原の落書」には、庶民の不満が表れており、新たな税制や制度が混乱を招いた。
- 足利尊氏が武士の不満を利用
- 武士たちの不満をうまく汲み取り、「武士のための政治をする」と訴え、多くの武士が尊氏側についた。
- 南北朝時代の始まり
- 建武の新政崩壊後、後醍醐天皇は「南朝」、足利尊氏は「北朝」を立て、日本は60年間、南北朝時代に突入した。
- 建武の新政の失敗から学べること
- 理想を掲げるだけではなく、周りの意見を聞き、バランスの取れた政治を行うことが重要。現代の組織運営にも通じる教訓となる。
- 最終的に室町幕府が誕生
- 足利尊氏の勝利により、室町幕府が成立し、武士中心の時代が続くことになった。
