こんにちは、塾長です!今日は「長篠の戦い」について分かりやすく説明していきます。
「長篠の戦いってなに?」「織田信長が勝ったのはなぜ?」「鉄砲がすごかったって本当?」
こんな疑問を持っている人は多いでしょう。歴史の授業でもよく出てくる戦いですが、実はただの合戦ではなく、「戦い方が大きく変わった戦争」だったんです!
今回は、小学生でも分かるように長篠の戦いが起こった理由や、どんな戦いだったのかを詳しく説明します。覚えやすい語呂合わせも紹介するので、テスト対策にも役立ちますよ!
長篠の戦いを簡単に解説:戦いが起こった理由や場所

長篠の戦いは、1575年(天正3年)に起こった、日本の歴史の中でもとても有名な戦いです。この戦いは、織田信長・徳川家康の連合軍と、戦国最強と言われた武田軍がぶつかった大きな戦でした。
では、どうしてこの戦いが起こったのでしょうか?どこで戦ったのでしょうか?詳しく見ていきましょう!
長篠の戦いとは?簡単に説明すると
長篠の戦いは、戦国時代の「合戦」の中でも特に有名な戦いです。理由は、織田信長が「鉄砲を使った新しい戦い方」をしたからです。
この戦いは、1575年(天正3年)5月21日に、現在の愛知県新城市で行われました。織田信長と徳川家康の連合軍3万8千人が、武田勝頼率いる武田軍1万5千人と戦い、大勝利を収めたのです。
この戦いの大きなポイントは、「織田軍が武田軍の騎馬隊に対抗するために、鉄砲を大量に使ったこと」です。これによって、日本の戦の歴史が大きく変わりました。
長篠の戦いが起こった理由
では、なぜ長篠の戦いが起こったのでしょうか?
もともと、織田信長と武田信玄(武田勝頼の父)は敵対関係にありました。武田信玄は信長と戦っていましたが、戦いの途中で亡くなってしまいます。すると、息子の武田勝頼が後を継ぎ、「父の夢を叶える!」と考えて、織田・徳川軍と再び戦うことになったのです。
1575年、武田勝頼は1万5千人の軍勢を引き連れ、徳川家康の三河の領地に攻め込みました。このとき、徳川家康の大事な拠点である「長篠城」を包囲し、奪おうとしたのです。
「このままではまずい!」と思った家康は、すぐに織田信長に助けを求めます。信長は「これは大きなチャンスだ!」と考え、大軍を率いて武田軍と戦うことを決めたのです。
長篠の戦いの場所:戦場となった2つのポイント
長篠の戦いは、主に 「長篠城」と「設楽原(したらがはら)」という2つの場所で行われました。
- 長篠城(ながしのじょう)
- 武田軍が最初に攻め込んだお城で、徳川家康の重要な拠点でした。
- 武田軍はこの城を包囲しましたが、織田・徳川軍の援軍が来るまで持ちこたえました。
- 「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」という武士が、命がけで援軍を呼びに行った話が有名です。
- 設楽原(したらがはら)
- 織田・徳川連合軍が本格的に武田軍と戦った場所です。
- 信長はここに「馬防柵(ばぼうさく)」という木の柵を作り、武田軍の騎馬隊を防ぎました。
- この場所で、織田軍の鉄砲隊が大活躍しました。
現在、この場所には「長篠城跡」や「設楽原古戦場」が残っており、歴史好きな人たちが訪れるスポットになっています。
長篠の戦いの参加武将を簡単に解説!
この戦いには、歴史上有名な武将たちがたくさん参加しました。
✅ 織田・徳川軍
- 織田信長(おだのぶなが):戦いの指揮をとり、鉄砲を使った戦術を考えた
- 徳川家康(とくがわいえやす):自分の領地を守るために戦った
- 酒井忠次(さかいただつぐ):長篠城を助けるために活躍した
- 羽柴秀吉(豊臣秀吉):後の天下人としても有名
✅ 武田軍
- 武田勝頼(たけだかつより):戦国最強と言われた父の後を継ぎ、果敢に挑んだ
- 山県昌景(やまがたまさかげ):武田軍の精鋭部隊を率いた
- 馬場信春(ばばのぶはる):冷静な判断で戦ったが、戦死した
- 内藤昌豊(ないとうまさとよ):武田軍の重要な指揮官だった
戦いの結果、武田軍は多くの名だたる武将を失い、大きなダメージを受けました。
戦国時代の重要な戦いと長篠の戦いの関係
長篠の戦いは、戦国時代の流れの中でとても大事な戦いでした。
✅ 「桶狭間の戦い」(1560年)
→ 織田信長が今川義元を破り、勢力を拡大した戦い
✅ 「三方ヶ原の戦い」(1572年)
→ 武田信玄が徳川家康を大敗させた戦い
✅ 「長篠の戦い」(1575年)
→ 織田・徳川連合軍が、鉄砲を使って武田軍に大勝した戦い
この戦いの後、織田信長は天下統一に向けて大きく前進し、武田家は衰退していくことになります。
長篠の戦いを簡単に:勝敗を分けたポイント

長篠の戦いは、戦国時代の中でもとても大きな転機となる戦いでした。織田・徳川連合軍の大勝利となり、武田家は衰退していくことになります。
では、この戦いの結果や、勝敗を分けたポイントについて詳しく見ていきましょう!
長篠の戦いの結果は?勝敗の決め手となった要因
長篠の戦いの結果は、織田信長・徳川家康の連合軍の大勝利でした!
✅ 織田・徳川連合軍の勝利の要因
- 最新の武器「鉄砲」を大量に使用した
- 「馬防柵(ばぼうさく)」という防御策を作り、武田軍の騎馬隊を封じた
- 戦略的に有利な地形(設楽原)に布陣した
✅ 武田軍の敗北の要因
- 鉄砲に対抗する策を持っていなかった
- 馬防柵を突破できなかった
- 重臣たちの意見を無視し、勝頼が無理な突撃をした
この戦いによって、武田軍は1万5千のうち1万人以上が戦死し、戦国最強と呼ばれた騎馬隊も壊滅しました。特に、武田家の重要な武将である山県昌景、馬場信春、内藤昌豊などが亡くなったことで、武田家は衰退の一途をたどることになります。
長篠の戦いで有名な「鉄砲三段撃ち」とは?本当にあったのか?
長篠の戦いといえば、「鉄砲の三段撃ち」が有名ですよね!教科書にも載っていて、「これで織田軍が勝った」とされていますが…実は、これには疑問があるんです。
✅ 三段撃ちとは?
- 鉄砲兵を3列に並べて交互に撃つ戦法
- 1列目が撃ったらすぐ後ろに下がり、次の列が撃つ
- これを繰り返すことで、途切れなく弾を発射できる
✅ 実際にあったのか?
しかし、この三段撃ちの話は戦いの約30年後に書かれた本に登場したもので、それ以前の資料には記録がありません。そのため、歴史学者の中では「本当にあったのか?」と疑問視する声が多いのです。
実際には「三段撃ち」ではなく、鉄砲兵たちがそれぞれ準備ができたら撃つ方式だったのではないか?という説が有力です。
武田軍が敗北した3つの理由
武田軍はなぜ負けたのか?ここでは3つの大きな理由を解説します!
✅ ① 鉄砲と馬防柵に対抗できなかった
武田軍は騎馬隊が強いことで有名でしたが、織田軍は馬が突撃できないように 馬防柵(ばぼうさく)という柵を作りました。さらに、織田軍は3,000丁の鉄砲 を用意し、これによって武田軍は何度突撃しても撃ち落とされてしまったのです。
✅ ② 勝頼の判断ミス
武田家の重臣たちは「撤退した方がいい」と進言しましたが、勝頼は「絶対に勝てる!」と突撃を命令しました。その結果、大量の兵を失い、戦況は一気に不利になりました。
✅ ③ 兵力の差
織田・徳川軍38,000人に対し、武田軍は15,000人しかいませんでした。兵の数が2倍以上違う上に、鉄砲をうまく使われたため、勝つことはとても難しかったのです。
長篠の戦いを覚える語呂合わせ&テストに出るポイント
歴史のテスト対策として、長篠の戦いを覚えやすい語呂合わせを紹介します!
✅ 語呂合わせで覚えよう!
「イチゴ(1575)長篠の鉄砲祭り!」
➡ 1575年に起こった戦いで、鉄砲が大活躍したことが一発で分かりますね!
✅ テストに出やすいポイント
- 長篠の戦いが1575年に起こったこと
- 織田信長が鉄砲を活用したこと
- 馬防柵を使って騎馬隊を防いだこと
- 武田勝頼が戦に負けて武田家が衰退したこと
このあたりはテストでよく出るので、しっかり覚えておきましょう!
長篠の戦いが歴史に与えた影響とその後の展開
長篠の戦いは、日本の歴史を大きく変えました。特に「戦い方の変化」「武田家の衰退」「織田信長の台頭」の3つが大きなポイントです!
✅ ① 戦い方が大きく変わった!
長篠の戦いをきっかけに、日本の戦争の主力は「騎馬隊」から「鉄砲隊」へと変わっていきます。武田騎馬隊の伝説は終わり、集団戦の時代に突入しました。
✅ ② 武田家の衰退
長篠の戦いで主力を失った武田家は、その後勢力を回復することができませんでした。そして、7年後の 1582年 に織田信長・徳川家康の軍勢によって滅亡してしまいます。
✅ ③ 織田信長の天下統一に向けた大きな一歩!
この戦いに勝利したことで、信長はますます勢力を拡大し、天下統一への道を進んでいきました。この後、「本能寺の変」まで快進撃を続けます。
総括:長篠の戦いを簡単に解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 戦いの概要
- 1575年(天正3年) に現在の愛知県新城市で発生
- 織田信長・徳川家康の連合軍(38,000人) vs 武田勝頼の武田軍(15,000人)
- 織田・徳川軍の大勝利!
✅ 戦いが起こった理由
- 武田勝頼が父・信玄の遺志を継ぎ、徳川家康の領地「長篠城」を攻めた
- 家康が織田信長に援軍を要請し、大決戦に発展
✅ 戦場となった場所
- 長篠城(武田軍が包囲)
- 設楽原(決戦の地、織田軍が「馬防柵」を設置)
✅ 勝敗を分けたポイント
- 織田軍は鉄砲を大量に使用(3,000丁)
- 「馬防柵」で武田騎馬隊の突撃を封じた
- 武田勝頼が重臣の進言を無視し、無謀な突撃を決断
✅ 鉄砲三段撃ちの真実
- 三段撃ちは後世の創作の可能性が高い
- 実際は、各兵士が準備でき次第順番に撃つ戦法だった
✅ 戦いの影響
- 武田家の衰退が決定的に!(重要武将を多数失う)
- 鉄砲の活用が戦争の主流に!(騎馬隊の時代が終わる)
- 織田信長の天下統一に向けた大きな一歩となる
✅ 覚えやすい語呂合わせ
- 「イチゴ(1575)長篠の鉄砲祭り!」
✅ テストに出やすいポイント
- 戦いの年号(1575年)
- 鉄砲と馬防柵の活用
- 武田軍が敗北し、武田家が衰退
