歴史の授業で「大坂の陣」という言葉を聞いたことはありますか?

「徳川家康が豊臣家を滅ぼした戦い」というイメージを持っている人も多いと思います。でも、どうして豊臣家と徳川家が戦うことになったのでしょう?
そして、大坂の陣には「冬の陣」と「夏の陣」の二つがあったって知っていますか?

今回は、歴史を分かりやすく解説する塾長の私が、「大坂の陣」について徹底的に解説します!語呂合わせやテストのポイントも紹介するので、ぜひ最後まで読んでくださいね。

大坂の陣をわかりやすく解説!戦いのきっかけと背景

大坂の陣は、1614年と1615年に起こった「豊臣家」と「徳川家」の最後の戦いです。この戦いによって豊臣家は滅亡し、日本は江戸時代という平和な時代に入ります。

では、大坂の陣はなぜ起こったのでしょうか?その理由と戦いの流れをわかりやすく解説します!

大坂の陣とは?簡単にわかりやすく解説

大坂の陣とは、豊臣家と徳川家が戦った合戦で、「冬の陣」と「夏の陣」の二回に分かれて行われました。

戦国時代が終わった後、天下を握った徳川家康は「もう豊臣家はいらない」と考え、豊臣家を滅ぼすために戦いを仕掛けたのです。

大坂の陣の結果、豊臣家は滅び、大坂城も落城しました。これにより、徳川幕府が260年以上続く時代が始まり、日本は戦争のない平和な時代に入りました。

大坂の陣が起こったきっかけは「方広寺鐘銘事件」

大坂の陣のきっかけは、「方広寺鐘銘事件」と呼ばれる出来事です。

豊臣家が再建した京都の方広寺の鐘には「国家安康」「君臣豊楽」という文字が刻まれていました。これを見た徳川家康は、「俺の名前を切り離している!これは徳川家を呪っている証拠だ!」と言いがかりをつけ、豊臣家を攻める口実を作りました。

本当のところは、徳川家康はただ豊臣家を滅ぼす理由が欲しかっただけかもしれませんね。

関ヶ原の戦い後、豊臣家と徳川家の関係はどうなっていた?

関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の石田三成が敗れた後、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。

しかし、豊臣家はまだ完全に滅びたわけではなく、大坂城に秀吉の息子・豊臣秀頼が残っていました。豊臣家の領地は関ヶ原の戦い後、大幅に減らされましたが、それでも豊臣家には多くの浪人たちが集まり、力を持ち続けていました。

このままでは「将来、豊臣家が復活してしまうかも?」と徳川家康は警戒していたのです。

徳川家康の巧妙な策略!豊臣家が追い詰められた経緯

徳川家康は、豊臣家を滅ぼすためにじわじわと追い詰めていきました。

まず、家康の孫・千姫を豊臣秀頼に嫁がせ、「お前たちはもう家族だから安心しなさい」と油断させました。そして、豊臣家が使うお金をどんどん減らし、浪人たちを集めるのを邪魔しました。

さらに、「方広寺鐘銘事件」を利用して、豊臣家を完全に孤立させ、戦うしかない状況へと追い込んでいったのです。

大坂冬の陣と夏の陣の違いとは?戦いの流れを解説!

大坂の陣は「冬の陣」と「夏の陣」の二回に分かれています。

  • 冬の陣(1614年): 豊臣軍は大坂城に籠城し、「真田丸」という砦を作って戦いました。真田幸村の活躍で徳川軍は苦戦しましたが、最終的に和議が結ばれました。この時、豊臣家は「大坂城の堀を埋める」という条件を飲まされました。
  • 夏の陣(1615年): 徳川家康は和議の後、大坂城の堀を全部埋めてしまいました。これで籠城戦ができなくなった豊臣軍は、やむを得ず野戦を選択。最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」で豊臣軍は敗れ、大坂城は焼け落ちました。豊臣秀頼と母・淀殿は自害し、豊臣家は滅亡しました。

この二つの戦いの違いは、冬の陣では「籠城戦」、夏の陣では「野戦」が行われたことです。

大坂の陣を分かりやすく解説:結果と影響

大坂の陣が終わった後、日本の歴史は大きく変わりました。徳川家は完全に天下を手に入れ、戦国時代は終わりを迎えました。

ここでは、大坂の陣の結末と、その後の日本の変化について詳しく解説します。

大坂の陣の結末!豊臣家はどうなった?

大坂夏の陣の最終決戦「天王寺・岡山の戦い」で豊臣軍は敗北しました。真田幸村(信繁)は最後まで奮闘しましたが、力尽きて討ち死にします。

大坂城の中では、徳川軍の攻撃により火災が発生し、炎に包まれる中、豊臣秀頼とその母・淀殿は自害しました。こうして、豊臣家は完全に滅亡し、戦国時代は終わったのです。

また、大坂城は焼け落ちた後、徳川幕府によって再建されましたが、豊臣家の痕跡はすべて消されてしまいました。

徳川家康はなぜ豊臣家を滅ぼしたかったのか

徳川家康が豊臣家を滅ぼしたのには、いくつかの理由があります。

  1. 豊臣家が復活する可能性があったから
     豊臣秀頼には、多くの浪人たちが味方していました。もし彼らが団結し、各地の大名が加われば、徳川幕府を倒す力を持つかもしれません。家康はその可能性を完全に潰したかったのです。
  2. 徳川幕府の安定を目指したから
     豊臣家が残っていると、大名たちは「いつか豊臣が復活するかも」と考え、徳川家に従わなくなる可能性がありました。
     家康は「徳川が日本の支配者だ!」と全国に示すためにも、豊臣家を完全に滅ぼす必要があったのです。
  3. 戦国時代を終わらせたかったから
     戦国時代は、100年以上も戦いが続いた時代でした。徳川幕府は、この戦乱の世を終わらせ、平和な時代を作ることを目標としていました。そのためには、豊臣家という「戦の火種」を消す必要があったのです。

大坂の陣の後:日本はどう変わった

大坂の陣が終わると、徳川家による統治が本格的に始まりました。
幕府は、全国の大名に対して強いルールを作り、戦を起こさせないようにしました。

主な変化は以下の3つです。

  1. 一国一城令(1615年)
     大名が持てる城は、領地に一つだけになりました。これによって、大名たちは大きな軍隊を持ちにくくなり、戦が起こりにくくなりました。
  2. 武家諸法度(1615年)
     大名たちが守らなければならないルールを決めました。「勝手に戦をしてはいけない」「幕府の許可なく城を修理してはいけない」など、戦国時代にはなかった厳しい決まりが作られました。
  3. 参勤交代の仕組み(1635年)
     大名たちは1年おきに江戸に行き、幕府に仕えなければならなくなりました。これによって、大名たちはお金をたくさん使うことになり、反乱を起こす余裕がなくなりました。

これらの政策によって、日本は260年間も平和な時代が続いたのです。

真田幸村の活躍!「日本一の兵」と呼ばれた理由とは?

大坂の陣で最も活躍した武将といえば、真田幸村(さなだゆきむら)です。

彼は少ない兵力で徳川軍を何度も撃退し、家康をあと一歩のところまで追い詰めました。そのため、後世の人々から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と呼ばれるようになりました。

真田幸村の戦い方の特徴は3つです。

  1. 知略に優れていた
     大坂冬の陣では、大坂城の弱点である南側に「真田丸」という砦を作り、徳川軍を撃退しました。
  2. 戦術がうまかった
     大坂夏の陣では、家康の本陣を奇襲し、大混乱を引き起こしました。家康は切腹を覚悟するほど追い詰められたといいます。
  3. 最後まで諦めなかった
     豊臣家が劣勢になっても、幸村は決して逃げず、最後まで戦い抜きました。その姿勢が、現代でも多くの人に感動を与えています。

大坂の陣をテストで覚える語呂合わせ

歴史のテストで「大坂の陣の年号を覚えられない…」という人のために、簡単な語呂合わせを紹介します!

  • 冬の陣(1614年)
     👉「イチ(1)ロク(6)一夜(14)で和議(冬の陣は講和で終結)」
  • 夏の陣(1615年)
     👉「イチ(1)ロク(6)イゴ(15)豊臣滅亡」

この語呂合わせを使えば、年号もスムーズに覚えられますね!

総括:大坂の陣をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

① 大坂の陣とは?

  • 1614年(冬の陣)と1615年(夏の陣)に行われた、豊臣家と徳川家の最後の戦い
  • 冬の陣は籠城戦夏の陣は野戦が主な特徴。
  • 豊臣家は滅亡し、徳川幕府が260年以上続く時代が始まった

② 大坂の陣のきっかけ

  • 「方広寺鐘銘事件」
     👉 豊臣家が京都・方広寺に建てた鐘の銘文に「国家安康(家康を分断)」「君臣豊楽(豊臣が君主)」と書かれ、家康がこれを口実に戦いを仕掛けた。
  • 関ヶ原の戦い後の徳川家と豊臣家の関係
     👉 豊臣家は領地を大幅に削られたが、浪人たちが集まり再起の可能性があった。
     👉 家康は「豊臣家が復活する前に滅ぼそう」と考え、計画的に追い詰めた。

③ 大坂冬の陣(1614年)

  • 豊臣軍は**「真田丸」**(真田幸村が築いた砦)を利用し、籠城戦で善戦。
  • 徳川軍は城を完全包囲し、大砲攻撃や心理作戦で圧力をかけた。
  • 最終的に講和が成立し、豊臣家は「大坂城の堀を埋める」ことを約束。

④ 大坂夏の陣(1615年)

  • 和議の後、徳川家は大坂城の堀をすべて埋め、籠城戦ができなくなった
  • 豊臣軍はやむを得ず野戦を決行し、「天王寺・岡山の戦い」で最終決戦。
  • 真田幸村が奮闘し、家康をあと一歩のところまで追い詰めるも討死
  • 大坂城が炎上し、豊臣秀頼と淀殿が自害し豊臣家は滅亡

⑤ 大坂の陣の結果と影響

  • 豊臣家の滅亡により、徳川幕府が確立し戦国時代が完全に終わる
  • 一国一城令(1615年):大名が持てる城を1つに制限し、戦争を防ぐ。
  • 武家諸法度(1615年):大名が守るべき厳しいルールを定め、幕府の支配を強化。
  • 参勤交代制度(1635年):大名が1年おきに江戸へ行く義務が生まれ、反乱を防止。

⑥ 真田幸村の活躍

  • 「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称されるほどの勇猛な戦い
  • 冬の陣では「真田丸」を築き、徳川軍を撃退
  • 夏の陣では家康本陣に突撃し、大混乱を引き起こすも討死