「徳政令」という言葉を聞いたことがありますか?日本の歴史の中で、何度も登場したこの制度は、一言でいうと「借金帳消しの法令」です。
その中でも、日本で初めて正式に出されたのが 「永仁の徳政令」です。
本記事では、永仁の徳政令とは何なのか、誰が何の目的でいつ出したのか、そしてなぜ失敗に終わったのかを塾長が分かりやすく解説します。
歴史が苦手な人でもすぐに理解できるように、ポイントを押さえて説明していきます!
徳政令とは?簡単にわかりやすく解説

永仁の徳政令は、1297年(永仁5年)に鎌倉幕府が出した法令 です。その目的は、経済的に困窮した御家人を救済し、幕府の統治を維持することにありました。しかし、結果的に失敗し、御家人の生活はさらに厳しくなります。
ここでは、「誰が」「いつ」「どんな目的で」この法令を出したのかを、詳しく見ていきましょう。
徳政令とは?簡単に説明すると「借金帳消し」の法令
徳政令とは、「借りたお金を返さなくてもよい」という命令のことです。
「徳政」 とは、もともと「善政(よい政治)」という意味があり、支配者が困っている人々を救うために発布しました。
鎌倉時代から室町時代、戦国時代まで、さまざまな場面で徳政令は出されました。その時代ごとに目的や影響は異なりますが、基本的な仕組みは「借金をなくす」「借金の担保となった土地を元の持ち主に戻す」というものです。
しかし、これは一見「借金がなくなってラッキー!」と思えますが、貸していた人たちにとっては大きな損害です。そのため、徳政令が出ると経済が混乱し、結果的に国や幕府が弱体化することが多かったのです。
永仁の徳政令はいつ出された?日本で最初の徳政令
永仁の徳政令は、1297年(永仁5年)に鎌倉幕府が発布した法令です。
日本の歴史上、初めて正式に「徳政令」として発布されたものであり、この後の時代にも影響を与えました。
なぜこの時期に徳政令が出されたのかというと、元寇(げんこう)という外国からの攻撃があった からです。元寇の影響で御家人たちは戦費を負担し、大変な経済的苦境に陥っていました。そのため、幕府は御家人を助けるために徳政令を出したのです。
永仁の徳政令は誰が何の目的で出した?
永仁の徳政令を出したのは、鎌倉幕府の9代執権・北条貞時(ほうじょう さだとき)です。彼の目的は、元寇で借金を抱えた御家人を救うことと、幕府の支配を維持することでした。
当時の鎌倉幕府は、「御恩と奉公(ごおんとほうこう)」という仕組みで成り立っていました。これは、将軍が御家人に土地(御恩)を与え、その代わりに戦争になったときは命をかけて戦う(奉公)という関係です。
しかし、元寇では敵の領地を奪うことができず、幕府は御家人に十分な恩賞を与えられませんでした。
このままでは、土地を失った御家人が幕府に反抗する可能性がありました。そのため、幕府は「借金帳消し」をして、御家人を助けようと考えたのです。
永仁の徳政令の内容を簡単に解説
永仁の徳政令の具体的な内容は、次のようなものでした。
- 御家人が売却・質入れした土地を無償で返還する。
- ただし、20年以上経過している場合は返還されない。
- 今後、新しく土地を売ったり、質入れすることを禁止する。
- 金融業者(土倉や酒屋)による債務訴訟を受理しない。
- 御家人以外の人(農民や商人)が買った土地も、元の持ち主に返す。
- 裁判での再審請求(越訴)を禁止する。
これらのルールを見ても、御家人を優遇する政策 であることが分かります。
しかし、金融業者からすれば「貸したお金が戻ってこない!」ということになり、大きな混乱を引き起こすことになりました。
語呂合わせで覚える:永仁の徳政令
歴史のテストでよく出る「永仁の徳政令」の年号を覚えるための語呂合わせを紹介します。
- 「いいにくいな(1297)、借金のこと…」
→ 「1297年に借金帳消しの法令が出された!」と覚えられる。 - 「えいにん(永仁)のとくせいれい、借金ゼロに」
→ 永仁の徳政令の内容をイメージしやすい!
年号を覚えることは、歴史の勉強でとても大事です。この語呂合わせを使えば、スムーズに暗記できるでしょう。
徳政令とは何か簡単に:目的や失敗に終わった理由

永仁の徳政令は、当初は御家人を救済するために出されましたが、結果的には 失敗に終わり、幕府の衰退を早める要因となりました。
ここでは、徳政令の効果や影響、なぜ失敗したのか、そして後の時代の徳政令との違いを詳しく解説していきます。
永仁の徳政令の効果は?一時的な救済策だった
永仁の徳政令が発布されると、土地を失った御家人たちは自分の所領を取り戻すことができ、一時的に生活が楽になりました。 しかし、この効果は長くは続きませんでした。
徳政令の影響で、土地を取り戻した御家人たちは、すぐに生活が安定するかと思いきや、むしろ逆の結果を招いてしまったのです。なぜなら、借金を帳消しにされた金融業者(土倉や酒屋)は、今後の貸し出しを控えるようになったからです。
つまり、今まで借金をしてでもなんとか生活していた御家人たちは、もうお金を借りることすらできなくなってしまいました。
また、幕府は 「今後は土地を売ったり、質入れすることを禁止する」 と決めましたが、御家人たちの生活は困窮したままです。結局、生活が苦しくなった御家人は、「徳政令の適用外にする」 という証文をつけて、再び土地を売るようになりました。これにより、永仁の徳政令の意味はほとんどなくなってしまいました。
なぜ永仁の徳政令は失敗したのか?
永仁の徳政令が失敗した理由はいくつかありますが、主な原因は以下の3つです。
- 根本的な問題解決にならなかった
- 徳政令によって御家人は土地を取り戻せましたが、収入源が増えたわけではありません。むしろ借金ができなくなったことで、ますます貧しくなりました。
- 金融業者の反発を招いた
- 徳政令によって貸したお金を回収できなくなった金融業者は、もう御家人にお金を貸さなくなりました。その結果、御家人は資金を得る手段を失い、さらに困窮することになったのです。
- 幕府の統制力が低下した
- 御家人の不満は増すばかりで、次第に幕府の支配力が弱まっていきました。この結果、鎌倉幕府は次第に衰退し、1333年に滅亡することになります。
つまり、永仁の徳政令は御家人を救うどころか、かえって幕府の力を弱める結果となってしまったのです。
室町時代・戦国時代の徳政令との違い
永仁の徳政令の失敗を見てもわかるように、徳政令は経済を混乱させるリスクを伴う制度でした。しかし、その後の時代でも室町時代や戦国時代には何度も徳政令が発布されました。
① 室町時代の徳政令
室町時代になると、幕府が主導して徳政令を発布するのではなく、民衆が徳政令を求めて一揆(徳政一揆)を起こすようになりました。例えば、1428年の 「正長の徳政一揆」 では、借金を帳消しにするよう求める農民や馬借(物流業者)が集団で暴動を起こし、幕府に圧力をかけました。
また、1441年には 「嘉吉の徳政一揆」 で京都の人々が幕府に徳政令を要求し、幕府がこれを認めざるを得ない状況になりました。
② 戦国時代の徳政令
戦国時代には、各地の戦国大名が領国経営のために独自に徳政令を発布しました。 例えば、武田信虎(武田信玄の父)は、領内の安定を図るために徳政令を出しました。また、北条氏康や今川氏真などの戦国大名も同様に徳政令を活用しました。
しかし、戦国時代の徳政令は、鎌倉時代や室町時代のものとは少し違いました。戦国大名は経済の混乱を防ぐため、「借金帳消しの代わりに一定の手数料を徴収する」 という工夫をしました。これを 「分一徳政令(ぶいちとくせいれい)」 と言います。
徳政令は現代の政策と似ている?
実は、徳政令と現代の経済政策には共通点があります。例えば、現代の「債務免除」や「金融支援策」 も、借金を帳消しにしたり、経済を立て直すために実施されることがあります。
しかし、現代では「いきなり借金を帳消しにする」といった極端な政策は取られません。なぜなら、歴史が証明しているように、一方的な借金帳消しは経済に悪影響を与えるからです。
例えば、新型コロナウイルスの影響で 「中小企業への無利子融資」 などが行われましたが、これもある意味「現代版の徳政令」と言えるかもしれません。
テストのポイント!永仁の徳政令の重要用語
歴史のテストでは、永仁の徳政令に関する用語がよく出題されます。 ここで重要な用語を整理しておきましょう。
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| 永仁の徳政令 | 1297年に鎌倉幕府が出した、日本初の正式な徳政令 |
| 北条貞時 | 永仁の徳政令を発布した9代執権 |
| 元寇(げんこう) | 1274年と1281年に元(モンゴル帝国)が日本に攻めてきた戦い |
| 御恩と奉公 | 鎌倉幕府と御家人の主従関係(土地を与える代わりに戦う) |
| 土倉・酒屋 | 鎌倉時代の金融業者 |
この表を押さえておくと、テスト対策もバッチリです!
総括:永仁の徳政令とは何か簡単に解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 徳政令とは?
- 「借金帳消し」の法令 で、土地や借金の返済を免除するもの。
- 支配者が困窮した人々を救済する目的で発布した。
- しかし、貸し手側の損失が大きく、経済混乱を招くことが多かった。
2. 永仁の徳政令はいつ出された?
- 1297年(永仁5年) に鎌倉幕府が発布。
- 日本で初めて正式な徳政令として施行された。
3. 永仁の徳政令を出したのは誰?目的は?
- 鎌倉幕府9代執権・北条貞時 が発布。
- 目的は、元寇で借金を抱えた御家人を救済し、幕府の支配を維持すること。
- 幕府は「御恩と奉公」の関係を守るために発布した。
4. 永仁の徳政令の内容
- 御家人が売却・質入れした土地を無償で返還。
- ただし、20年以上経過した場合は返還なし。
- 新たな土地の売却・質入れの禁止。
- 金融業者(土倉・酒屋)の債務訴訟を受理しない。
- 裁判の再審請求(越訴)を禁止。
5. 永仁の徳政令の語呂合わせ
- 「いいにくいな(1297)、借金のこと…」
- 「えいにん(永仁)のとくせいれい、借金ゼロに」
6. なぜ永仁の徳政令は失敗したのか?
- 根本的な解決にならなかった。
- 土地は戻っても、収入が増えず貧困状態は続いた。
- 金融業者が貸し渋り、経済が混乱した。
- 徳政令後、御家人はお金を借りられなくなった。
- 幕府の統制力が低下。
- 御家人の不満が増え、幕府の支配力が弱まった。
7. 室町・戦国時代の徳政令との違い
- 室町時代 では、民衆が徳政令を求めて「一揆」を起こすようになった(例:正長の徳政一揆、嘉吉の徳政一揆)。
- 戦国時代 では、大名が領国経営のために独自の徳政令を出し、「分一徳政令(手数料を払えば借金帳消し)」が登場。
8. 現代の経済政策との共通点
- 「債務免除」や「金融支援策」 などが、ある意味で徳政令と似ている。
- しかし、歴史の失敗を踏まえ、極端な借金帳消しは避けられている。
9. テストに出る重要用語
| 用語 | 説明 |
|---|---|
| 永仁の徳政令 | 1297年に鎌倉幕府が発布した日本初の正式な徳政令。 |
| 北条貞時 | 永仁の徳政令を発布した9代執権。 |
| 元寇 | 1274年と1281年、元(モンゴル帝国)が日本に侵攻した戦い。 |
| 御恩と奉公 | 幕府が御家人に土地を与え、御家人が幕府のために戦う関係。 |
| 土倉・酒屋 | 鎌倉時代の金融業者(高利貸し)。 |
