みなさんは「後白河天皇」という人物を知っていますか?平安時代の終わりから鎌倉時代の始まりにかけて活躍した天皇で、武士の力が強くなる中で、日本の歴史に大きな影響を与えた人物です。
彼は「日本一の大天狗」とも呼ばれ、貴族や武士を巧みに操りながら政治の中心に居続けました。
今回の記事では、「後白河天皇は何をした人なのか?」という疑問に分かりやすく答えます。さらに、彼にまつわる戦乱やエピソード、そして島流しに関する話まで、歴史の流れを追いながら解説していきます!
後白河天皇は何をした人なのか?簡単に解説

後白河天皇は、平安時代の末期に即位し、その後は「院政」と呼ばれる政治手法を用いて、長く権力を持ち続けました。彼は貴族や武士たちの対立を巧みに利用しながら生き延び、歴史の重要な場面に何度も登場します。
ここでは、そんな後白河天皇が関わった出来事を詳しく見ていきましょう!
後白河天皇の生涯と経歴をわかりやすく解説
後白河天皇は、1127年に生まれました。
本名は雅仁(まさひと)親王で、父は鳥羽法皇です。彼は1155年に天皇として即位しましたが、翌年には「保元の乱」が勃発し、兄の崇徳上皇と戦うことになります。戦いに勝利した後白河天皇は、わずか3年で退位し、院政を始めました。
その後も彼は政治の表舞台に立ち続け、平家や源氏といった武士たちをうまく操りながら権力を維持しました。しかし、時には自分の思惑が外れることもあり、平清盛によって幽閉されることもありました。最終的に1192年に亡くなりますが、彼の行動は日本の歴史に大きな影響を与えました。
保元の乱とは?後白河天皇が果たした役割
保元の乱は、1156年に起こった戦乱です。この戦いは、後白河天皇と兄・崇徳上皇が、それぞれの勢力を集めて皇位を争ったものでした。後白河天皇は藤原忠通や源義朝、平清盛と手を組み、兄の崇徳上皇に勝利します。
この戦いの結果、崇徳上皇は四国の讃岐へ流され、後白河天皇が実権を握ることになりました。この戦いは、武士が朝廷の争いに関与し始めた大きなきっかけとなり、日本の政治が武士中心へと変わる重要な出来事だったのです。
平治の乱とは?平清盛との関係を解説
保元の乱の後、後白河天皇は「院政」を開始しました。
しかし、すぐに「平治の乱」という新たな戦乱が起こります。この戦いでは、藤原信頼という貴族が後白河天皇を利用して平清盛と対立しました。しかし、最終的に平清盛が勝利し、藤原信頼は処刑されました。
この戦いをきっかけに、平清盛が政権を握ることになり、武士の力がますます強まることになります。後白河天皇はしばらくの間、平清盛に従うしかなくなりました。
後白河天皇と源頼朝の対立と和解
1180年、後白河天皇は源頼朝を討つよう命じました。しかし、頼朝は関東で勢力を広げ、最終的には後白河天皇を超える力を持つようになります。その後、頼朝は鎌倉幕府を開く準備を進める中で、後白河天皇と対立します。
また、後白河天皇は頼朝の弟・源義経を重用し、頼朝をけん制しようとしました。しかし、この作戦は失敗し、義経は追われる身となります。頼朝と後白河天皇の対立は続きましたが、最終的に頼朝が権力を握り、後白河天皇は政治の中心から退いていきました。
後白河天皇の院政と影響、彼が残したもの
後白河天皇は、日本の歴史の中でも特に長く権力を握った天皇の一人です。彼は「院政」という政治手法を使い、退位後も実権を持ち続けました。
また、彼は武士の勢力をうまく利用しながら、自分の地位を守り続けました。
彼の統治スタイルは、後の時代にも影響を与え、鎌倉幕府成立の布石となりました。さらに、後白河天皇は音楽にも関心があり、特に「今様(いまよう)」という歌を好んだことで知られています。
後白河天皇は何した人か:エピソードや島流しの実態

後白河天皇は、政治の世界で数々の策略をめぐらせた一方で、彼にまつわる興味深いエピソードも多く残っています。
彼が「日本一の大天狗」と呼ばれた背景や、音楽好きとしての一面、さらには流罪(島流し)にまつわる逸話まで、後白河天皇の人となりを知る手がかりとなるエピソードを紹介します。
「日本一の大天狗」とは?後白河天皇がそう呼ばれた理由
後白河天皇は「日本一の大天狗」と称されることがありました。
これは、彼の巧みな政治手法と権謀術数(けんぼうじゅつすう)に満ちた行動に由来しています。この言葉を使ったのは源頼朝で、後白河天皇があまりにも策をめぐらせるため、まるで妖怪・天狗のようだと評したのです。
後白河天皇は、貴族・武士の勢力を自由自在に操り、時には同盟し、時には裏切ることで生き延びました。平清盛や源頼朝といった武士たちをうまく利用し、決して完全に権力を失うことなく生き続けた点が「大天狗」と言われる理由です。
後白河天皇と「今様」—音楽好きな天皇の一面
後白河天皇は音楽を愛し、「今様(いまよう)」と呼ばれる当時の流行歌を好んでいました。彼は「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という今様の歌集を編纂し、多くの詩を残しました。
今様は、庶民の間で流行していた歌謡で、雅楽とは違い、より自由で感情を込めて歌われるものでした。
貴族社会ではあまり評価されていませんでしたが、後白河天皇はこの新しい文化に強く興味を持ち、積極的に学んだと伝えられています。政治の世界では策略家だった彼ですが、一方で芸術を愛する繊細な面も持っていたのです。
平清盛に幽閉された後白河天皇の運命
後白河天皇は、院政を敷いて権力を持ち続けましたが、1180年代になると平清盛との対立が激しくなります。特に「鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」では、後白河天皇が平清盛の打倒を計画していたことが発覚し、清盛の怒りを買いました。
その結果、1179年に後白河天皇は平清盛によって幽閉され、院政を停止されてしまいます。
幽閉中の後白河天皇は、かつてのように自由に政治を動かすことができず、苦しい時期を過ごしました。しかし、1181年に平清盛が死去すると、再び権力を握ることになります。このエピソードからも、彼のしぶとさがよく分かりますね。
後白河天皇と源義経の関係—頼朝との確執の原因に?
後白河天皇は、源義経を非常に気に入っていました。義経は源頼朝の弟であり、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした名将です。しかし、頼朝と義経の関係は次第に悪化し、義経は鎌倉から逃れることになります。
このとき、後白河天皇は義経を庇護し、頼朝に対抗しようとします。しかし、最終的には義経は追われる身となり、奥州藤原氏のもとへ逃げ込むものの、悲劇的な最期を迎えてしまいました。
後白河天皇の義経擁護は、頼朝にとって大きな怒りの対象となりました。これがきっかけで、後白河天皇と頼朝の対立が決定的になったとも言われています。
後白河天皇の晩年と死後の影響—鎌倉幕府成立の布石に
後白河天皇は、1185年に平家が滅亡した後も政治の中枢にいましたが、源頼朝の勢力が強まるにつれ、次第に権力を失っていきます。
頼朝は、武士による新しい政権を作ろうと考えており、後白河天皇が亡くなった1192年には、「征夷大将軍」として正式に鎌倉幕府を開きました。このように、後白河天皇の死後、政治の中心は完全に武士へと移り変わり、日本の歴史は大きく変化していったのです。
後白河天皇の生涯は、まさに「時代の変わり目」を象徴するものだったといえるでしょう。
総括:後白河天皇は何した人かを簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 平安時代末期に即位し、3年で退位後「院政」を開始
- 1127年生まれ、1155年に即位。1158年に退位し院政を敷く。
- 保元の乱(1156年)で兄・崇徳上皇と対立し勝利
- 崇徳上皇を流罪にし、政治の実権を握る。
- 平治の乱(1159年)で平清盛が台頭
- 後白河天皇は清盛と協力するが、次第に対立。
- 平清盛との確執により1179年に幽閉される
- 「鹿ヶ谷の陰謀」に関与し、清盛によって院政を停止される。
- 1185年に平氏が滅亡すると、源義経を庇護し源頼朝と対立
- 義経を頼朝に対抗する駒として利用したが、失敗。
- 源頼朝の勢力拡大により、最終的に権力を失う
- 1192年、後白河天皇が死去。その後、頼朝が鎌倉幕府を開く。
- 「日本一の大天狗」と呼ばれるほどの策略家
- 武士や貴族を巧みに操り、長く政治の中心に居続けた。
- 「今様」などの音楽を愛した文化人の一面も持つ
- 『梁塵秘抄』を編纂し、芸術に強い関心を持つ。
- 結果として、武士の台頭を促し、鎌倉時代の礎を築いた
- 彼の統治が、日本の歴史の大きな転換点となった。
