こんにちは、歴史をやさしく教える塾長です。今日は「ラストエンペラー」として有名な愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の「子孫」について、分かりやすくお話ししていきますよ。
清王朝の最後の皇帝だった溥儀。映画などでも有名ですが、
「彼には子どもがいたの?」
「その子孫は今どうしてるの?」
と気になる人も多いはずです。
実は、彼には子どもはいませんでした。でも、弟や親族には子どもや孫がいて、今も日本や中国で生活しています。では、くわしく見ていきましょう。
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愛新覚羅溥儀の子孫の現在!ラストエンペラーの家族事情
清王朝最後の皇帝として知られる愛新覚羅溥儀。皇帝といえばたくさんの妃がいて、子どもがいそうなイメージですが、実際のところはどうだったのでしょうか?
ここでは、溥儀の家族関係や、なぜ子孫を残せなかったのかを詳しく見ていきます。
実子はいない!5人の妻との関係と子どもを持たなかった理由
結論から言うと、溥儀には実の子どもはいませんでした。溥儀は生涯で5人の女性と結婚していますが、どの妻との間にも子どもはできなかったのです。
最初の正室・婉容(えんよう)はアヘン中毒になり、心を通わせることはできませんでした。2人目の文繡(ぶんしゅう)とは早くに離婚。3人目の譚玉齢(たんぎょくれい)は病死、4人目の李玉琴(りぎょくきん)とも離縁。
そして最後の妻・李淑賢(りしゅくけん)とは仲睦まじかったものの、結婚時にはすでに年齢的に子どもを望むのは難しい時期でした。
こうして、溥儀は一人の子どもも残すことなく人生を終えたのです。
婉容の私生児説とその悲劇とは?皇室にまつわる闇のエピソード
実子がいなかったとされる溥儀ですが、実は「私生児がいたのではないか?」という説もあります。その人物とは、最初の皇后である婉容が産んだとされる子どもです。
当時の満洲国では、婉容が中国人の愛人との間に子どもをもうけたという噂が広まりました。しかし、その子どもは生まれてすぐ、溥儀の命令によって“始末された”という悲しいエピソードが語られています。
この話が本当かどうかは定かではありませんが、溥儀は自伝で婉容について「許しがたいことがあった」とだけ書いており、その背景には皇室の名誉や秘密が深く関わっていたのかもしれません。
なぜ子孫を残せなかったのか?同性愛や性機能障害の噂
「どうして溥儀は子どもを作れなかったのか?」という疑問には、いくつかの説があります。その一つが性機能の障害や同性愛の傾向です。
義妹の嵯峨浩は「溥儀は同性愛者だったのでは」と話しており、また最後の妻・李淑賢は「彼は不能だった」と証言しています。さらに、溥儀が子どもの頃に宦官から性的な虐待を受けたという説もあり、それがトラウマになっていたとも言われています。
これらはあくまで説の一つですが、いずれにせよ、皇帝でありながら子をなすことができなかった事実が、彼の人生に大きな影を落としていたことは間違いありません。
最後の妻・李淑賢との愛と結婚生活に子どもはいたのか
溥儀がもっとも穏やかに過ごせたのは、最後の妻・李淑賢との生活だったと言われています。彼女とは恋愛結婚で、心から理解し合える関係でした。
ふたりは北京市内のアパートで普通の夫婦として暮らし、散歩をしたり、買い物に行ったりしていたそうです。しかし、結婚当時の年齢は溥儀が56歳、李淑賢が37歳。お互いに高齢であり、子どもを持つには遅すぎたのです。
そのため、この結婚でも子どもは生まれず、溥儀はやはり子孫を残すことはありませんでした。
溥儀の兄弟姉妹や親族には子孫がいる!清朝の血を引く一族の広がり
溥儀自身に子どもはいませんでしたが、実の弟や妹たちの家系には子孫が存在します。特に有名なのが、弟・溥傑(ふけつ)の家系です。
溥傑は日本の華族・嵯峨浩(さが ひろ)と結婚し、2人の娘をもうけましたこの家系が現代に続く「清朝皇族の末裔」として知られており、皇帝の血を引く人びとが今も存在しているのです。
また、清の王族「愛新覚羅一族」は広範囲にわたっており、中国国内や日本にも親族がいます。その中には医師や学者など、立派に活躍する人物もいるのです。
愛新覚羅溥儀の子孫の現在:日本と中国で生きる末裔たち
ここからは、溥儀の実子ではなく、弟・溥傑の子孫たちを中心に、現在も生きる「ラストエンペラーの末裔たち」について詳しく解説していきます。彼らの人生や今の様子から、清朝という歴史の延長線上にある“現代の物語”が見えてきますよ。
娘・慧生と嫮生とは?日本人皇族とのつながり
溥儀の弟・溥傑は、日本の華族出身である嵯峨浩(さが ひろ)さんと結婚しました。つまり、日本の皇室ともゆかりのある家系だったのです。
二人の間には2人の娘が生まれました。長女が慧生(えいせい)さん、次女が嫮生(こせい)さんです。この2人が、今も語り継がれる“ラストエンペラーの血を引く子孫”なのです。
特に嫮生さんは、日本国籍を取得して「福永嫮生(ふくなが こせい)」として日本で家庭を持ちました。彼女の子どもたちが、現在の「清朝の末裔」ということになります。
天城山心中事件で注目された長女・慧生の悲劇的な生涯とは
慧生さんは、溥傑と嵯峨浩の長女として1938年に誕生しました。とても才女で、学習院大学に通い、文学を学んでいました。
しかし1957年、恋人の大久保武道さんと共に静岡県の天城山で心中する事件が起き、わずか19歳で命を絶つという悲劇に見舞われました。これが後に「天城山心中事件」として報道され、大きな話題となりました。
当時の報道では、皇族との結びつきを持つ女性が命を絶ったことが衝撃として広がり、多くの人々が清王朝の末裔という運命の重さを感じたのです。
日本に帰化した次女・嫮生の現在と子孫たちの活躍とは?
次女の嫮生さんは慧生さんの後、日本に帰化し、1968年に日本人の男性と結婚しました。夫は嵯峨家とも関わりの深い福永家の方で、2人の間には5人の子どもが誕生しました。
現在、嫮生さんは兵庫県西宮市で健在とされており、静かに暮らしているようです。また、子どもたちは一般人として育ち、医師や会社員など、社会の中で自分の道をしっかりと歩んでいます。
溥儀自身に子どもはいませんでしたが、この嫮生さんの家系こそが「清朝の血を現代に受け継いでいる一族」として注目されています。
眼科医・愛新覚羅維(い)先生の正体:ラストエンペラーの末裔
最近話題になっているのが、眼科医・愛新覚羅 維(い)先生です。この先生は、東京・大井町でクリニックを開業している眼科医で、ネットでも「ラストエンペラーの末裔では?」と話題になりました。
愛新覚羅姓を名乗っていることから、清朝の皇族の流れを汲む可能性が高いとされています。実際、名古屋大学医学部を卒業し、東大で医学博士を取得という優秀な経歴を持ち、3人の子育てと医師業を両立しているすごい人物です。
ご本人は「ただの普通の医師です」と語っていますが、歴史の中から現代に繋がる一族が、医療の世界で活躍しているというのはとても感慨深いですね。
愛新覚羅姓はどれほど残っているのか?中国・日本での分布とその意味
では、現在「愛新覚羅姓」を名乗る人はどのくらいいるのでしょうか?愛新覚羅という名字は、もともと清朝皇族のものなので、非常に珍しい姓です。
現在でも中国の東北地方や北京には数十名単位で存在しており、一部は一般市民として暮らしています。また、日本にも数名が在住しており、嫮生さんの家系や維先生のように活躍している人もいます。
愛新覚羅という名字は、単なる名前ではなく、歴史の重みや文化的アイデンティティを象徴する存在です。だからこそ、今も多くの人がその動向に注目しているのです。
総括:愛新覚羅溥儀の子孫の現在まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 愛新覚羅溥儀には実子(子ども)はいなかった
- 溥儀は5人の妻と結婚したが、どの妻との間にも子どもは生まれなかった
- 最初の妻・婉容には私生児がいたという説があるが、真偽は不明
- 子どもを残せなかった理由として、同性愛説や性機能障害説がある
- 溥儀と最後の妻・李淑賢との間にも子どもはいない
- 弟・溥傑には2人の娘(慧生と嫮生)がいた
- 長女の慧生は天城山心中事件で19歳で死亡
- 次女の嫮生は日本に帰化し、5人の子どもをもうけた
- 嫮生の家系が、現在に続く「清朝の末裔」とされている
- 東京で眼科医として活躍する愛新覚羅 維(い)先生も末裔の1人とされている
- 「愛新覚羅」姓は今も中国や日本に数十人規模で存在しており、一部は医師や学者などとして活躍中
