豊臣秀吉は「バテレン追放令」という命令を出して、キリスト教の宣教師を日本から追い出そうとしました。
でも、この命令はうまくいかず、キリシタン(キリスト教信者)の数は増えてしまいました。どうしてそんなことが起きたのでしょうか?
今回は、バテレン追放令が出された理由や、なぜ失敗したのか、そしてその後の日本でキリスト教がどうなっていったのかを、わかりやすく解説します!歴史のテストにも役立つので、ぜひ最後まで読んでくださいね。
バテレン追放令をわかりやすく解説!目的・内容・背景

バテレン追放令は、1587年に豊臣秀吉が出した命令です。「バテレン」とは、ポルトガル語の「パードレ(神父)」が日本語で変化した言葉で、キリスト教の宣教師を意味します。
この命令によって、キリスト教の宣教師は日本から追い出されることになりました。しかし、実際にはこの命令がしっかりと守られることはなく、キリスト教の布教活動は続いてしまいました。
バテレン追放令とは?簡単にわかりやすく解説
バテレン追放令とは、豊臣秀吉がキリスト教の宣教師を日本から追放するために出した命令です。
もともと、日本には1549年にフランシスコ・ザビエルが来て以来、キリスト教が広まっていました。多くの大名や庶民がキリスト教を信じるようになり、九州を中心にキリスト教の勢力が大きくなっていきました。
しかし、秀吉は次第にキリスト教を警戒するようになり、1587年6月18日に「11か条の覚書」、翌日に「5か条の文書」を発布しました。
この命令では、宣教師の国外追放が決められましたが、大名や庶民がキリスト教を信じること自体は禁止されませんでした。さらに、貿易は続けることが許されたため、実際には宣教師が日本に残り続けることになりました。
バテレン追放令が出された3つの理由とは?
バテレン追放令が出された理由はいくつかありますが、特に重要なのは次の3つです。
①キリスト教の広がりを警戒
キリスト教は、当時の日本にとって新しい宗教でしたが、信者がどんどん増えていきました。一向宗(一向一揆)など、宗教による反乱が起こっていた時代だったので、秀吉は「キリスト教徒が団結して反乱を起こすのではないか」と心配したのです。
②日本の植民地化を懸念
ポルトガルやスペインは、世界中の国を次々と植民地にしていました。キリシタン大名の大村純忠が長崎の土地をイエズス会(キリスト教の団体)に寄付したことで、秀吉は「日本も支配されるかもしれない」と考え、警戒しました。
③奴隷貿易の横行
当時、日本人がポルトガル人によって奴隷として海外に売られていたことが問題になっていました。特に、九州では多くの人が海外へ連れて行かれていました。秀吉はこれを知って激怒し、キリスト教を禁止しようと考えたのです。
バテレン追放令の内容と影響を簡単に解説
バテレン追放令の内容は以下のようになっています。
- 宣教師の国外追放
- 大名のキリスト教信仰は禁止(秀吉の許可が必要)
- 庶民の信仰は自由
- 南蛮貿易は引き続き許可
この命令によって、日本各地の教会やキリスト教の学校が破壊されました。しかし、貿易は続いていたため、キリスト教の宣教師は密かに日本に残り、布教活動を続けました。
その結果、キリスト教徒の数は減るどころか増えてしまいました。
バテレン追放令はなぜ不徹底だったのか?
バテレン追放令が出されたのに、なぜキリスト教が広まり続けたのでしょうか?その理由は次の3つです。
①貿易と布教が結びついていた
ポルトガルやスペインの商人は、日本で南蛮貿易を行っていました。この貿易が続く限り、商人にまぎれて宣教師も日本に来ることができたのです。
②信仰の自由が認められていた
庶民がキリスト教を信じることは自由だったため、多くの人々がキリスト教を信仰し続けました。
③宣教師がこっそり布教活動を続けた
宣教師たちは、日本各地に隠れながら布教活動を続けました。特に、キリシタン大名の支援を受けていたため、秘密裏に布教が行われました。
バテレン追放令と禁教令の違いをわかりやすく解説
バテレン追放令と、後に出された「禁教令」には大きな違いがあります。
バテレン追放令(1587年)
- 宣教師の追放が目的
- 庶民の信仰は自由
- 貿易は続けることができた
禁教令(1612年・1614年)
- キリスト教そのものを全面禁止
- 宣教師だけでなく、信者も迫害される
- キリシタン大名は領地を没収され、信仰を捨てるよう強制された
バテレン追放令はそれほど厳しくなかったため、キリスト教は広まり続けました。
しかし、江戸幕府がキリスト教を本格的に禁止し、厳しい取り締まりを始めることで、キリシタンたちは「隠れキリシタン」として信仰を続けるしかなくなったのです。
バテレン追放令をわかりやすく:失敗の理由とキリシタン増加の背景

バテレン追放令は、キリスト教の広がりを止めるためのものでしたが、結果的には逆効果となり、キリシタン(キリスト教信者)の数が増えてしまいました。
なぜこの命令は失敗し、キリスト教が広まり続けたのでしょうか?
ここからは、バテレン追放令がうまくいかなかった理由や、キリスト教が根強く残った背景を詳しく解説していきます。
バテレン追放令の失敗理由①貿易と布教が切り離せなかった
バテレン追放令が不徹底だった最大の理由は、キリスト教の布教と南蛮貿易が密接に結びついていたことです。
当時、日本と貿易をしていたヨーロッパの国は、ポルトガルやスペインでした。これらの国はカトリックを信仰しており、貿易を行う際に必ず宣教師を伴っていました。つまり、貿易を続ける限り、宣教師も日本にやってくることが避けられなかったのです。
さらに、貿易の利益を求めた大名たちは、宣教師の追放には消極的でした。秀吉は貿易そのものを禁止するわけにはいかなかったため、結果的に宣教師が日本に残り続けることになりました。このように、貿易と布教を完全に切り離すことができなかったことが、バテレン追放令の失敗につながったのです。
バテレン追放令の失敗理由②宣教師が潜伏し布教を継続
バテレン追放令が出された後も、多くの宣教師が日本国内に潜伏し、布教活動を続けました。なぜ彼らは国外へ逃げなかったのでしょうか?
① 秘密裏に布教を続けた
バテレン追放令では「宣教師を国外に追放する」と決められましたが、実際には徹底されず、各地で密かに布教活動が行われました。多くのキリシタン大名が宣教師を保護し、彼らの活動を支援していたため、宣教師たちは安全に潜伏することができました。
② 一般の庶民には信仰の自由があった
バテレン追放令では、大名のキリスト教信仰は禁止されましたが、庶民に対する信仰の禁止はありませんでした。そのため、一般の人々はキリスト教を信じ続け、宣教師の布教活動も容易に行えたのです。
③ 宣教師たちの熱意
宣教師たちは、日本での布教に強い使命感を持っていました。彼らは迫害を受けながらも、日本各地で布教を続け、多くの人々をキリシタンへと改宗させました。その結果、キリスト教はさらに広がり、バテレン追放令の効果はほとんどなくなってしまいました。
キリシタンが増え続けた理由① 宣教師の影響力と庶民の受け入れ
バテレン追放令が出された後も、なぜキリシタンが増え続けたのでしょうか? その背景には、宣教師の影響力と庶民の信仰心がありました。
① キリスト教は庶民に希望を与えた
戦国時代は戦や飢饉が続き、多くの庶民が苦しい生活を送っていました。そんな中で、キリスト教は「全ての人は神に愛されている」という考えを伝え、多くの人々の心をつかみました。これまでの宗教では救われなかった人々が、キリスト教に希望を見出し、信仰を深めていったのです。
② 教育や福祉活動が行われた
宣教師たちは単に宗教を広めるだけでなく、学校を作って読み書きを教えたり、病院を開いて病気の人を治療したりしました。こうした活動によって、キリスト教は「ただの宗教」ではなく、人々の生活に役立つものとして受け入れられました。
③ キリシタン大名の影響
大名の中には、自らキリスト教に改宗し、領地内でキリスト教を広める者もいました。有馬晴信や大村純忠、大友宗麟などのキリシタン大名が領内で布教を支援したため、多くの人々がキリスト教を信仰するようになったのです。
キリシタンが増え続けた理由② 日本の政治情勢と禁教令の強化
バテレン追放令ではキリスト教の広がりを止めることができませんでしたが、江戸時代に入ると状況が大きく変わります。徳川幕府が「禁教令」を発布し、キリスト教を完全に禁止したのです。
① 徳川家康の対応
家康は政権を安定させるために、最初はキリスト教を黙認していました。しかし、キリスト教が幕府の支配を揺るがす可能性があると判断し、1612年に直轄地で禁教令を出し、1614年には全国での布教を禁止しました。
② 取り締まりの強化
キリシタンを見つけるために「踏み絵」が行われ、信者は厳しく弾圧されるようになりました。それでも、一部のキリシタンは地下に潜伏し、信仰を続ける「隠れキリシタン」となりました。
③ 島原の乱の影響
1637年、長崎でキリシタンを中心とした農民反乱「島原の乱」が起こりました。この事件をきっかけに、幕府はキリスト教を徹底的に弾圧し、日本におけるキリスト教の公の活動は完全に終わりを迎えました。
バテレン追放令が日本史に与えた影響とは?
バテレン追放令は、日本の歴史に大きな影響を与えました。その影響を3つにまとめると、次のようになります。
① 隠れキリシタンの誕生
幕府の弾圧を逃れるため、一部のキリシタンは「隠れキリシタン」として密かに信仰を続けました。彼らは250年以上の間、秘密裏にキリスト教の教えを守り続けました。
② 日本の鎖国政策
キリスト教が日本に与える影響を警戒した幕府は、1639年に鎖国政策を実施しました。これにより、ポルトガルとの国交が断たれ、キリスト教の布教活動も完全に禁止されました。
③ 明治時代の解禁
明治時代(1873年)になって、ようやくキリスト教の信仰が許されました。その後、多くの修道士が来日し、日本でのキリスト教の復興が始まりました。
総括:バテレン追放令をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- バテレン追放令とは?
- 1587年に豊臣秀吉が出したキリスト教の宣教師(バテレン)を日本から追放する命令。
- ただし、庶民の信仰は自由で、貿易も続けることが許された。
- バテレン追放令が出された3つの理由
- キリスト教の広がりを警戒
- 宗教的な団結が、一向一揆のような反乱につながることを恐れた。
- 日本の植民地化を懸念
- ポルトガルやスペインの影響力が強まり、日本が支配される危険を感じた。
- 奴隷貿易の横行
- 多くの日本人が海外へ奴隷として売られていたことを知り、秀吉が激怒。
- キリスト教の広がりを警戒
- バテレン追放令の内容と影響
- 内容
- 宣教師の国外追放、大名のキリスト教信仰禁止(庶民の信仰は自由)、貿易は継続。
- 影響
- 一部の教会が破壊されたが、宣教師の活動は続き、キリシタンの数は減らなかった。
- 内容
- バテレン追放令が失敗した3つの理由
- 貿易と布教が結びついていた
- 宣教師が商人と一緒に来日し、布教活動を続けた。
- 信仰の自由が認められていた
- 庶民の信仰は自由だったため、キリシタンが増加。
- 宣教師が潜伏して布教を継続
- キリシタン大名の支援を受けながら、密かに布教活動が続いた。
- 貿易と布教が結びついていた
- バテレン追放令と禁教令の違い
- バテレン追放令(1587年)
- 目的:宣教師の追放(庶民の信仰は自由、貿易継続)
- 禁教令(1612年・1614年)
- 目的:キリスト教そのものを全面禁止(信者の迫害、踏み絵、国外追放)
- バテレン追放令(1587年)
- キリシタンが増え続けた背景
- 宣教師の影響力と庶民の受け入れ
- キリスト教が希望を与え、学校や病院の設立で支持を得た。
- 江戸幕府の対応と禁教令の強化
- 徳川家康以降、幕府がキリスト教を厳しく取り締まり、弾圧を開始。
- 宣教師の影響力と庶民の受け入れ
- バテレン追放令が日本史に与えた影響
- 隠れキリシタンの誕生
- 幕府の弾圧を逃れるため、密かに信仰を続けた。
- 日本の鎖国政策の実施
- 1639年にポルトガルとの国交を断ち、キリスト教の布教を完全に禁止。
- 明治時代のキリスト教解禁(1873年)
- 250年ぶりにキリスト教の信仰が許され、多くの宣教師が来日。
- 隠れキリシタンの誕生
