「曾根崎心中」や「国性爺合戦」といった物語を聞いたことがありますか?
これらを作ったのが、江戸時代の有名な劇作家・近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)です。彼は浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)の脚本を書き、多くの人々を魅了しました。
そんな近松門左衛門ですが、どのように最期を迎えたのでしょうか?「近松門左衛門 死因」と検索すると、「病死」といった情報が出てきます。でも、それだけではなく、当時の時代背景や彼の晩年の暮らしについても知ると、もっと深く理解できますよ。
今回は、近松門左衛門の 死因や最期の様子、そして彼が生きた時代の出来事をわかりやすく解説していきます。
近松門左衛門の死因とは?最期の様子を詳しく解説

近松門左衛門の死因について、なぜ彼が病死したのか、そしてその最期の瞬間がどのように過ごされたのかを詳しく見ていきます。
江戸時代の劇作家として名を馳せた彼の最後の瞬間は、彼の生き様とどんな関係があるのでしょうか?
近松門左衛門の死因は病死!慢性気管支炎による衰弱
近松門左衛門の死因は「慢性気管支炎」でした。気管支炎とは、のどの奥にある「気管支」が炎症を起こし、せきや息苦しさが続く病気です。現在の医学では治療できる病気ですが、当時は薬や医療の発達が遅れていたため、長く苦しんだといわれています。
また、彼は執筆活動を続けながらも体力を消耗し、次第に弱っていきました。1724年(享保9年)に亡くなり、72歳で生涯を終えます。江戸時代では高齢の部類に入る年齢でした。
晩年は体調を崩しながらも筆を止めず、死の直前まで作品を書いていたとされています。作家としての情熱が最後まで衰えなかったのですね。
72歳は江戸時代では長寿!当時の平均寿命と比較
江戸時代の平均寿命は30~40歳ほどだったといわれています。つまり、近松門左衛門が72歳まで生きたというのは、かなりの長生きだったことがわかります。
なぜそんなに長生きできたのでしょうか?その理由の一つとして考えられるのが「生活習慣」です。江戸時代の人々は、現在のように加工食品を食べることが少なく、基本的に野菜や魚、玄米などの健康的な食事をしていました。さらに、薬草を使った漢方などが身近にあり、自然の力で健康を保とうとしていました。
また、近松門左衛門は武士の家に生まれたため、若い頃から体を鍛えたり、健康に気を使う習慣があったのかもしれません。
近松門左衛門の晩年の病状とは?衰弱していた生活
近松門左衛門は晩年になってから体調を崩しやすくなったとされています。それでも彼は筆を止めず、最後まで執筆活動を続けていました。
彼の生活を支えたのは、大阪の竹本座(たけもとざ)という劇場でした。竹本座は、彼の作品を上演するための劇場であり、彼の才能を支えた重要な場所です。
しかし、年齢を重ねるにつれて病気が悪化し、長時間の執筆が難しくなりました。周囲の人々が近松を支えながら、彼の仕事を手伝っていたといわれています。
享保9年の大阪大火で避難!仮住まいで亡くなった理由
近松門左衛門が亡くなる1年前の1723年(享保8年)に、大阪で大規模な火災が発生しました。この火災は「大阪大火(おおさかたいか)」と呼ばれ、街の多くが焼けてしまいました。
この大火の影響で、近松門左衛門は竹本座の近くから避難しなければなりませんでした。その後、天満(てんま)という場所に仮住まいをすることになり、そこで病気が悪化して亡くなったのです。
火災がなければ、もっと長生きできたかもしれませんね。
辞世の句に込められた意味!最後の言葉から読み解く死生観
近松門左衛門は辞世の句(じせいのく)を残しています。それがこちらです。
「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間徒なる 朽木書きして」
これは、「自分の作品が残るかどうかなんて考えるのは無意味なことだ。自分が書いてきたものは、ただの燃え尽きる木のようなものだ」という意味です。
この言葉からわかるのは、近松門左衛門は作品が未来に残るかどうかを気にしていなかったということです。しかし、実際には彼の作品は300年以上経った今も演じられ、歴史に残る偉大な劇作家となっています。
近松門左衛門の死因の後に:晩年と社会への影響

近松門左衛門の晩年は、健康の衰えと共に過ごされました。しかし、彼の作品への情熱は衰えることはなく、その影響力は今もなお残っています。
ここでは、彼がどのように過ごし、その作品が江戸社会にどんな影響を与えたのかを詳しく探ります。
晩年も創作意欲は衰えず!代表作『国性爺合戦』とその影響
近松門左衛門の晩年は、病気がちだったとはいえ、創作意欲は全く衰えませんでした。 彼が65歳の頃に発表した 『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』 は、日本中で大ヒットしました。
この作品は、明(中国)の武将である鄭成功(ていせいこう)の活躍を描いた物語です。鄭成功は、満州族に滅ぼされた明を復活させるために戦った実在の人物で、日本人の母を持っていました。この物語は、日本だけでなく中国でも有名になり、文化交流のきっかけにもなりました。
また、この作品は17か月連続で上演されるという記録を打ち立て、多くの人々を魅了しました。近松門左衛門の影響力が、いかに大きかったかがわかりますね。
近松門左衛門と心中ブーム!江戸幕府が取り締まるほどの影響力
近松門左衛門の代表作の一つである 『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』 は、大阪で実際に起きた心中事件をもとにした物語です。この作品が発表されると、町人の間で心中(しんじゅう)ブームが巻き起こりました。
この時代、恋愛は親や家の事情によって決められることが多く、自分の意思で結婚できる人は少なかったのです。そのため、恋人たちは「死んででも一緒になりたい」と考えることが多く、心中が社会問題になりました。
江戸幕府は、この事態を深刻に受け止め、享保8年(1723年)に心中をテーマにした芝居や本を禁止する命令 を出しました。つまり、近松門左衛門の作品が社会全体に与えた影響は、国の法律を変えるほど大きかったということです。
歌舞伎や浄瑠璃の地位向上!芸能の世界が発展するきっかけに
近松門左衛門が活躍した時代、歌舞伎や浄瑠璃は「下層階級の娯楽」と見られ、上流階級の人々はあまり関心を持っていませんでした。しかし、彼の作品が大ヒットし、人々が感動するようになると、次第に 文化としての価値が認められるようになりました。
とくに、浄瑠璃はそれまで「単なる人形劇」と思われていましたが、近松の作品によって、感動を呼ぶ深い物語が生まれる芸術へと進化しました。そのため、江戸時代中期以降、歌舞伎や浄瑠璃は文化の一つとして確立され、多くの人々に愛されるようになったのです。
近松門左衛門の作品は今でも語り継がれる!後世の評価とは
近松門左衛門の作品は、300年以上経った今でも、日本全国で上演されています。とくに『曾根崎心中』や『国性爺合戦』は、浄瑠璃や歌舞伎だけでなく、現代の映画やドラマのストーリーにも影響を与えています。
また、彼の作品の特徴である「人間のリアルな感情描写」は、後の小説や演劇の発展にも貢献しました。例えば、日本の文豪である谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)や三島由紀夫(みしまゆきお)などの作家も、近松の作品からインスピレーションを受けていました。
彼の名は、日本文学や芸能の世界で今もなお生き続けているのです。
総括:近松門左衛門の死因を簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 死因は慢性気管支炎
- 近松門左衛門は慢性気管支炎により衰弱し、72歳で亡くなった。
- 江戸時代の医療技術では治療が難しく、長期間病に苦しんだとされる。
- 江戸時代では異例の長寿
- 当時の平均寿命が30~40歳だったのに対し、彼は72歳まで生きた。
- 健康的な食生活や武士の出身であったことが影響した可能性がある。
- 晩年も創作意欲が衰えず
- 晩年は病気がちだったが、『国性爺合戦』 や 『心中天網島』 などの名作を生み続けた。
- 竹本座の専属作家として活躍し続けた。
- 大阪大火で避難生活を強いられた
- 享保8年(1723年)に起きた大阪大火の影響で仮住まいを余儀なくされた。
- これが原因で体調が悪化し、翌年に亡くなった。
- 心中ブームを引き起こし、江戸幕府が規制
- 『曾根崎心中』 などの作品が影響し、町人の間で心中事件が増加。
- 享保8年に幕府が心中をテーマにした芝居や本の執筆を禁止する命令を出した。
- 歌舞伎や浄瑠璃の価値を高めた
- 近松の作品が評価され、歌舞伎や浄瑠璃が「単なる娯楽」から芸術として認められるようになった。
- 辞世の句には「作品が残らなくてもよい」という意志
- 「残れとは思ふも愚か 埋み火の…」という句を残し、作品が後世に残ることを気にしない姿勢を見せた。
- しかし実際には、彼の作品は300年以上にわたり語り継がれている。
- 現在も上演され続ける不朽の名作
- 『曾根崎心中』や『国性爺合戦』 などは今でも歌舞伎や文楽で上演されている。
- 日本の文豪や映画・ドラマの脚本にも影響を与え続けている。
