鎌倉時代、日本は二度にわたりモンゴル帝国(元)の侵攻を受けました。しかし、日本はこの侵攻を撃退しました。

「なぜ日本は勝てたのか?」と疑問に思う人も多いでしょう。特に「神風(かみかぜ)のおかげで勝った」とよく言われますが、実際にはそれだけではありません。幕府の事前準備や鎌倉武士の戦い方が大きく関係していました。

この記事では、元寇で日本が勝った理由をわかりやすく解説し、さらにこの戦いが日本に与えた影響についても説明します。元寇の戦いの裏に隠された真実を一緒に見ていきましょう。

元寇で日本が勝った理由とは?なぜ勝てたか

元寇では、当時の世界最強と言われるモンゴル軍を相手に、日本が見事に勝利しました。その理由を具体的に解説していきます。

「防塁」の存在!事前準備が戦局を左右

元寇の最初の戦いである文永の役(1274年)では、日本側の準備が不十分であり、元軍の侵攻を防ぐのに苦戦しました。しかし、この戦いの教訓を活かし、鎌倉幕府は元軍の再来に備えて「防塁(ぼうるい)」を築きました。

防塁とは、敵の上陸を防ぐために海岸沿いに築かれた石や土の壁のことです。博多湾沿岸には長さ約20km、高さ2mの防塁が作られ、これが弘安の役(1281年)で大きな効果を発揮しました。

防塁があったことで、元軍は容易に上陸することができず、上陸作戦が難航しました。結果として、元軍の攻撃は日本軍に有利な形で迎え撃たれることになり、日本の勝利につながったのです。

元軍の「兵站の問題」!補給の難しさが敗因に

兵站(へいたん)とは、軍隊が長期間戦い続けるために必要な食糧や武器の補給のことです。元軍は遠くモンゴルや中国本土、さらには朝鮮半島から軍を送る必要がありました。そのため、補給が不安定になり、戦闘が長引くほど厳しい状況に追い込まれました。

一方、日本の鎌倉武士たちは地元で戦っていたため、食糧や武器を確保しやすく、継続的に戦い続けることができました。元軍は海を越えての遠征だったため、補給路が長く、食料や武器が不足すると戦闘力が大幅に低下しました。

補給が滞ることで元軍は徐々に戦力を失い、日本に対して継続的な攻撃を行うことができなくなったのです。

「ゲリラ戦術」と「夜襲」

元軍の戦い方は、集団戦を基本とした戦術でした。一方、日本の鎌倉武士たちは、少数精鋭で戦うことを得意としており、特に夜襲(やしゅう)や奇襲(きしゅう)を駆使して戦いました。

元軍は日中に戦った後、夜になると船に戻って休む習慣がありました。これを利用して、日本軍は夜間に奇襲を仕掛け、敵を混乱させました。夜襲を何度も繰り返すことで元軍は疲弊し、士気が下がっていきました。

特に弘安の役では、この戦術が功を奏し、元軍の戦意を大きく削ぐことに成功しました。

元軍の「士気の低さ」が日本勝利の鍵

元軍の兵士は、モンゴル人だけでなく、無理やり徴兵された高麗(朝鮮)や南宋(中国)の兵士たちも含まれていました。彼らは元軍の指揮下で戦うことを強いられており、自ら進んで戦う気持ちはあまりありませんでした。

日本の武士たちは、戦いで手柄を立てれば恩賞(おんしょう)がもらえるため、士気が高く、死を恐れずに戦いました。一方、元軍の兵士たちは戦意が低く、日本軍の激しい抵抗を受けると戦意を喪失し、逃げ出す者も多かったと記録されています。

日本が勝った最大の要因は「神風」だったのか

元寇の戦いでよく語られるのが「神風(かみかぜ)」の存在です。特に弘安の役では、大型の台風が発生し、元軍の船を壊滅させました。これにより、多くの元兵士が死亡し、戦うことができなくなりました。

しかし、神風が吹く前から、日本軍は防塁を活かし、夜襲を繰り返し、補給を断つことで元軍を追い詰めていました。台風は最後の決定打になったものの、日本軍がすでに優勢だったことも事実です。そのため、「神風だけで勝った」という説は誤解であり、幕府の準備や武士たちの戦い方が勝利に大きく貢献していたのです。

元寇日本が勝った理由が分かったら:その後の影響

元寇は、日本の歴史に大きな影響を与えました。単なる戦争の勝敗だけでなく、社会や文化、政治のあり方に深く関わり、日本の未来を大きく変えたのです。

ここでは、元寇がもたらした歴史的な変化について詳しく解説していきます。

神国思想が強まった:神風信仰の誕生

元寇の戦いでは、嵐(台風)によって元軍が大損害を受け、日本は侵略を免れました。この出来事が、日本人の間で「神風(かみかぜ)」と呼ばれるようになり、「日本は神に守られた国」という意識が強まっていきました。

この「神国(しんこく)思想」は、元寇後の日本社会に広まり、特に武士や朝廷、神社仏閣によって強く推奨されました。八幡神社などの神社では、神風を起こした神々への感謝を込めた祭祀が行われるようになり、日本人の精神文化にも影響を与えました。

元寇後に「鎌倉幕府」は弱体化

元寇で戦った武士たちは、命がけで戦ったにもかかわらず、戦後に十分な恩賞を得ることができませんでした。通常、武士たちは戦に勝てば敵の領地を獲得し、それを幕府から与えられることで生活を維持していました。

しかし、元寇の場合は、敵である元軍が日本に領土を持っていたわけではなかったため、与えられる土地がなく、多くの武士が不満を募らせたのです。

この不満は次第に幕府への不信感へとつながり、御家人(幕府に仕える武士)たちは幕府に対して反発するようになりました。

特に、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すための戦い(元弘の乱)を起こした際、多くの武士が幕府を見限り、新たな政権へと流れていきました。こうした影響によって、鎌倉幕府は次第に支配力を失い、1333年に滅亡することとなりました。

元寇が鎌倉幕府の終焉を早めたといわれるのは、この恩賞不足による武士たちの不満が大きな要因だったのです。

「対外戦争の経験」が日本の軍事戦略を進化

元寇は、日本にとって初めての「国際戦争」ともいえる戦いでした。それまでの戦は、国内の武士同士の戦いが中心でしたが、元軍はこれまで日本が経験したことのない戦術を用いて攻めてきました。

例えば、元軍は「集団戦法」を取り入れ、弓矢や爆弾(てつはう)を用いた遠距離攻撃を得意としていました。この戦い方に対抗するため、鎌倉武士たちは夜襲やゲリラ戦を活用し、敵の補給線を断つ戦法を学ぶこととなりました。

日本とアジアの関係はどう変わった?元との関係を解説

元寇によって日本と元(モンゴル帝国)の関係は一時的に断絶しましたが、完全に途絶えたわけではありません。元軍の侵攻後も、一部の商人や外交使節は交流を続けていました。

特に、九州の博多などでは、中国や朝鮮との貿易が続き、貿易を通じて経済的な結びつきが保たれました。元はその後、明(みん)に滅ぼされますが、日本と明の間でも貿易関係は続き、日明貿易(勘合貿易)として発展していきます。

元寇が日本の防衛意識を高めた!その後の「海防」政策

元寇を経験したことで、日本は「海からの侵略」に対する防衛意識を高めることとなりました。特に、九州北部では再び外国の軍勢が襲来することを警戒し、幕府は「異国警固番役(いこくけいごばんやく)」という制度を強化しました。

これは、沿岸部の武士たちに防衛の任務を与え、常に海を監視させるという制度でした。このような海防体制は、戦国時代においても続き、倭寇(わこう)の取り締まりなどに役立ちました。

総括:元寇日本が勝った理由まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

元寇で日本が勝った理由

  • 防塁の存在
    → 鎌倉幕府が博多湾沿いに築いた防塁(ぼうるい)によって元軍の上陸を防ぎ、有利に戦えた。
  • 元軍の兵站(へいたん)問題
    → 元軍は補給路が長く、食料や武器の供給が不安定だったため、戦闘が長引くと不利になった。
  • ゲリラ戦術と夜襲
    → 日本軍は夜間の奇襲を仕掛け、休んでいる元軍を攻撃して士気を低下させた。
  • 元軍の士気の低さ
    → 無理やり徴兵された高麗(朝鮮)や南宋(中国)の兵士が多く、戦意が低かった。
  • 神風(かみかぜ)の影響
    → 弘安の役では台風が発生し、多くの元軍の船が沈没したが、日本はそれ以前から優勢だった。

元寇後の日本への影響

  • 「神国思想」の誕生
    → 日本が「神に守られた国」と考えられ、神風信仰が生まれた。
  • 鎌倉幕府の弱体化
    → 戦った武士への恩賞が不足し、幕府への不満が高まり、滅亡の要因となった。
  • 軍事戦略の進化
    → 元軍の戦術を学び、戦国時代の集団戦や鉄砲戦術の発展につながった。
  • 日本とアジアの関係変化
    → 元寇後も貿易が続き、日明貿易(勘合貿易)などにつながった。
  • 日本の防衛意識の向上
    → 異国警固番役を強化し、江戸時代の鎖国政策にも影響を与えた。