「本百姓(ほんびゃくしょう)」と「水呑百姓(みずのみびゃくしょう)」って聞いたことがありますか?
歴史のテストや受験でもよく出る重要な言葉ですね。この2つはどちらも「百姓」と呼ばれる農民ですが、実は大きな違いがあるのです。
「本百姓はお金持ちで、水呑百姓は貧乏?」
「本百姓はえらくて、水呑百姓は低い身分?」
実は、こんなイメージはちょっと間違っています。では、実際に何が違うのか、一緒に詳しく見ていきましょう!
本百姓と水呑百姓の違いとは? 江戸時代の農民制度

江戸時代の農民は、武士や町人と並ぶ身分の一つでした。しかし、農民の中でも「本百姓」と「水呑百姓」に分かれていたのです。
本百姓は自分の土地を持ち、年貢を納める責任がある農民。対して、水呑百姓は土地を持たず、他の人の土地を借りて農業をしたり、別の仕事をしたりする農民でした。
本百姓とは? 自分の土地を持ち年貢を納める農民
本百姓とは、自分の田畑を所有し、そこで農業をする農民のことです。江戸時代の農村では、土地を持つことがとても大切でした。なぜなら、土地を持っていると、自分の収穫した作物から直接年貢を納めることができ、村の運営にも関わることができたからです。
また、本百姓は「百姓株(ひゃくしょうかぶ)」という権利を持っていました。
これは、農地を相続したり、管理したりするための権利です。百姓株があることで、土地の所有が認められ、本百姓としての地位を維持することができました。
さらに、本百姓は村のリーダー的な役割も果たしました。村を統治する「名主(なぬし)」や「庄屋(しょうや)」と呼ばれる役職に就くことが多く、村のルールを決めたり、年貢を取りまとめたりしていました。
水呑百姓とは? 土地を持たず農業以外の仕事もこなす農民
水呑百姓とは、自分の田畑を持たない農民のことです。土地がないため、本百姓のように直接年貢を納める必要はありませんでしたが、代わりに他の本百姓や地主から土地を借りて農業を行い、その代償として小作料(こさくりょう)を支払っていました。
しかし、水呑百姓の中には農業だけでなく、漁業、商業、職人など、さまざまな仕事をしている人もいました。例えば、船を持って海で魚を獲る漁師や、農具を作る鍛冶屋、着物を作る織物職人なども水呑百姓に含まれることがありました。
このように、水呑百姓は決して「貧しい農民」だけではなく、別の職業で成功している人もいたのです。
本百姓と水呑百姓の最も大きな違いは「土地の所有」
本百姓と水呑百姓の一番の違いは、「自分の土地を持っているかどうか」です。
✅ 本百姓:土地を持っている → 年貢を直接納める
✅ 水呑百姓:土地を持っていない → 小作料を地主に払う
つまり、本百姓は農村の中心的な存在で、村の運営に関わることができました。一方、水呑百姓は土地を持っていないため、村の自治には参加しにくかったのです。
また、収入面でも大きな違いがありました。本百姓は作物を育てたら、そのまま家族で食べたり売ったりできますが、水呑百姓は作物を収穫しても小作料を払う必要があるため、自由に使えるお金が少なくなることもありました。
本百姓はなぜ「名主」「庄屋」として村のリーダーになれたのか?
本百姓の中でも特に裕福な者は「名主(なぬし)」や「庄屋(しょうや)」と呼ばれ、村を管理する役割を担っていました。
なぜ本百姓が村のリーダーになれたのかというと、以下のような理由があります。
1️⃣ 土地を持っているため、村の運営に関与しやすい
2️⃣ 村の年貢を取りまとめる責任があった
3️⃣ 幕府や藩との交渉役を担っていた
名主や庄屋は、村人の意見をまとめたり、村のルールを決めたりする役割を果たしました。そのため、本百姓の中でも特に経済力があり、信頼される人が選ばれることが多かったのです。
江戸時代の「五人組」と百姓の関係|互いに監視し合う制度
江戸時代には「五人組(ごにんぐみ)」という制度がありました。これは、5軒ほどの家が1つのグループになり、互いに監視し合う制度です。
五人組は、年貢をきちんと納めさせるために作られた仕組みでした。もし1人でも年貢を滞納すると、同じ五人組のメンバー全員が連帯責任を負うことになりました。
本百姓は五人組の代表を務めることが多かったですが、水呑百姓は土地を持たないため、五人組の中で発言力が弱い立場でした。
五人組の制度は、一見すると厳しい制度のように思えますが、実は村人同士の助け合いの仕組みとしても機能していました。例えば、誰かが病気になったり、困ったことがあったりしたとき、五人組のメンバーが助け合うこともあったのです。
本百姓と水呑百姓の違いの後に:地主と小作人の関係

本百姓と水呑百姓の違いを理解したところで、次に「地主」と「小作人」の関係についても解説します。江戸時代には、土地をたくさん持っている地主と、その土地を借りて農業をする小作人がいました。
この仕組みは明治・大正・昭和と続きましたが、戦後の農地改革によって大きく変わりました。
地主とは? 江戸時代に土地を支配した富裕層
地主とは、広い農地を所有し、それを他の農民(小作人)に貸して小作料を得る人のことです。江戸時代の地主の多くは、本百姓の中でも特に裕福な人たちでした。
✅ 地主の特徴
- 自分ではあまり農業をしない
- 小作人に土地を貸し、小作料を受け取る
- 経済力があり、村のリーダーになることが多い
地主は、自分の土地をたくさん持っているため、作物の収穫がなくても安定した収入がありました。村の中でも発言力が強く、庄屋や名主として村の管理を任されることが多かったのです。
小作人とは? 地主の土地を借りて農業をする人々
小作人とは、地主から土地を借りて農業をする人のことです。小作人は自分の土地を持たないため、地主に小作料を支払わなければなりませんでした。
✅ 小作人の特徴
- 自分の土地を持っていない
- 地主に小作料を払う必要がある
- 生活が苦しいことが多い
特に小作料が高い場合、収穫した作物のほとんどを地主に納めなければならず、生活がとても厳しくなりました。そのため、小作人の中には他の仕事をして生計を立てる人もいました。
小作料の仕組みと生活の実態|なぜ小作人は苦しかったのか?
小作人は地主に小作料を支払っていましたが、この小作料は非常に高く、生活を圧迫することが多かったのです。
✅ 小作料の仕組み
1️⃣ 収穫した作物のうち、まず年貢を納める(本百姓が対象)
2️⃣ 小作人は残った作物から地主に小作料を支払う
3️⃣ さらに生活費や種もみ(次の年に使う種)を確保する
この流れを見ると分かるように、小作人は自由に使えるお金がほとんど残りませんでした。そのため、借金をして生活を続ける人も多く、貧困から抜け出せない状態が続いていたのです。
明治時代以降も続いた地主と小作人の関係|小作争議とは?
明治時代になると、江戸時代の身分制度が廃止されましたが、地主と小作人の関係はそのまま続きました。むしろ、明治時代の地租改正(ちそかいせい)によって、土地を買い占めた地主の力はさらに強まり、小作人の負担は増していきました。
こうした状況に不満を持った小作人たちは、「小作争議(こさくそうぎ)」という運動を起こし、地主に小作料の引き下げを求めるようになりました。特に大正時代から昭和初期にかけて、小作争議は全国で多発しました。
✅ 小作争議の特徴
- 小作料の引き下げを求める運動
- 一部の争議では暴動が発生することも
- 地主と小作人の対立が激しくなった
しかし、地主側の権力が強かったため、多くの争議は失敗に終わり、小作人の生活はなかなか改善されませんでした。
戦後の農地改革|小作人が土地を手に入れた歴史的転換点
第二次世界大戦後、日本は大きな転換期を迎えます。その一つが「農地改革(のうちかいかく)」です。戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、地主と小作人の関係を大きく変える政策を実施しました。
✅ 農地改革のポイント
- 地主の土地を国が買い取り、小作人に売り渡す
- 小作人が自分の土地を持てるようになった
- 地主の影響力が大幅に弱まった
この改革によって、小作人は長年苦しんできた小作料の負担から解放され、自分の農地を持つことができるようになりました。これにより、日本の農村社会は大きく変わり、戦後の経済発展にもつながっていきました。
総括:本百姓と水呑百姓の違いまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 本百姓とは?
- 自分の土地を所有し、年貢を直接納める農民
- 「百姓株」を持ち、土地の相続や管理が可能
- 村の自治に参加し、「名主」や「庄屋」として統治を担うこともあった
- 収穫物を自由に使えるため、比較的安定した生活を送ることができた
✅ 水呑百姓とは?
- 自分の土地を持たず、本百姓や地主から土地を借りて農業をする農民
- 小作料を地主に支払う必要があり、生活が厳しいことが多かった
- 農業以外の仕事(漁業・商業・職人など)で生計を立てる人もいた
- 村の自治には参加しにくく、発言力が低かった
✅ 本百姓と水呑百姓の最大の違いは?
- 土地の所有の有無(本百姓は所有し、水呑百姓は持たない)
- 年貢の支払い方法(本百姓は直接納める、水呑百姓は小作料を支払う)
- 村社会での立場(本百姓は村の運営に関与、水呑百姓は発言力が低い)
✅ 地主とは?
- 広大な土地を所有し、小作人に貸し出す富裕層
- 小作人から小作料を徴収し、農業をしなくても収入が得られた
- 村のリーダー(名主・庄屋)になることが多かった
✅ 小作人とは?
- 自分の土地を持たず、地主の土地を借りて農業をする農民
- 収穫物の一部を小作料として地主に支払うため、自由に使える作物が少ない
- 生活が苦しく、借金をする者も多かった
✅ 明治時代以降の変化
- 地租改正 によって地主の力が強まり、小作人の負担が増加
- 小作争議 で小作料引き下げ運動が活発化(大正~昭和初期)
- 戦後の農地改革 によって、地主の土地を政府が買い取り、小作人に安く売却
- 小作人が自作農になり、日本の農業構造が大きく変化
