みなさん、歴史の授業で「本能寺の変」という事件を聞いたことがありますよね?戦国時代に起こった、明智光秀による織田信長への突然の裏切り。
なぜ、信長の忠臣だったはずの光秀が謀反を起こしたのでしょうか?
本能寺の変の背景や、光秀が裏切った理由を、分かりやすく解説していきます!
本能寺の変とは何か簡単に解説:事件の概要と背景

本能寺の変は、日本史上最大級のミステリーともいわれる事件です。織田信長が天下統一を目前にして、家臣の明智光秀に討たれるという衝撃的な出来事でした。
ここでは、本能寺の変がどんな事件だったのかを詳しく見ていきましょう。
本能寺の変とは?簡単に言うと明智光秀の裏切り
本能寺の変とは、1582年6月2日に京都の本能寺で発生した歴史的大事件です。
織田信長は当時、天下統一を目前にしていましたが、家臣の明智光秀が1万3000人の軍勢を率いて突然襲撃。圧倒的な兵力差のため、信長は戦うことができず、本能寺に火を放ち、自ら命を絶ちました。
この事件が日本の歴史に与えた影響は非常に大きく、信長の死後、戦国時代の勢力図が大きく変わりました。
明智光秀はこの後、天下を取ることができたのでしょうか?
それは後ほど解説しますね!
本能寺の変の背景|なぜこのタイミングで起きたのか?
では、なぜこの時期に本能寺の変が起こったのでしょうか?実は、信長は「天下統一」の最終段階に入っていました。
主な背景を見てみましょう。
- 甲州征伐の成功
→ 信長は長年の敵であった武田家を滅ぼし、日本統一が目前でした。 - 織田家の中国攻め
→ 家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、中国地方の毛利家と戦っていました。信長は援軍を送るために準備をしていたのです。 - 本能寺に少人数で滞在
→ 信長は戦支度のために本能寺に滞在していましたが、その時の護衛兵はわずか150人ほど。光秀はこの隙を狙ったのです。
このように、光秀にとっては「絶好のタイミング」だったわけです。では、どのように襲撃が行われたのでしょうか?
本能寺の変の経過:どのように襲撃が行われたのか?
本能寺の変の流れを時系列で整理すると、次のようになります。
- 6月1日夜:明智光秀は京都近くの亀山城を出発。
- 6月2日未明:「敵は本能寺にあり」と号令をかけ(ただし創作の可能性あり)、京へ進軍。
- 午前5時頃:光秀の軍勢が本能寺を包囲し、襲撃開始。
- 信長は抵抗するも圧倒的な兵力差のため自害。
- 織田信忠(二条城に滞在)も攻撃を受け、最終的に自害。
わずか数時間の間に、信長とその後継者・信忠は命を落としました。この事件により、織田家の天下統一は大きく揺らいだのです。
本能寺の変の語呂合わせと年号の覚え方
本能寺の変が起きたのは1582年ですが、年号を覚えるのが苦手な人のために、いくつかの語呂合わせを紹介します!
- 「本能寺(ほんのうじ)に向かう光秀(みつひで)」 → 1582(いちごはちじ)
- 「いちご(158)を食べに(2)行った信長」 → 1582
- 「人は怖(158)いに(2)本能寺」 → 1582
歴史の年号を覚えるのは大変ですが、こうした語呂合わせを活用すると覚えやすくなりますよ!
本能寺の変の直後|明智光秀の誤算とは?
光秀は信長を討ち、天下を手に入れたかに思えました。しかし、彼は3つの大きな誤算をしてしまいます。
- 信長と信忠の遺体が見つからなかった
→ 当時、戦で勝利した証として「敵の首」を取るのが一般的でした。しかし、光秀は信長の首を確保できず、「本当に討ったのか?」と疑われてしまったのです。 - 京都の混乱を収めるのに時間がかかった
→ 本能寺の変直後、京の町は大混乱。光秀はこれを鎮めるのに時間を取られ、次の戦に備える時間が減ってしまいました。 - 豊臣秀吉の驚異的な「中国大返し」
→ 羽柴秀吉は中国地方で毛利家と戦っていましたが、本能寺の変の報を聞くと、驚くべき速さで京へ戻りました。光秀は十分な準備ができないまま、山崎の戦いを迎えることになります。
この誤算が光秀の運命を決めることになりました。では、光秀はなぜ信長を裏切ったのでしょうか?次の章で詳しく解説します!
本能寺の変とは何か簡単に:明智光秀はなぜ裏切った?

本能寺の変で、明智光秀はなぜ信長を裏切ったのでしょうか?歴史上、この問いにはさまざまな説が存在します。
ここでは、代表的な5つの説を分かりやすく解説します。
明智光秀の怨恨説|信長の厳しい仕打ちに耐えかねた?
最も有名な説のひとつが「怨恨説」です。つまり、「光秀は信長に対する恨みから裏切った」という考え方です。
光秀はもともと信長に高く評価され、家臣の中でも重要なポジションを任されていました。しかし、信長の性格は非常に厳しく、家臣に対しても容赦のない態度をとることが多かったのです。
具体的には、以下のような出来事があったとされています。
- 徳川家康の接待失敗事件
→ 光秀は家康の接待役を任されましたが、食事の内容に問題があり、信長に激怒されてしまいました。その場で鉄扇で殴られたとも言われています。 - 母親が処刑された?
→ 江戸時代に書かれた史料によると、光秀の母が人質として差し出され、信長の命令で処刑されたという話もあります。ただし、これは後世の創作の可能性が高いです。 - たびたび屈辱を受けていた?
→ 信長は光秀を「キンカン頭(ハゲ)」と呼ぶなど、厳しく扱ったと言われています。家臣を厳しく鍛えるのが信長流のやり方でしたが、光秀にとっては耐えがたい屈辱だったのかもしれません。
こうした恨みが積もり積もり、ついに本能寺の変で爆発した、というのが「怨恨説」です。
明智光秀の野望説|自分が天下を取りたかった?
怨恨だけではなく、「光秀は天下を狙っていたのでは?」という説もあります。これが「野望説」です。
光秀は信長の家臣の中でも特に優秀で、政務にも軍事にも長けた人物でした。しかし、信長は家臣に領土を与えず、すべてを中央集権的に管理しようとしていました。光秀がどれだけ功績を上げても、将来的に独立した大名になるのは難しい状況だったのです。
そんな中、信長の天下統一が目前となったことで、「もしこのまま信長に従っていても、自分の未来はない」と考えた可能性があります。
本能寺の変後、光秀はすぐに朝廷に接近し、自分の立場を強化しようとしました。しかし、豊臣秀吉の「中国大返し」が想定以上に速く、光秀の天下はわずか13日で終わってしまいました。このことからも、「天下を取る計画はあったものの、準備不足だった」と言われています。
織田信長の暴走阻止説|信長のやり方に危機感を抱いた?
「光秀は天下を取るためではなく、信長の暴走を止めるために動いたのでは?」というのが「織田信長の暴走阻止説」です。
信長は、戦国時代の中でも革新的な武将で、朝廷や伝統的な制度を軽視する傾向がありました。実際に、次のような行動をとっています。
- 足利義昭(室町幕府15代将軍)を追放し、幕府を滅ぼした。
- 比叡山延暦寺を焼き討ちし、多くの僧侶を討った。
- 「天下布武」というスローガンを掲げ、従わない者を徹底的に攻め滅ぼした。
こうした信長の行動は、戦国時代の大名たちだけでなく、朝廷や貴族たちにとっても脅威となっていました。
光秀は、元々幕府や公家ともつながりが深かったため、信長のやり方に疑問を抱いていたのではないか、というのがこの説の主張です。つまり、「信長を討つことで、日本の政治を安定させようとした」のではないか、ということですね。
四国説|長宗我部元親との関係が影響した?
近年注目されているのが「四国説」です。これは、光秀が信長と四国の大名・長宗我部元親との関係に悩んでいたのではないか、という説です。
光秀は四国方面の外交を任されており、長宗我部元親とは友好的な関係を築いていました。しかし、信長は次第に長宗我部家を敵視するようになり、四国征伐を計画し始めました。
もし、信長が四国征伐を実行すれば、光秀の外交努力はすべて無駄になり、長宗我部家も滅亡してしまいます。
「信長の四国征伐を阻止するために、本能寺の変を起こしたのでは?」と考えられているのが、この四国説です。
黒幕説|本能寺の変の裏に誰かがいた?
最後に、本能寺の変には「黒幕」がいたのではないか?という説もあります。主な黒幕候補は次の通りです。
- 豊臣秀吉:本能寺の変で一番得をした人物。光秀をそそのかした?
- 徳川家康:本能寺の変の直前に安土城を訪れていたが、命からがら逃げた?
- 朝廷(正親町天皇):信長が天皇家を圧迫していたため、光秀に討たせた?
この説の根拠は明確ではありませんが、「光秀単独の判断ではなく、何者かの影響があったのでは?」という考え方です。
総括:本能寺の変とは何か簡単に解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 本能寺の変とは?
- 1582年6月2日、明智光秀が織田信長を襲撃し、信長が自害した事件。
- 戦国時代の勢力図を大きく変えた歴史的大事件。
- 事件の背景
- 甲州征伐の成功で信長の天下統一が目前だった。
- 羽柴秀吉が中国地方の毛利家と戦い、信長が援軍を送ろうとしていた。
- 信長が少人数で本能寺に滞在しており、光秀にとって絶好の襲撃の機会だった。
- 事件の経過
- 6月1日夜、光秀が亀山城を出発。
- 6月2日未明、京に進軍し、本能寺を包囲。
- 午前5時頃、信長が圧倒的な兵力差で自害。
- 織田信忠も二条城で攻撃を受け、最終的に自害。
- 年号の語呂合わせ
- 「本能寺(ほんのうじ)に向かう光秀(みつひで)」 → 1582(いちごはちじ)
- 「人は怖(158)いに(2)本能寺」 → 1582
- 明智光秀の誤算
- 信長と信忠の遺体が見つからなかった → 本当に討ったのか疑われた。
- 京都の混乱を収めるのに時間を取られた → 反撃の準備が遅れた。
- 秀吉の「中国大返し」が速すぎた → 十分な軍勢を集める前に山崎の戦いで敗北。
- 光秀の裏切りの理由(5つの説)
- 怨恨説 → 信長の仕打ちに耐えられず、個人的な恨みから謀反を起こした。
- 野望説 → 自ら天下を取るために信長を討った。
- 信長の暴走阻止説 → 信長の強硬な政治に危機感を抱き、日本の安定を守ろうとした。
- 四国説 → 信長の四国征伐計画を阻止するために動いた。
- 黒幕説 → 豊臣秀吉・徳川家康・朝廷などが光秀を操った可能性がある。
- 本能寺の変の影響
- 織田家の天下統一が崩れ、豊臣秀吉が天下を取るきっかけになった。
- 光秀はわずか13日後の「山崎の戦い」で秀吉に敗れ、歴史に「三日天下」として名を残した。