「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
これは平安時代の貴族・藤原道長が詠んだ有名な歌です。道長は、平安時代の日本で最も権力を持った人物の一人で、摂関政治の全盛期を築いたことで知られています。
しかし、「摂関政治って何?」「道長がしたことってどんなこと?」と、歴史の授業で出てきても難しく感じる人も多いでしょう。
そこで今回は、藤原道長がどのようにして権力を手にし、何を成し遂げたのかを、分かりやすく解説します。歴史のテストにも役立つ内容になっているので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
藤原道長がしたことを簡単に解説!彼の業績と政治手法

藤原道長は、日本の歴史の中で「摂関政治」を完成させた重要な人物です。彼は、娘たちを天皇の后(きさき)にすることで、朝廷内での影響力を強め、事実上の最高権力者となりました。
では、彼がどのようにしてその地位を確立し、何をしたのか詳しく見ていきましょう。
藤原道長は「摂関政治」を確立し、天皇の外祖父として権力を握った
摂関政治とは、天皇に代わって「摂政」や「関白」が政治を行う制度のことです。平安時代の貴族・藤原氏は、この仕組みを利用して権力を独占しました。
道長は、自分の娘たちを天皇に嫁がせることで「天皇の外祖父」となり、政治の実権を握りました。特に、一条天皇の后となった長女・彰子(しょうし)は、後に二人の天皇(後一条天皇・後朱雀天皇)の母となります。
こうして道長は、自らが直接天皇の権力を握ることなく、娘や孫を通じて実質的な支配者になったのです。
また、道長は「内覧」という役職に就きました。内覧とは、天皇の出す命令文(勅旨)に事前に目を通し、政治の方向を決める立場のことです。この役職により、彼は表には出ないものの、天皇の決定に強く関与できる立場を確保しました。
藤原道長が詠んだ「この世をば…」の歌の意味と背景
道長が詠んだ「この世をば…」の歌は、彼が絶頂期にあったことを象徴するものです。
この歌が詠まれたのは、1018年に行われた道長の娘・威子(いし)が天皇の后になったお祝いの席でした。この時、すでに道長の3人の娘が后となり、「一家三后」と呼ばれる前代未聞の状態になっていました。
この歌の意味は、「この世はまるで私のもののように思える。なぜなら、私の権力は満月のように完全だから」というものです。道長が自らの栄華を確信し、それを堂々と歌にしたことがよく分かります。
しかし、この歌を聞いた周囲の貴族たちはどのように感じたでしょうか?「道長の力には逆らえない」と悟った人もいれば、「いつかこの権力は崩れるのでは」と考えた人もいたかもしれません。実際に道長の死後、藤原氏の権力は次第に衰えていくことになります。
娘を天皇に嫁がせ、朝廷の実権を握った「外戚政策」
道長が成功した最大の理由は、「外戚(がいせき)政策」にあります。外戚とは、天皇の母方の親族のことを指し、道長は自分の娘たちを次々と天皇の后にすることで、外戚としての地位を固めました。
彼の娘・彰子は一条天皇の中宮(ちゅうぐう)になり、後に二人の天皇の母となります。また、次女・妍子(けんし)は三条天皇の后となり、三女・威子(いし)は後一条天皇の后となりました。
このように、道長は「天皇の外祖父」という立場を利用し、直接政治の表舞台には立たずとも、実質的な最高権力者として君臨しました。この戦略こそが、摂関政治の最盛期を生んだのです。
「法成寺」の建立と藤原道長の仏教信仰
晩年の道長は、仏教に強い信仰を持つようになりました。その象徴が、彼が建立した「法成寺(ほうじょうじ)」です。
法成寺は、現在の京都市にあった大規模な寺院で、「極楽浄土をこの世に再現する」という壮大なテーマのもとに建てられました。道長は、自らを「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれるほど、この寺に心血を注ぎました。
彼が晩年に出家し、法成寺で過ごしたことは、彼の人生の終盤が「権力の頂点から精神的な安らぎ」へと移行していったことを示しています。道長は権力を手に入れた一方で、老いと病に苦しみ、仏教の力にすがるようになったのでしょう。
道長の死因と晩年の生活、後継者の頼通とは?
藤原道長は62歳で亡くなりましたが、その死因は現代でいう「糖尿病」だったと考えられています。彼の日記には「喉の渇き」「視力の低下」など、糖尿病の症状に似た記録が残されています。
また、彼の死後、息子の藤原頼通(よりみち)が摂政・関白を継ぎました。頼通も長期間にわたって権力を維持しましたが、道長ほどの影響力は持てず、藤原氏の権力は次第に衰えていきました。
特に、武士の台頭が始まったことで、藤原氏の摂関政治は徐々に力を失っていきます。頼通の時代には、彼が建立した「平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)」が有名ですが、政治的な影響力は道長ほどではありませんでした。
藤原道長がしたことを簡単に:どんな人?性格や文化への影響

藤原道長は、ただの政治家ではなく、文化や宗教にも深く関わった人物でした。ここでは、彼の性格や家族関係、そして平安時代の文化への影響について解説していきます。
藤原道長の性格とは?野心家でありながら冷静な戦略家だった
藤原道長は、非常に野心的で、権力に対する執着心が強い人物でした。
彼がまだ若い頃、父・藤原兼家が「藤原公任(きんとう)は優秀だが、うちの息子たちは到底及ばない」と嘆いた際、道長は「公任の影を踏むのではなく、顔を踏みつけてやります」と言い放ったというエピソードがあります。この言葉からも、道長がいかに負けず嫌いで、自分の力を信じていたかが分かります。
また、道長は単なる権力者ではなく、冷静に物事を考える戦略家でもありました。兄や甥との政争において、むやみに争うのではなく、時には相手を追い詰め、時には味方を増やすことで着実に勝ち残っていきました。
その一方で、家族思いな一面もありました。娘たちを天皇に嫁がせたのも、単なる権力欲ではなく、一族の繁栄を願ってのことだったとも考えられます。
兄や甥との確執と権力争いに勝ち抜いた道長
道長が権力を手に入れるまでには、兄や甥との激しい権力争いがありました。
もともと、道長の兄・藤原道隆が関白の地位に就いていましたが、道隆は病に倒れ、まもなく亡くなってしまいます。その後、次兄の藤原道兼が関白を継ぎましたが、彼もわずか7日で急死。これにより、道長と兄・道隆の息子である藤原伊周(これちか)が後継者争いを繰り広げることになりました。
当初は一条天皇が藤原伊周を支持していましたが、道長の姉であり、一条天皇の母である藤原詮子(せんし)が強く道長を推薦しました。その後、伊周が花山法皇を襲撃するという事件を起こしたことで失脚し、道長が藤原氏の頂点に立つこととなりました。
この一連の流れからも、道長が単なる幸運だけでなく、冷静な戦略によって勝ち残ったことが分かります。
藤原道長と紫式部の関係—『源氏物語』とのつながり
藤原道長は、文化人としても重要な役割を果たしました。その代表的な関係が、『源氏物語』の作者・紫式部とのつながりです。
紫式部は、道長の娘・藤原彰子に仕える女房でした。道長は、紫式部の才能を高く評価し、彼女が『源氏物語』を書き進めることを後押ししたといわれています。実際に道長が「続きはまだか」と催促した記録も残っています。
また、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人は道長だという説もあります。光源氏は美貌と才知に優れ、女性たちにモテる人物ですが、同時に政界での立ち回りにも長けています。道長自身も、権力を握るだけでなく、文化を愛し、和歌や書をたしなんでいたことから、光源氏と重なる部分が多いのです。
こうした背景から、道長は『源氏物語』誕生の陰の立役者とも言える存在だったのです。
道長の晩年—病と仏教信仰に傾倒した理由とは?
道長は晩年になると、次第に仏教信仰に傾倒するようになります。これは、彼が病に苦しみ、精神的な救いを求めるようになったためだと考えられています。
道長は、法成寺という壮大な寺院を建立しました。この寺院は「極楽浄土を地上に再現する」ことを目的としており、道長の仏教に対する深い信仰を物語っています。
また、道長は晩年に出家し、僧侶のような生活を送るようになりました。かつては「この世は自分のもの」と豪語した道長ですが、晩年には「今はただ 浮き世のほかの 思いなり」と、自らの栄華を儚いものと感じていたことが分かります。
こうして道長は、政治の表舞台から退き、静かに人生を終えることを選びました。
藤原道長の死とその後の藤原氏の運命
藤原道長は、1027年に62歳で亡くなりました。彼の死因は、現代の医学で考えると糖尿病による合併症だった可能性が高いとされています。晩年には体調を崩し、視力の低下や体の痛みに悩まされていた記録が残っています。
道長の死後、息子の藤原頼通(よりみち)が後を継ぎました。頼通も長く摂政・関白を務めましたが、父・道長ほどの影響力は持てず、平安時代の政治は次第に武士の力が強くなっていきました。
特に、後三条天皇の即位によって、藤原氏の影響力は徐々に低下し、最終的には武士の時代へと移り変わっていきます。
このように、藤原道長の時代は、平安貴族の政治の絶頂であり、同時にその終わりの始まりでもあったのです。
総括:藤原道長したことまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 「摂関政治」を確立し、天皇の外祖父として権力を握る
- 娘たちを天皇の后(きさき)にし、「外戚政策」で政治の実権を握る。
- 天皇に代わって政治を行う摂政・関白の制度を活用し、権力を独占。
- 「この世をば…」の歌を詠み、絶頂期を象徴
- 1018年、娘・威子の立后を祝う席で、自らの権力の絶頂を満月になぞらえた歌を詠む。
- 「一家三后」(3人の娘が天皇の后)を実現し、藤原氏の最盛期を迎える。
- 「外戚政策」で藤原氏の権力を強化
- 長女・彰子を一条天皇の后に、妍子を三条天皇の后に、威子を後一条天皇の后にする。
- これにより、3代の天皇の外祖父となり、摂関政治の全盛期を築く。
- 文化への貢献—『源氏物語』の誕生を後押し
- 紫式部を娘・彰子の教育係に抜擢し、『源氏物語』の執筆を支援。
- 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われる。
- 晩年は仏教信仰に傾倒し、「法成寺」を建立
- 「極楽浄土を地上に再現する」ために、壮大な寺院・法成寺を建立。
- 晩年は出家し、仏教に没頭する生活を送る。
- 道長の死因とその後の藤原氏
- 62歳で死去。糖尿病による合併症だった可能性が高い。
- 息子・頼通が摂政・関白を継ぐが、道長ほどの影響力を持てず、次第に藤原氏の権力は衰退。
- 武士の台頭とともに、平安貴族の政治の時代が終わりを迎える。
