「春日局(かすがのつぼね)」は、江戸時代の大奥を支えた重要人物であり、3代将軍・徳川家光の乳母(めのと)として知られています。しかし、彼女の死因については明確な記録がなく、「なぜ亡くなったのか?」と疑問に思う人も多いでしょう。

また、春日局の晩年には「薬を断った」というエピソードがあり、その最期には家光が深く関わっていました。

この記事では、春日局の死因、最期の様子、亡くなった年齢、さらには彼女が築いた大奥制度や家光との関係まで、分かりやすく解説します!

春日局の死因は何?最期の様子や辞世の句を解説

春日局は1643年(寛永20年)に亡くなりましたが、実は明確な死因が分かっていません。ただし、晩年には体調を崩していた記録があり、病気が原因と考えられています。

また、薬を飲むのを拒んでいたことが最期の様子として語り継がれています。

では、春日局の最後の瞬間はどのようなものだったのでしょうか?辞世の句や墓所の情報も交えながら、詳しく見ていきましょう!

春日局の死因は不明だが、病死の可能性が高い

春日局の死因については、江戸時代の公式な記録が残っていないため、確かなことは分かっていません。しかし、当時の文献や逸話から考えると、「病死の可能性が高い」とされています。

特に注目されるのは、春日局が長年にわたって薬を飲まなかったことです。

もともとは家光が疱瘡(ほうそう・天然痘)にかかった際、彼の回復を願って「薬を断つ」という誓いを立てたといわれています。これが習慣となり、春日局は自分自身が病気になっても薬を口にしなかったと伝えられています。

結果的に、病気が進行してしまい、家光が駆けつけた時には手の施しようがなかったのではないかと考えられます。

春日局の最期の様子|家光が駆けつけた逸話

春日局の最期には、彼女が生涯をかけて育てた家光が関わっています。
病床に伏した春日局を心配した家光は、自ら薬を持って駆けつけました。

しかし、春日局は薬を拒否し続けたといわれています。一説によると、家光が「お願いだから飲んでほしい」と涙ながらに頼んだものの、春日局は薬を口に含んだふりをして袖に吐き出したとも伝えられています。

この逸話は、春日局の「信念の強さ」と、家光との「深い絆」を物語るものです。家光にとって、春日局は「実の母親のような存在」だったといえるでしょう。

春日局の辞世の句|「西に入る月を誘い法をへて」

春日局は亡くなる前に辞世の句を残しています。

「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」

この意味を簡単に説明すると、

「西に沈む月のように、私は今日この世の煩悩から解き放たれる」

ということです。

「火宅(かたく)」とは、仏教の言葉で「俗世の苦しみ」を指します。春日局は、大奥という激動の世界で生き抜いてきましたが、最後は「仏の道」に入るように静かに旅立ったのかもしれません。

春日局は何歳で死んだ?享年64(65とも)

春日局は、1579年(天正7年)に生まれ、1643年(寛永20年)に亡くなりました。そのため、享年は64歳(または数え年で65歳)とされています。

現代の感覚で考えると、64歳という年齢はそこまで高齢ではありません。しかし、当時の日本では40~50歳で亡くなる人も多かったため、春日局は長寿の部類に入るといえるでしょう。

春日局の墓はどこにある?東京都文京区・麟祥院など

春日局の墓所はいくつか存在しますが、代表的なのは以下の4カ所です。

  1. 麟祥院(東京都文京区)
    • 家光から屋敷を与えられた場所
    • 春日局の遺言で建立された寺院
    • 一般の人もお参りが可能
  2. 紹太寺(神奈川県小田原市)
    • 春日局の子孫が建立した寺院
    • 墓石には春日局の名が刻まれている
  3. 金戒光明寺(京都府京都市)
    • 春日局が信仰していた浄土宗の寺院
    • 徳川家とゆかりのある歴史的な場所
  4. 妙心寺塔頭・麟祥院(京都府)
    • 春日局の信仰が深かった禅宗のお寺
    • 戒名が刻まれた石碑が残る

これらの場所は、春日局を偲ぶ人々が今でも訪れる名所となっています。

春日局の死因の後に:生涯と家光との関係

春日局は、3代将軍・徳川家光の乳母として知られるだけでなく、大奥という制度を整えた人物でもあります。彼女の生涯はまさに波乱万丈であり、「乳母」としての役割を超え、政治的な影響力も持っていました。

ここからは、春日局がどのような人生を歩み、どのようにして大奥を作り上げたのかを詳しく解説していきます。

春日局の出自|明智光秀の家臣・斎藤利三の娘

春日局は、1579年(天正7年)に生まれ、本名を「斎藤福(さいとう ふく)」といいました。彼女の父は、明智光秀の家臣である斎藤利三(さいとう としみつ)です。

しかし、天正10年(1582年)の「本能寺の変」で明智光秀が織田信長を討ったことで状況は一変します。その後、豊臣秀吉との「山崎の戦い」に敗れた明智光秀は討ち死にし、父・斎藤利三も捕えられ、六条河原で処刑されました。

3歳で父を亡くした福は、母方の実家である稲葉家に引き取られました。

その後、公家の「三条西公国」に預けられ、公家文化の教育を受けることになります。この経験が、後に春日局が御所(朝廷)との関係を築くうえで大きな強みになりました。

稲葉正成と結婚するも乳母となるために離縁

成長した福は、小早川秀秋の家臣である稲葉正成(いなば まさなり)と結婚し、子供をもうけました。しかし、関ヶ原の戦い後、小早川秀秋と対立したことで、夫は職を失い浪人生活に入ります。

そんな中、福は「徳川家康の孫・竹千代(のちの家光)の乳母募集」の知らせを耳にしました。「自分ならば、徳川の跡継ぎを立派に育てることができる」と考えた福は応募し、見事に乳母に選ばれます。

しかし、乳母になるためには「夫と別れる」必要がありました。こうして福は夫と離縁し、「竹千代(家光)の母親代わり」としての道を歩み始めたのです。

家光の後継問題に直面|「国松派」との戦い

春日局が仕えた竹千代(家光)は、幼少期から病弱で、母の「お江」は次男・国松(のちの忠長)を溺愛していました。そのため、将軍の跡継ぎ問題が発生し、家光と国松の間で後継争いが勃発しました。

家光が幼いころは、お江や徳川秀忠(2代将軍)も国松を可愛がる傾向にあり、家光の立場は非常に不安定でした。その状況を見た春日局は、「家光こそが将軍にふさわしい」と確信し、命がけで家光を守る決意をしました。

そこで、春日局は密かに駿府へ向かい、大御所・徳川家康に直談判を行います。この行動が功を奏し、家康は「長幼の序(兄が優先)」を明確にし、家光を正式な後継者として確定させました。

春日局は、この行動によって家光の将軍就任を決定づける大きな役割を果たしたのです。

春日局が築いた「大奥制度」とは?

家光が将軍となった後、春日局は「大奥」という組織を整備しました。

大奥とは?

大奥とは、「将軍の正室や側室、奥女中(女官)たちが住む空間」のことです。
もともと将軍の側近くに女性たちが仕える習慣はありましたが、春日局がその制度を整え、「幕府の女性たちが暮らす空間」として明確に確立しました。

大奥は、江戸時代を通じて約260年間続き、最盛期には1,000人以上の女性が暮らしていたといわれています。春日局が作り上げた「大奥」は、後の幕府政治にも大きな影響を与え、女性たちの権力争いが繰り広げられる場にもなりました。

春日局が家光に与えた影響とは?

春日局は、乳母として家光の成長を支えた人物ですが、実際には「母親以上の存在」だったといわれています。

家光は幼少期から母・お江にあまり愛されず、弟・国松と比較されることが多かったため、精神的に不安定な時期もありました。そんな中、春日局は家光を支え続け、「あなたは将軍になるべき人間だ」と励まし続けたのです。

また、春日局は「家光の教育」にも力を入れました。

  • 武士としての心得を徹底的に教えた
  • 将軍としての責任感を叩き込んだ
  • 家康や秀忠の戦略を学ばせた

こうした教育の結果、家光は強いリーダーシップを持つ将軍へと成長しました。また、春日局が亡くなった後も、家光は彼女の影響を受け続けたといわれています。

総括:春日局の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 春日局の死因は不明だが、病死の可能性が高い
    • 1643年(寛永20年)に亡くなったが、公式な記録は残っていない。
    • 晩年に体調を崩しており、病死の可能性が高いと考えられている。
  • 最期の様子|家光が駆けつけるも薬を拒否
    • 家光が薬を持って駆けつけたが、春日局は服薬を拒否した。
    • 一説では、薬を口に含んだふりをして袖に吐き出したとも伝えられる。
  • 春日局の辞世の句
    • 「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」
    • 意味:「西に沈む月のように、私は今日この世の煩悩から解き放たれる」
  • 享年は64歳(または数え年で65歳)
    • 1579年(天正7年)生まれ、1643年(寛永20年)没。
  • 春日局の墓所
    • 代表的な墓所は以下の4つ:
      1. 麟祥院(東京都文京区) … 彼女の遺言で建立された寺院
      2. 紹太寺(神奈川県小田原市) … 子孫が建立
      3. 金戒光明寺(京都府) … 浄土宗の寺院
      4. 妙心寺塔頭・麟祥院(京都府) … 戒名が刻まれた石碑がある
  • 春日局の生涯|家光を将軍へ導く
    • 明智光秀の家臣・斎藤利三の娘として誕生。
    • 夫・稲葉正成と結婚するも、乳母となるために離縁。
    • 家光の後継問題で「国松派」と対立し、大御所・家康に直訴。
    • その結果、家光の将軍就任が確定。
  • 春日局が築いた「大奥制度」
    • 将軍の妻・側室・奥女中たちが住む空間を整備。
    • 260年以上続く幕府の重要な制度として確立。
  • 春日局の家光への影響
    • 幼少期の家光を精神的・教育的に支えた。
    • 家光の自害未遂を止め、彼を将軍として成長させた。