今日は、江戸時代に活躍した女性、桂昌院(けいしょういん)についてお話しします。
桂昌院は「八百屋の娘」と言われながらも、将軍の母となり、やがては朝廷から最高の位を授かった、まさにシンデレラのような人生を歩んだ女性です。でも、彼女の人生は単なる成功物語ではありません。
「桂昌院ってどんな人?」「美人だったの?」「なぜ歴史に名を残したの?」そんな疑問を、分かりやすく解説していきます!
桂昌院とは?徳川家光の側室・お玉の方の生涯と功績

桂昌院は、江戸幕府の3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の側室であり、5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の母として知られています。彼女の生涯は、まさに「玉の輿」の象徴と言えるものですが、その裏には並々ならぬ努力と苦労がありました。
ここでは、彼女の生涯を詳しく見ていきましょう。
桂昌院とは?八百屋の娘から将軍の母へと昇りつめた生涯
桂昌院は、1627年(寛永4年)に京都で生まれました。本名は「お玉」。
一般的には「八百屋の娘」と言われていますが、実際には母の再婚によって武士の家に養女として迎えられたと考えられています。
彼女の人生が大きく変わるのは、大奥に仕えることになった13歳のとき。将軍の側室に仕える女中として働き始めます。そこで努力を重ねた結果、春日局(かすがのつぼね)の目に留まり、徳川家光の側室となるのです。
その後、20歳で綱吉を出産。しかし、家光の死後は仏門に入り、「桂昌院」という名前をもらいます。出家してもなお、大奥での影響力は絶大で、やがて息子の綱吉が将軍になったことで、彼女の立場はさらに強くなりました。
桂昌院の家系と出自—本当に「八百屋の娘」だったのか?
「桂昌院は八百屋の娘」とよく言われますが、実はこれにはさまざまな説があります。公式な記録では、彼女の父は「本庄太郎兵衛宗正」という武士であり、桂昌院はその娘とされています。しかし、民間では「本当の父親は八百屋の仁左衛門」との説が有力です。
このため、江戸時代に彼女のこと「庶民出身なのに将軍の母になった女性」とからかう落書きもありました。しかし、実際には武士の養女となったため、大奥に入ることができたのです。
当時の社会では、家柄がとても大切だったため、本当に八百屋の娘のままだったら、大奥に入ることは難しかったでしょう。
桂昌院と徳川家光—側室になった経緯と大奥での地位
桂昌院が家光の側室になれたのは、春日局の推薦があったからです。当時、家光にはなかなか子供が生まれなかったため、跡継ぎ問題がありました。そこで春日局が「この子はどうでしょう?」と推薦したのが、お玉だったのです。
家光に気に入られたお玉は、1646年に徳松(のちの綱吉)を出産します。このことで彼女の立場は大きく向上しました。しかし、家光が亡くなると、桂昌院は出家して大奥を離れることになります。
桂昌院と生類憐れみの令—綱吉の政治に影響を与えた母
桂昌院は深い仏教信仰を持っていました。その影響で、息子の綱吉にも「学問と慈悲の心が大切」と教えました。
綱吉の政治の中で有名なのが「生類憐れみの令」です。この政策は、すべての生き物を大切にしようというもので、極端な動物愛護政策として批判されることもあります。しかし、桂昌院は「人々がもっと優しくなれば、世の中が平和になる」と考えていたようです。
近年では、生類憐れみの令は単なる動物保護ではなく、「人々の殺伐とした心を和らげるための政策だった」とも考えられています。桂昌院は、そうした社会改革の思想を持つ女性だったのです。
桂昌院の最期と墓所—増上寺と京都の善峯寺
桂昌院は1705年に79歳で亡くなりました。彼女の墓は東京の増上寺にありますが、京都の善峯寺(よしみねでら)にも遺髪が納められています。

善峯寺は、桂昌院が再建を支援したお寺の一つです。彼女は仏教への信仰が深く、多くの寺院に寄進を行いました。そのため、今でも「桂昌院ゆかりの寺」として有名です。
桂昌院は美人だった?容姿や逸話・語源の由来

桂昌院は、八百屋の娘から将軍の母となったことで「玉の輿」の語源とも言われる女性ですが、その容姿や逸話についても多くの記録が残っています。実際に美人だったのか?どのようなエピソードがあるのか?
ここでは、その点について詳しく解説していきます。
桂昌院は本当に美人だったのか?
桂昌院の容姿について、当時の記録では「庶民的な丸顔で、下顔部が狭く、鼻筋が通っていた」と記されています。江戸時代の平均身長が145cm前後だったのに対し、桂昌院の身長は146.8cmと、当時としてはやや高めでした。
また、桂昌院の墓がある増上寺での遺骨調査では、血液型がA型であったことも判明しています。顔立ちは現代の感覚でいうと「かわいらしい系」の美人だったのではないかと考えられます。
しかし、大奥で重要なのは単なる美貌だけではありません。桂昌院は、知性や教養、気配りの力によって家光の心をつかんだ可能性が高いです。そのため、彼女が美人だったかどうか以上に、大奥での立ち振る舞いが評価されていたのかもしれません。
「玉の輿」の語源は桂昌院?その由来と意味
「玉の輿(たまのこし)」という言葉は、「低い身分の女性が裕福な男性と結婚して、一気に生活が向上すること」を意味します。この語源が桂昌院にあると言われていますが、本当にそうなのでしょうか?
桂昌院の幼名は「お玉」でした。そして、彼女は八百屋の娘から大奥へ入り、将軍の母にまで出世しました。この劇的な変化が、「玉(お玉)が輿(こし)に乗る」=「身分が急上昇する」という意味で使われるようになったとされています。
ただし、「玉の輿」という言葉自体が桂昌院の時代に使われていたわけではなく、後の時代に作られた俗説の可能性もあります。しかし、彼女の人生がこの言葉にピッタリなのは間違いありません。
桂昌院のエピソード—大奥での逸話と影響力
桂昌院には、大奥でのさまざまな逸話が残されています。その中でも特に有名なものを紹介します。
- 順性院(家光の別の側室)と対立し、折檻(せっかん)を受けた
→ 大奥は女性たちの権力争いが絶えない場所でした。桂昌院もまた、他の側室と対立したことがあったと言われています。 - 綱吉の正室・信子との関係が悪かった
→ 桂昌院は、息子の綱吉に学問を重んじるよう教育しましたが、正室である信子との関係はあまり良くなかったと言われています。 - 桂昌院の寵愛を受けた「護持院隆光」という僧侶
→ 桂昌院は深く仏教に帰依しており、僧侶・隆光を寵愛したとされています。この隆光が綱吉に「生類憐れみの令」を進言したとも言われています。 - 大奥の制度改革にも関わった
→ 桂昌院は、大奥の運営にも影響を与えたとされ、彼女の時代に制度が大きく整備されました。
こうした逸話を見ても、桂昌院は単なる「将軍の母」ではなく、江戸幕府の中でも重要な役割を果たした女性だったことがわかります。
桂昌院が支援した寺社—護国寺、善峯寺、増上寺など
桂昌院は、仏教信仰がとても深く、数多くの寺社を支援したことで知られています。彼女が寄進・復興に関わった主な寺社を見てみましょう。
- 護国寺(東京都)
→ 桂昌院が発願し、江戸に建立した寺院。現在も徳川家とゆかりのある寺として知られています。 - 善峯寺(京都府)
→ 幼少期から訪れていた寺で、桂昌院の強い信仰心により再建された。現在も「桂昌院ゆかりの寺」として有名です。 - 増上寺(東京都)
→ 徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)。桂昌院はここに葬られました。 - 智積院、長谷寺(奈良県)、春日大社(奈良県)
→ これらの寺社も桂昌院の寄進を受けたとされています。
彼女は、単なる大奥の女性ではなく、文化・宗教面でも多大な貢献をしていたことがわかります。
桂昌院の再評価—悪女か、それとも賢母か?
桂昌院は、長らく「綱吉の母として権力を握った女性」として、あまり良いイメージを持たれていませんでした。しかし、近年の研究では、彼女の評価は大きく変わりつつあります。
- 「教育ママ」としての桂昌院
→ 桂昌院は、綱吉に「学問が大事」と教え込みました。その結果、綱吉は儒教や仏教を重んじる将軍となり、江戸時代の文化発展に貢献しました。 - 生類憐れみの令の背景
→ かつては「極端な動物愛護」と批判されたこの政策ですが、近年では「社会全体の殺生を減らす」という狙いがあったことが分かっています。桂昌院の信仰心が影響した可能性が高いです。 - 寺院文化の発展に貢献
→ 彼女が支援した寺社は数多く、仏教文化の発展に大きく貢献しました。
これらの点を考えると、桂昌院は単なる「悪女」ではなく、時代を変えた「賢母」としての側面も持っていたことが分かります。
総括:桂昌院とはどんな人かまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 桂昌院とは?
- 徳川家光の側室であり、5代将軍・徳川綱吉の母。
- 「八百屋の娘」と言われるが、実際には武士の養女として大奥入りした可能性が高い。
- 出家後、「桂昌院」と名乗り、仏教信仰に深く傾倒した。
✅ 大奥での影響力
- 春日局の推薦を受け、家光の側室となる。
- 綱吉を出産し、家光の死後は出家するも、大奥で大きな影響を持ち続ける。
- 綱吉が将軍になったことで、再び江戸城へ戻り、権力を持つようになる。
✅ 「玉の輿」の語源?
- 桂昌院の幼名「お玉」と「輿(こし)に乗る」をかけて「玉の輿」の由来とされる。
- ただし、当時「玉の輿」という言葉は存在せず、後世に作られた俗説の可能性が高い。
✅ 美人だったのか?
- 墓所の遺骨調査によると、庶民的な丸顔で鼻筋が通った顔立ちだったと推定される。
- 身長は146.8cmと、当時の平均よりやや高め。
- 美貌だけでなく、教養や立ち振る舞いの良さで家光の寵愛を受けたと考えられる。
✅ 生類憐れみの令との関係
- 桂昌院の仏教信仰が、綱吉の「生類憐れみの令」に影響を与えた可能性がある。
- 単なる動物愛護ではなく、社会全体の暴力を抑える狙いがあったと考えられている。
✅ 桂昌院の支援した寺社
- 護国寺(東京):桂昌院の発願で建立された。
- 善峯寺(京都):幼少期から親しみ、再建を支援。
- 増上寺(東京):徳川家の菩提寺で、桂昌院の墓所。
- その他、智積院・長谷寺・春日大社など、多くの寺社を支援。
✅ 桂昌院の最期
- 1705年、79歳で死去。
- 墓所は東京の増上寺にあり、京都の善峯寺には遺髪が納められている。
✅ 悪女か賢母か?近年の再評価
- かつては「権力を持ちすぎた女性」として批判されることが多かった。
- しかし、近年では「教育熱心な賢母」として再評価されている。
- 仏教を重んじ、文化発展にも大きな影響を与えた人物と考えられる。
