今回は「甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)」というちょっとむずかしそうな歴史の話を、できるだけわかりやすく説明していきますよ。

この戦争は、日本と清(今の中国)が戦った「日清戦争(にっしんせんそう)」の原因にもなった大事件なんです。

朝鮮半島でおきた農民の反乱が、どうして大きな戦争につながっていったのか、一緒に見ていきましょう。

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甲午農民戦争をわかりやすく解説!背景・流れ・結果

甲午農民戦争は、1894年に朝鮮で発生した大規模な農民の反乱です。この戦争は、朝鮮の近代化の過程において重要な役割を果たしました。ここでは、その背景、流れ、結果をわかりやすく解説します。

甲午農民戦争とは何か?東学党の乱との違い

甲午農民戦争とは、1894年に朝鮮(今の韓国)で起こった大きな農民たちの反乱です。指導したのは「東学(とうがく)」という宗教の信者たちで、このため「東学党の乱(とうがくとうのらん)」とも呼ばれてきました。

しかし、最近では「乱(らん)」という言葉では小さな反乱のように聞こえてしまうため、「戦争」と表現するようになっています。実際に、農民たちは数十万人規模で立ち上がり、国の軍隊と本気で戦ったからです。

つまり、「甲午農民戦争」と「東学党の乱」は同じ出来事をさしているのですが、現在ではより正確な「甲午農民戦争」という呼び名が使われています。

甲午農民戦争の原因:朝鮮農民の不満と東学の影響

甲午農民戦争が起こった理由は、大きくわけてふたつあります。

ひとつ目は、朝鮮の人々、とくに農民たちの生活がとても苦しかったことです。当時の朝鮮では、役人たちが税金をたくさん取り立てたり、不正をしてお金を自分のものにしていたりしました。物の値段もどんどん上がっていて、食べ物を買うのも大変な時代でした。

ふたつ目は、「東学(とうがく)」という宗教の広まりです。これは西洋から来たキリスト教に対抗するために生まれた宗教で、「人はみな平等」という考えを大事にしていました。この考えが、多くの農民に「もう黙っていられない!」という気持ちを持たせたのです。

つまり、苦しい生活と東学の考え方が合わさって、大きな反乱が起きたのです。

甲午農民戦争の流れ:第一次蜂起から全州和約まで

最初のきっかけは、1894年、朝鮮南部の「古阜(こふ)郡」というところで起きた事件です。役人が税金を自分のものにしてしまい、それに怒った農民たちが立ち上がりました。リーダーは「全琫準(チョン・ボンジュン)」という人物です。

この農民反乱はすぐに広がり、大勢の農民が武器を手に戦うようになります。5月には、全州(ぜんしゅう)という町を占領するまでになりました。

このままでは国がもたないと思った朝鮮政府は、清という中国の王朝に助けを求めます。そして清が兵を送ると、日本も「天津条約(てんしんじょうやく)」という約束にもとづいて兵を出します。

しかし、戦いが広がるのを恐れた農民たちは朝鮮政府と「全州和約(ぜんしゅうわやく)」という和平の約束を結び、第一次蜂起はおさまりました。

甲午農民戦争の第2次蜂起と全琫準の最期

農民たちと政府の約束でいったんおさまった反乱ですが、その後、日本軍が朝鮮国内にとどまり続けたことで、新たな火種が生まれました。

農民たちは「日本が朝鮮を乗っ取ろうとしている!」と感じ、再び立ち上がります。これが「第二次蜂起(ほうき)」です。

10月、農民軍はふたたび武器を手に戦いを始めます。しかし今回は、日本軍との本格的な戦いとなりました。なかでも「牛金峙(ウグムチ)の戦い」では、日本の近代的な武器や訓練を受けた兵士に圧倒され、多くの農民が命を落としました。

リーダーだった全琫準も捕まり、1895年に処刑されました。こうして、甲午農民戦争は完全に終わることとなったのです。

甲午農民戦争の結果と意義

甲午農民戦争は、ただの農民反乱ではありませんでした。この戦いのあと、朝鮮の人々の中には「政府は民の声を聞かねばならない」という考えが広がりました。

また、日本と清が朝鮮に軍隊を送り込み、争ったことで、朝鮮は国としての独立性を大きく失いました。つまり、内政の混乱が外国の介入を招いたのです。

日本にとっては、これをきっかけに朝鮮での影響力を強めていく大きな一歩となりました。そして、この戦争が「日清戦争」へとつながっていくことになります。

甲午農民戦争は、民衆の力が国の歴史を動かした重要な出来事でした。

甲午農民戦争が日清戦争の原因になった理由をわかりやすく

甲午農民戦争は、単なる反乱ではなく、近代日本の誕生と東アジアの国際秩序を大きく変えた出来事でした。この戦争の意味を振り返り、歴史の転換点としての重要性を考察します。

甲午農民戦争がきっかけ!日清両国が朝鮮に出兵した理由

甲午農民戦争が始まったとき、朝鮮政府は自国の力だけではおさえられないと考えて、清国(中国)に助けを求めました。これを受けて清は兵を朝鮮に送りました。

ここで大事なのが、1885年に結ばれた「天津条約」です。この条約では、「朝鮮に出兵するときは、事前に相手国に知らせる」というルールがありました。清はこのルールを守って日本に通告しました。

すると日本も「自分たちも朝鮮にいる日本人を守るために出兵する」と言って軍隊を送りました。こうして、朝鮮の土地に清と日本の軍隊が同時に駐留することになったのです。

本来なら反乱が終われば軍隊も帰るはずですが、この出兵がきっかけとなり、両国の関係がどんどん悪くなっていきました。

全州和約で内乱が収束しても日本が撤退しなかった理由とは?

第一次蜂起が「全州和約」でおさまったあと、清はすぐに兵を引き上げようとしました。ところが、日本は兵を引きませんでした。

その理由のひとつは、日本国内の政治状況です。当時、日本は総選挙の真っただ中で、「外国に弱腰ではダメだ!」という意見が強まっていました。政府としては「簡単に撤退すれば国民の信頼を失う」と考えたのです。

さらに、日本は「朝鮮政府はまだ腐敗している。だから改革が必要だ。そのためには我々が関与すべきだ」と主張しました。つまり、内政に口出しをするための理由づけをしたのです。

こうして、日本は朝鮮にとどまり、朝鮮政府に圧力をかけるようになります。これが清との対立をさらに深めることになります。

日清の対立と戦争回避失敗の流れをわかりやすく!外交交渉の崩壊

朝鮮にとどまる日本軍と、それに反発する清国。この二国の関係は日に日に悪くなりました。

決定的だったのは、日本が1894年7月、朝鮮の王宮(景福宮)を占拠し、国王の高宗に「清の軍隊を追い出せ」と命じたことです。これは、朝鮮の独立を守るという名目でしたが、実際には日本が朝鮮の政治に強く介入する行動でした。

そして日本軍は清軍がいる「牙山(あさん)」という地域に向けて進軍。これによって小さな戦闘が発生し、ますます関係が悪化します。

交渉も行われましたが、日本側は強気の姿勢を崩さず、戦争を避けるための話し合いは失敗に終わりました。ついに8月1日、日本と清は正式に宣戦布告。日清戦争が始まったのです。

ロシア・イギリスの思惑も!国際情勢と朝鮮半島の重要性を解説

朝鮮半島をめぐる争いに注目していたのは、日本と清だけではありませんでした。

特にロシアとイギリスという大国も、朝鮮に関心を持っていました。ロシアは「不凍港(ふとうこう)」と呼ばれる、冬でも使える港が欲しかったため、朝鮮を狙っていました。

イギリスはロシアの南下を止めるために、日本と手を組もうとします。実際にこのころ「日英通商航海条約」が結ばれ、日本はイギリスと友好な関係を築くことになります。

こうして、朝鮮半島はアジアの小国ながら、世界中の大国たちが注目する場所になっていきました。まさに「東アジアのパワーバランス」が変わる大事な地域だったのです。

甲午農民戦争がもたらした日清戦争の本当の意味

甲午農民戦争が引き起こした日清戦争は、日本にとって「帝国への第一歩」となる戦いでした。

この戦争に勝った日本は、下関条約で台湾や澎湖諸島(ほうこしょとう)を手に入れ、清国から賠償金を受け取りました。これにより、日本は国際的にも強い国として認められるようになります。

また、朝鮮はこの戦争の結果、清の支配から完全に離れ、「独立国」としての道を歩み始めます。しかし、同時に日本の影響を強く受けることになりました。

つまり、甲午農民戦争は民衆の反乱として始まりましたが、結果的にはアジアの国際関係を大きく変える引き金となったのです。この戦争がなければ、日本の近代史も、東アジアの歴史も、まったく違ったものになっていたかもしれませんね。

総括:甲午農民戦争をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 甲午農民戦争(東学党の乱)は、1894年に朝鮮で起こった大規模な農民反乱であり、「日清戦争」のきっかけとなった。
  • 反乱の原因は、朝鮮農民の生活苦(重税・腐敗・物価高騰)と東学という宗教の思想的影響。
  • 農民は第一次蜂起で全州を占領し、朝鮮政府と「全州和約」を結んで一時的に収束。
  • しかし日本軍が朝鮮にとどまったことで不信が高まり、第二次蜂起が発生。日本軍との戦いで農民軍は敗北、指導者の全琫準は処刑された。
  • 戦争後、朝鮮の民衆意識に変化が起こり、日本と清の対立が深まるきっかけにもなった。
  • 天津条約により、清と日本は朝鮮出兵時に相互通告の約束があったが、両軍ともに朝鮮に駐留。
  • 清は撤兵したが、日本は国内事情と朝鮮改革の名目で撤退せず、対立が激化。
  • 日本は王宮占拠・牙山進軍などで清軍を挑発し、1894年8月に正式に日清戦争が始まる。
  • ロシアやイギリスなど列強も朝鮮問題に関心を持ち、東アジアの国際関係に影響を与えた。
  • 甲午農民戦争は、民衆運動でありながら、東アジアの歴史を動かした重要な事件である。