「黒田官兵衛」という戦国時代の有名な武将を知っていますか?

豊臣秀吉の右腕として数々の戦いで活躍し、「天才軍師」とも呼ばれた人物です。しかし、そんな黒田官兵衛も、最期には病に倒れ、この世を去りました。

でも、実は官兵衛の「死因」については、歴史の中でいろいろな説が語られているのです。

「梅毒だった?」、「頭巾で腫れ物を隠していた?」、「最後は家臣たちを罵倒した?」


そんな気になる話を、歴史塾の塾長が分かりやすく解説します!

黒田官兵衛の死因:病名の真相と最期の様子

では早速、黒田官兵衛の死因について解説します。

結論から言えば、黒田官兵衛は病気が原因で死亡しました。詳しく見ていきましょう。

黒田官兵衛の死因は何?病死説と梅毒説の真相

黒田官兵衛の死因は、歴史的には「病死」とされています。

では、どんな病気だったのでしょうか?

有力な説のひとつが「梅毒説」です。梅毒とは、当時ヨーロッパから日本に伝わった病気で、体に腫れ物ができたり、最終的には脳に影響を与えることもある怖い病気です。

官兵衛は生前、頭巾(ずきん)をかぶっていたことが多かったといわれています。「これは頭にできた梅毒の腫れ物を隠していたからでは?」という説があるのです。

さらに、晩年には性格が変わりやすく、急に怒ったり、許したりすることがあったと言われています。これも「梅毒が脳に影響を与えた症状だったのでは?」と考えられています。

しかし、最近の研究では「梅毒説は信憑性が低い」ともいわれています。

なぜなら、官兵衛が長年患っていたとされる「頭の腫れ物」は、幽閉されていた時に不衛生な環境でできたものかもしれないからです。また、彼の歩行障害も栄養失調によるものだった可能性があります。

つまり、官兵衛の死因は「病死」ではありますが、梅毒だったかどうかは、はっきりしていないのです。

黒田官兵衛はどこで死んだ?晩年の生活と最期の地

黒田官兵衛は、戦国時代が終わりに近づいたころ、家督を息子の長政に譲りました。関ヶ原の戦い(1600年)の後、長政は福岡藩主となり、官兵衛は隠居生活を送ることになります。

隠居生活といっても、官兵衛はじっとしているタイプではありませんでした。
福岡に住みながらも、京都へ行ったり、太宰府(だざいふ)に庵を作って茶を楽しんだりしていました。実は「茶の湯」もとても好きだったんですね。

しかし、晩年になると体調が悪くなり、有馬温泉で療養するようになりました。そして1604年、京都の伏見藩邸でついに亡くなります。享年59歳(数え年で60歳)でした。

伏見藩邸は、当時の武士が京都に持っていた屋敷です。戦国時代に活躍した官兵衛でしたが、その最期は戦場ではなく、静かに病の床で迎えたのです。

黒田官兵衛の最後の様子とは?家臣たちを罵倒した理由

官兵衛の最期には、ちょっと不思議なエピソードがあります。なんと、亡くなる前に家臣たちを罵倒し始めたのです。

「え?どうして? 病気のせい?」と思うかもしれませんね。実は、これには深い理由がありました。

官兵衛は、自分が死んだ後、息子の長政がスムーズに家督を継げるようにしたかったのです。でも、家臣たちは「やっぱり官兵衛様が一番だ!」と思っていました。

そこで、官兵衛はわざと家臣たちを怒鳴りつけ、「もう俺のことなんてどうでもいい!」と思わせたのです。これによって、家臣たちは自然と長政に忠誠を誓うようになりました。

死の間際まで、黒田家の未来を考えていたなんて、さすが名軍師ですね。

黒田官兵衛の辞世の句と、そこに込められた意味

武士は、自分が死ぬときに「辞世の句」を詠むことがよくありました。官兵衛が残した辞世の句は、こうです。

「おもひおく 言の葉なくて つひにいく みちはまよわじ なるにまかせて」

現代語にすると、「もう何も言い残すことはない。ただ運命のままに、迷わず旅立とう」という意味です。戦国時代を生き抜き、最後まで知略を巡らせた官兵衛らしい一句ですね。

死を恐れることなく、静かに受け入れた彼の気持ちが伝わってきます。

黒田官兵衛の死因の後に:死後と遺されたもの

黒田官兵衛の死に関連する情報は以下のとおりです。

黒田官兵衛のお墓はどこ?キリシタン墓地と埋葬の謎

黒田官兵衛は、キリスト教を信仰していたことでも知られています。そのため、彼の遺言には「博多にいる神父のもとへ遺体を運んでほしい」というものがありました。

しかし、実際に官兵衛の遺体がどうなったかには、いくつかの説があります。現在、彼のお墓があるのは福岡市博多区の崇福寺(そうふくじ)です。ここには、官兵衛と息子・長政の墓が仲良く並んで建てられています。

では、官兵衛の遺言通りにキリシタン墓地に埋葬されたのか?これについては、はっきりした記録が残っていません。

ただし、当時はキリシタン弾圧が始まる時期だったため、黒田家の家臣たちが「官兵衛の遺言をそのまま実行するのは危険だ」と考え、崇福寺に葬った可能性があります。

現在でも、崇福寺のお墓は一般公開されており、福岡の歴史スポットのひとつとなっています。

黒田官兵衛の死後:家族や黒田家はどうなった

官兵衛の死後、息子の黒田長政(くろだながまさ)が黒田家を引き継ぎました。長政は関ヶ原の戦いで東軍として活躍し、52万石という大きな領地をもらった有力大名でした。

長政の統治のもと、黒田家は江戸時代を通じて福岡藩を支え続けました。そして、官兵衛の築いた「福岡城」は、そのまま黒田家の拠点となりました。また、黒田家の家紋「黒田藤巴(くろだふじともえ)」は、今でも福岡のシンボルのひとつとして親しまれています。

官兵衛自身は生前から、「長政がうまく藩を治められるように」とさまざまな策を講じていました。そのため、黒田家は安定して幕末まで続きました。

黒田官兵衛の死因と戦国時代—彼の死は何を意味したのか?

官兵衛が亡くなった1604年(慶長9年)は、戦国時代の終わりが近づいた時期でした。徳川家康が江戸幕府を開き、新しい時代へと移行しつつあったのです。

もし官兵衛がもう少し長く生きていたら、徳川家とどのような関係を築いたのか気になりますね。実際、彼の息子・長政は徳川家康に仕えており、黒田家は江戸幕府のもとで存続しました。

しかし、官兵衛自身は「もし自分が本気を出せば、天下を狙えた」と思っていたとも言われています。それを示すエピソードのひとつが「関ヶ原の戦いの際、九州で独自に勢力を広げようとした」というものです。

この行動がもし成功していたら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。
そう考えると、官兵衛の死は「一人の武将の終焉」ではなく、「戦国時代の終わり」を象徴するものでもあったのです。

黒田官兵衛は本当に梅毒だったのか?最新の研究と歴史の真実

先ほども説明した「梅毒説」ですが、近年の研究で「実際は違ったのでは?」という見方が強まっています。

・官兵衛が梅毒に感染した証拠がない
・頭巾をかぶっていたのは、幽閉時の栄養失調やストレスによる脱毛が原因かもしれない
・最後に家臣たちを罵倒したのは、梅毒による精神症状ではなく、黒田家の未来を考えての行動だった

こうしたことから、官兵衛が梅毒だったとする確実な証拠は見つかっていません。つまり、彼の死因は「不明の病」とするのが正しいのかもしれません。

歴史上の人物の死因は、時代が経つにつれてさまざまな説が出てきます。黒田官兵衛もそのひとりですが、大切なのは「彼がどのような人生を生きたのか」 です。戦国の世を知略で生き抜き、最後まで家族や家臣を想った官兵衛の姿は、今も語り継がれています。

総括:黒田官兵衛の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 黒田官兵衛の死因は「病死」 であるが、具体的な病名は不明。
  • 「梅毒説」 が有力視されたが、近年では信憑性が低いとされている。
    • 梅毒による腫れ物を隠すために頭巾をかぶっていた説がある。
    • 精神症状の変化も梅毒の影響とする見方があった。
    • しかし、幽閉時の栄養失調やストレスが原因だった可能性も指摘されている。
  • 晩年は福岡と京都を行き来し、茶の湯を楽しんでいた。
  • 最期の地は京都の伏見藩邸で、享年59歳(数え年60歳)。
  • 亡くなる直前に家臣たちを罵倒したのは、息子・長政に家督をスムーズに継がせるための計算された行動だった。
  • 辞世の句:「おもひおく 言の葉なくて つひにいく みちはまよわじ なるにまかせて」
    • 「もう言い残すことはない。運命のままに迷わず旅立つ」という意味。
  • 遺言ではキリシタン墓地への埋葬を希望したが、実際には福岡の崇福寺に葬られた。
  • 死後、息子の黒田長政が福岡藩52万石を治め、黒田家は幕末まで続いた。
  • もし官兵衛が生きていたら、戦国時代の終焉や徳川家との関係に影響を与えた可能性がある。
  • 官兵衛の死は、一人の武将の最期ではなく、戦国時代の終わりを象徴する出来事でもあった。