「独眼竜(どくがんりゅう)」という言葉を聞いたことがありますか?
これは、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将伊達政宗(だて まさむね)のことを指すあだ名です。幼いころに天然痘(てんねんとう)という病気にかかり、右目を失いましたが、それでも天下を狙って大活躍しました。
しかし、そんな伊達政宗も最後には病に倒れます。
では伊達政宗はどんな病気で亡くなったのか? 何歳まで生きたのか? この記事では、塾長である私がわかりやすく解説します!
伊達政宗の生涯や最期の様子を知ることで、歴史がもっと面白くなるはずです。ぜひ最後まで読んでくださいね。
伊達政宗の死因は何だったのか?病名や症状

戦国武将の多くは戦で亡くなりましたが、伊達政宗は病気で亡くなったと言われています。一体どんな病気だったのでしょうか?歴史資料をもとに詳しく見ていきましょう。
伊達政宗の死因は「食道がん」か「癌性腹膜炎」の説が有力
伊達政宗の死因として「食道がん」または「癌性腹膜炎(がんせいふくまくえん)」が有力視されています。どちらも、現代でも深刻な病気です。
食道がんは、のどから胃に続く「食道」にできるがんで、食べ物を飲み込むのが難しくなることが特徴です。伊達政宗も、晩年には食事を飲み込みづらくなり、食欲が落ちていたと言われています。
一方で、癌性腹膜炎はがんが広がってお腹の中に炎症を起こす病気です。この病気になると、お腹が膨れたり、強い痛みがあったりします。歴史記録によると、伊達政宗は亡くなる直前にお腹が膨らんで苦しそうにしていたそうなので、この病気だった可能性もあります。
当時はまだ医学が発達していなかったため、正確な診断は難しかったでしょう。でも、これらの症状から、伊達政宗はがんにかかっていた可能性が高いと言われているのです。
伊達政宗は何歳で亡くなったのか?70歳の晩年
伊達政宗は 1636年(寛永13年)5月24日 に 70歳 で亡くなりました。戦国時代の武将としてはかなり長生きした方です。
他の有名な武将と比べると、
- 織田信長 … 49歳で本能寺の変にて死亡
- 豊臣秀吉 … 62歳で病死
- 徳川家康 … 75歳で病死
となっており、伊達政宗は戦国時代の中では比較的長生きした武将だったと言えます。
70歳まで生きられた理由のひとつは、江戸時代に入って平和な時代になったことです。戦争が減り、健康管理もしやすくなったため、戦国武将の中でも特に長生きできたのかもしれませんね。
死因に関する他の説「戦傷説」と「毒殺説」
伊達政宗の死因には、ほかにも「戦で負った傷が原因」という説や「毒殺された」という説があります。
政宗はたくさんの戦いに参加していたため、体のどこかに昔の傷が残っていた可能性があります。戦で受けた傷が悪化して、病気になってしまったのでは?という説もあります。
また、一部の研究者の中には「伊達政宗は毒殺されたのではないか?」という説を唱える人もいます。伊達政宗は豊臣家や徳川家ともうまく付き合っていたものの、敵も多かったため、何者かに毒を盛られたのでは?と考える人もいます。
ただし、これらの説には確かな証拠がないため、あくまでも「噂(うわさ)」のようなものです。現在のところ「がん」が死因だった説が最も有力だと考えられています。
伊達政宗の最期の様子|家光との謁見と死の直前
伊達政宗は亡くなる直前、徳川家光(とくがわ いえみつ)と対面しました。家光は徳川幕府の三代目の将軍で、当時の日本を治めていた人物です。
この時の政宗はかなり衰弱(すいじゃく)していたそうです。そのため、家光はとても心配して、江戸中のお寺に「政宗の病気が治るようにお祈りしてくれ」と頼んだほどでした。しかし、祈りもむなしく、政宗は江戸の伊達家の屋敷で静かに息を引き取ったのです。
歴史記録によると、伊達政宗は最期まで意識がはっきりしていたと言われています。辞世の句(じせいのく)を詠み、家臣たちに最後の言葉を残した後、眠るように亡くなったと伝えられています。
伊達政宗の辞世の句「曇りなき心の月を先立てて」
伊達政宗の最期の言葉として有名なのが辞世の句です。辞世の句とは自分が死ぬときに詠む和歌のことです。
「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
この和歌の意味は「曇りのない心の光を頼りに、暗い世の中を照らしながら旅立つ」というものです。これは、伊達政宗が最後まで自分の信念を貫いたことを表しています。
幼いころに右目を失いながらも戦い続けた彼にふさわしい、力強い辞世の句ですね。
伊達政宗の死因の後に:死後や墓所や家臣の殉死

伊達政宗が亡くなった後、彼の遺体はどこに埋葬されたのでしょうか?また、彼の死は仙台藩や日本全体にどのような影響を与えたのでしょうか?
ここからは、政宗の死後の出来事について詳しく解説します。
伊達政宗の遺体はどこに埋葬されたのか
伊達政宗は「仙台市の瑞鳳殿(ずいほうでん)」に埋葬されました。これは彼の遺言によって建てられたお墓で、仙台藩の歴代藩主が眠る場所としても知られています。
瑞鳳殿はとても華やかなお墓で、金や黒を基調とした美しい装飾が施されています。しかし、第二次世界大戦中の仙台空襲で一度焼失してしまいました。その後、1979年に再建され、現在も多くの人が訪れる観光スポットになっています。
伊達政宗は生前、「この場所に埋葬してほしい」と希望していたと言われています。そのため、彼の意志を尊重し、仙台の地で眠ることになりました。
伊達政宗の死で20人の家臣が殉死した
伊達政宗が亡くなった際、彼の家臣20名が殉死(じゅんし)しました。殉死とは、主君(しゅくん)が亡くなった後、その家臣が自ら命を絶つことを指します。
江戸幕府は原則として殉死を禁止していました。しかし、伊達家の家臣たちは「どうしても主君と共に逝きたい」と強く望み、特別に認められたと言われています。このことからも、伊達政宗が家臣たちにどれほど慕われていたのかがわかりますね。
現在、瑞鳳殿には政宗の側近だった家臣たちのお墓も並んでおり、彼らの忠誠心を今に伝えています。
伊達政宗の死後、仙台藩はどうなったのか?
伊達政宗の死後、仙台藩の藩主となったのは彼の次男・伊達忠宗(だて ただむね)です。忠宗は父とは異なり、戦よりも政治を重視する人物でした。そのため、政宗のように目立つことはありませんでしたが、藩の経営を安定させることに成功しました。
忠宗の時代には、
- 農業や商業を発展させ、仙台藩の経済を支えた
- 仙台城の二の丸を整備し、城の防御力を高めた
- 新しい法律を作り、藩の秩序を守った
などの政策を進めました。こうして仙台藩は政宗の時代からさらに強い藩へと成長していったのです。
伊達政宗の死は豊臣・徳川政権にどう影響した?
伊達政宗は豊臣秀吉や徳川家康とバランスよく付き合いながら仙台藩を守ってきました。しかし、彼の死後、伊達家の政治的な影響力は少しずつ小さくなっていきます。
特に、江戸幕府の三代将軍徳川家光の時代には、幕府の力がさらに強くなり、大名たちは政治的な発言力を失っていきました。 政宗が生きていた頃は、「もし幕府に不満があれば、伊達家が戦うかもしれない」と思われていましたが、彼が亡くなると、そんな可能性もなくなったのです。
ただし、政宗の影響力は完全になくなったわけではありません。彼の子孫は幕府の中で重要な役職につき、伊達家は江戸時代を通じて存続することができました。これは、政宗が「幕府とうまく付き合う方法」を家族に教えていたからかもしれませんね。
伊達政宗の名言・エピソードから学ぶリーダーシップ
伊達政宗はただの戦国武将ではなく、知恵にあふれたリーダーでもありました。彼は多くの名言を残していますが、その中でも有名なのが以下の言葉です。
「人を殺すよりは、人を生かす道を考えよ」
これは、戦国時代の武将らしからぬ言葉ですよね。しかし、政宗は戦うことだけが強さではなく、人を助け、国を発展させることこそが本当の強さだと考えていました。
また、彼は若いころから「天下を狙うぞ!」と意気込んでいましたが、最終的には戦いを避け、仙台藩を守る道を選びました。これは、ただの野心家ではなく、冷静に時代を読む力を持っていた証拠です。
このように、伊達政宗の生き方からは「リーダーシップとは何か?」を学ぶことができます。今の時代でも、政宗の考え方は役立つかもしれませんね。
総括:伊達政宗の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 伊達政宗の死因について
- 伊達政宗は 1636年(寛永13年)5月24日、70歳 で亡くなった。
- 死因は 「食道がん」または「癌性腹膜炎」 の説が有力。
- 晩年は 食事を飲み込みにくい などの症状があった。
- 死因には 「戦で負った傷」 や 「毒殺」 という説もあるが、確証はない。
2. 最期の様子
- 亡くなる直前に、三代将軍・徳川家光と対面。
- 家光は政宗を心配し、江戸中の寺院に回復を祈願させた。
- 最期まで意識がはっきりしており、辞世の句を詠んで静かに息を引き取った。
3. 辞世の句
- 「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
→ 自分の信念を貫き、乱世を照らしながら旅立つという意味。
4. 死後の影響
- 遺体は仙台市の瑞鳳殿(ずいほうでん)に埋葬。
- 政宗の死後、20名の家臣が殉死(江戸幕府の許可を得た)。
- 仙台藩の後継者は次男・伊達忠宗 が継ぎ、平和な藩政を行った。
- 伊達家の影響力は幕府の強化により徐々に減少したが、存続は続いた。
5. 伊達政宗のリーダーシップと名言
- 「人を殺すよりは、人を生かす道を考えよ」 → 政治や国づくりを重視。
- 戦国時代を生き抜くために、豊臣・徳川と巧みに付き合った。
- 戦うことよりも、国を守る道を選んだ。
