今回は「正岡子規(まさおかしき)」という明治時代の有名な俳人について、分かりやすくお話していきます。

「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という俳句、聞いたことはありませんか?これを書いたのが正岡子規です。

では、子規はどんな人だったのか?
どんな作品を残したのか?

今日はその答えを、子どもでも分かるように、やさしく解説していきますよ!

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正岡子規はどんな人?生涯と性格を簡単に解説

正岡子規は、明治時代の代表的な俳人・歌人・国語研究者で、文学の世界に革新をもたらした人物です。彼の作品は今も多くの人に親しまれ、特に俳句や短歌の世界では大きな影響を与えました。

ここでは、正岡子規の生涯や性格をわかりやすく解説します。

正岡子規はどんな人?結核と闘いながら文学を革新

正岡子規は「俳句(はいく)や短歌(たんか)を今の形に近づけたすごい人」なんです。生まれたのは1867年、明治時代が始まる少し前の愛媛県(当時は伊予国)でした。子どものころから勉強熱心で、本や詩が大好きでした。

ところが、若いころに「結核(けっかく)」という病気にかかってしまい、30歳ごろからは寝たきりの生活になります。でも、そこであきらめずに、ベッドの上からたくさんの文章や俳句を書き続けたのです。

子規は「ありのままを写す=写生(しゃせい)」という考え方で、自然や気持ちを正直に書くことを大切にしました。今の俳句や短歌に受けつがれているスタイルは、子規が作ったといってもいいでしょう。

正岡子規の年表!少年時代から晩年までの流れ

子規の生涯を年表で見てみましょう。

  • 1867年(0歳):愛媛県松山市に生まれる。
  • 1872年(5歳):お父さんが亡くなり、母方の祖父の家で育つ。
  • 1883年(16歳):政治家を目指して東京へ。予備校に入る。
  • 1889年(22歳):喀血(かっけつ)して結核が発覚。「子規」と名乗りはじめる。
  • 1892年(25歳):大学をやめて新聞社で記者に。文芸活動を始める。
  • 1895年(28歳):日清戦争の従軍記者として中国へ。しかし体調を悪くし、帰国後は入院生活に。
  • 1897年(30歳):俳句雑誌「ホトトギス」を創刊。
  • 1902年(34歳):病気と闘いながら最期まで文章を書き続け、亡くなる。

34年という短い人生でしたが、子規が日本の文学に与えた影響はとても大きなものでした。

性格はリーダー気質?正岡子規の人物像と人間関係

子どものころの子規は、気が弱くてよくいじめられていたそうです。でも、だんだんとしっかりした性格になり、中学生のころには友だちと雑誌をつくったり、演説をしたりしていました。とても行動力のあるリーダーだったんですね。

東京に出てからも、その人柄に引かれてたくさんの仲間が集まってきました。病気で寝たきりになっても、たくさんの弟子たちが子規のもとに集まり、俳句を学びました。弟子の中には、のちに有名になる高浜虚子(たかはまきょし)や河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)などがいます。

子規のまわりには、自然と人が集まりました。人をひきつける、温かい魅力を持った人物だったことがわかります。

夏目漱石との関係!正岡子規と親友だった理由

正岡子規の親友といえば、あの夏目漱石(なつめそうせき)です。2人は東大予備門という学校で出会い、寄席や落語など、笑いの趣味でも意気投合しました。

その後もずっと交流が続き、子規が病気で松山に帰ったときには、漱石の下宿にしばらく住んでいました。その家で俳句会を開いたり、一緒に創作をしたりしていたそうです。

イギリスに留学することになった漱石は、最後に子規を見舞いました。子規はその後、漱石にあてて「とても苦しいけど、君の手紙を読むと西洋へ行ったような気持ちになれる」と書いています。感動的なエピソードですね。

子規が名付け親?野球好きが影響した俳句も紹介

実は子規は、野球が大好きでした。学生時代にはキャッチャーとして活躍し、なんと「打者」「捕手」「死球」といった今でも使われている言葉を作ったのです。

自分の名前「升(のぼる)」をもじって、「野球(のぼーる)」というペンネームも使っていたんですよ!このことから、日本で「野球」という言葉が広まったきっかけは、子規だったとも言われています。

短歌の中でも、野球をテーマにしたものがあります。

久方のアメリカ人のはじめにし
ベースボールは見れど飽かぬかも

スポーツも文学も、どちらも全力で楽しむ子規らしいですね。

正岡子規はどんな人?代表作と功績を分かりやすく

正岡子規は俳句や短歌の世界を大きく変えた人です。「新しい表現」を作り出し、今の私たちが親しんでいるスタイルの土台をつくりました。また、寝たきりでも創作をあきらめず、最期までペンをとっていました。

ここでは、そんな子規の代表的な作品や、文学の世界に与えた影響について、やさしくお話ししていきます。

代表作①『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』の意味と背景を解説

この一句は、正岡子規の代表作としてとても有名です。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

これは子規が奈良を訪れたとき、法隆寺の近くで柿を食べていたときの光景を詠んだものです。静かな秋の午後、あまい柿を食べながら、遠くからゴーンと鐘の音が聞こえてくる…。そんな美しい風景が思い浮かびますね。

子規は「ありのままの風景」を大事にしていたので、こうした日常の一場面を、そのまま句に表すことが多かったのです。この句は、子規が病に苦しむ中でも自然や平和を大切に感じていたことが伝わってきます。

代表作②『病床六尺』とは?闘病生活の中で書かれた名随筆

『病床六尺(びょうしょうろくしゃく)』は、子規が寝たきりの生活を送っていたときに書いた随筆(ずいひつ)です。「六尺」というのは、ベッドの大きさのこと。たった六尺=約180cmのスペースが、子規の世界のすべてだったのです。

この中で、子規はこんなことを書いています。

「悟りとは、いかなる場合にも平気で生きていることである」

この名言は、病気で体が痛くても、生きていることを受け入れて前向きに過ごそうという気持ちがこめられています。とても深い言葉ですね。

子規は死の2日前まで『病床六尺』を新聞に連載していて、その情熱には驚かされます。

代表作③『歌よみに与ふる書』で何を主張した?

『歌よみに与ふる書(うたよみにあたうるしょ)』は、子規が短歌の世界を変えようとして書いた評論です。

当時の短歌は、「昔のルール」にしばられすぎていたり、気持ちがこもっていない形式的なものが多かったのです。そこで子規は「古今和歌集(こきんわかしゅう)」などの歌を批判し、「万葉集(まんようしゅう)」のような自由な表現を見直そうとしました。

この中で、子規は「写生(しゃせい)」を大切にすること、つまり自分の見たこと・感じたことをそのまま歌にするべきだと主張しました。これが短歌の革新運動の出発点となり、多くの人に影響を与えました。

正岡子規の功績:俳句・短歌・随筆・言葉

正岡子規の功績は、とてもたくさんあります。

まず、俳句と短歌の改革です。それまでの文学は古風で難しい表現が多かったのですが、子規は「現実を見て、感じたことを素直に書く」ことを広めました。これにより、詩や歌はもっと身近なものになったのです。

また、新聞『日本』や文芸誌『ホトトギス』を通じて、新しい作家を育てたことも大きな功績です。高浜虚子や河東碧梧桐など、のちに活躍する俳人たちも子規の教えを受けています。

さらに、子規は言葉づかいや話し方にも注目し、「日本語を近代的に整える」ことにも力を入れていました。文章や表現の改革者としての一面もあるのです。

死因は結核!最期まで創作を続けた情熱と辞世の句とは?

正岡子規は、結核(けっかく)という病気で34歳の若さで亡くなりました。結核は、今よりもずっと怖い病気で、長い間体をむしばんでいくものでした。

でも子規は、最期のときまで「文章を書く」ことをあきらめませんでした。『病床六尺』をはじめ、俳句や短歌、随筆も、寝たまま筆をとって書いていたのです。

亡くなる前には、こんな俳句を残しています。

病(やまい)ありて
病を忘るる
一筆かな

病気で苦しい中でも、筆をとって詩を書くと、少しだけ病を忘れられたのでしょう。文学を心から愛した子規らしい、やさしくて力強い一句ですね。

総括:正岡子規はどんな人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 正岡子規(1867年生まれ)は、明治時代の俳人、歌人、国語研究者であり、俳句と短歌の革新者として知られる。
  • 幼少期から勉強好きで、若いころに結核にかかり、30歳ごろから寝たきりの生活を送りながらも創作活動を続けた。
  • 写生(自然や気持ちをそのまま表現する)を大切にし、現在の俳句や短歌のスタイルを確立した。
  • 年表
    • 1867年:愛媛県松山市に生まれる。
    • 1883年:政治家を目指し、上京して東大予備門に入学。
    • 1889年:結核を患い、俳号「子規」を使い始める。
    • 1892年:新聞社に勤務し、文芸活動を開始。
    • 1897年:俳句雑誌「ホトトギス」を創刊。
    • 1902年:34歳で亡くなるまで創作を続けた。
  • 性格:子供のころは気が弱かったが、次第にリーダー気質となり、周囲に人を引きつける存在に。
  • 夏目漱石とは親友で、共に文学を切り開いた。漱石がイギリス留学前に訪れ、最後の手紙のやり取りもあった。
  • 野球にも熱中し、「打者」「捕手」「死球」などの言葉を作り、野球に関する俳句も詠んだ。
  • 代表作
    • 『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』:静かな秋の午後の光景を表現した名句。
    • 『病床六尺』:寝たきりで書かれた名随筆、名言「悟りとは、いかなる場合にも平気で生きていること」を含む。
    • 『歌よみに与ふる書』:短歌の革新を訴えた評論。
  • 功績
    • 俳句と短歌の革新。
    • 新しい作家を育てた(高浜虚子、河東碧梧桐など)。
    • 日本語の近代化に貢献した。
  • 死因:結核により34歳で亡くなる。最期まで創作を続け、辞世の句を残した。