みなさん、「松尾芭蕉」と聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?俳句の名人?「奥の細道」の旅人? それとも、ちょっと変わった人?

松尾芭蕉は、日本の俳句を芸術の域にまで高めたすごい人ですが、彼の最期については意外と知られていません。どんな病気で亡くなったのか? 何歳だったのか? 実は「忍者だった」という説もあるのです!

今回は、そんな松尾芭蕉の死因や晩年の生活について、塾長が分かりやすく解説します。これを読めば、松尾芭蕉の人生と最期の秘密がスッキリ分かりますよ!

松尾芭蕉の死因とは?何歳で死亡したのか

松尾芭蕉は、1694年10月12日に大阪で亡くなりました。

しかし、その死因にはいくつかの説があり、はっきりとは分かっていません。当時は今のように医療が発達していなかったため、病名を特定することが難しかったのです。

ここでは、松尾芭蕉の死因について詳しく解説します。

松尾芭蕉の死因は病死!具体的な病名には諸説あり

松尾芭蕉の死因は「病死」とされていますが、具体的な病名は分かっていません。ただし、歴史の記録や彼が残した日記、門人たちの証言をもとに、いくつかの可能性が考えられています。

1つ目の説は「胃腸の病」です。芭蕉は若いころから胃腸の調子が悪かったと言われています。長旅が多かったため、食事も不規則で、消化器官に負担がかかっていたのでしょう。現代の医学で考えると、「胃潰瘍」や「腸閉塞」の可能性があります。

2つ目の説は「食中毒」。芭蕉はキノコが大好きだったことが知られていますが、誤って毒キノコを食べてしまい、体調を崩したのではないかという説があります。昔は食べ物の安全管理が十分ではなかったため、食中毒になることも珍しくありませんでした。

3つ目の説は「赤痢や腸結核」。当時は水が汚れていることが多く、赤痢のような感染症が流行していました。芭蕉も長旅の途中で不衛生な水を飲み、感染症にかかった可能性があります。

どの説も可能性があり、真実は分かりませんが、芭蕉は最期まで病と戦いながら俳句を詠み続けたことは確かです。

松尾芭蕉の最期の様子とは?門人たちに看取られた最期

1694年の9月10日、芭蕉は大阪に滞在している最中に、突然発熱し、頭痛を訴えました。当時の医療では原因を特定することが難しく、体調は徐々に悪化していきました。

一度は少し回復したものの、9月29日には激しい下痢の症状が出始め、再び体調が悪化。そのまま回復することはなく、10月12日に門人たちに見守られながら亡くなりました。

当時の医者は、芭蕉の病気を治すために薬草を使った治療をしていましたが、効果はなかったようです。彼の死を見届けた門人たちは、深い悲しみに包まれました。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」—辞世の句に込めた想い

芭蕉は最期の瞬間まで俳句を詠んでいました。その最後の句がこちらです。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

この句は、「病気になりながらも、夢の中では広い枯野を自由に走り回っている」という意味を持っています。つまり、芭蕉の心は旅を続けていたのです。

この辞世の句は、西行(さいぎょう)という昔の歌人の歌を参考にしたとも言われています。芭蕉は生涯にわたって西行を尊敬しており、彼のように自由な旅を続けたいという思いがあったのでしょう。

松尾芭蕉の死亡時の年齢は?50歳か51歳の説が有力

松尾芭蕉の生年月日は1644年(寛永21年)とされています。亡くなったのは1694年(元禄7年)10月12日なので、年齢は「50歳」または「51歳」となります。

「50歳」というのは満年齢(今の数え方)で、「51歳」というのは当時の「数え年」の計算です。数え年では、生まれた年を1歳として計算するため、1歳多くなります。

いずれにせよ、現代でいうと「まだまだ働き盛り」の年齢ですが、当時の平均寿命は50歳前後だったため、芭蕉は長生きしたほうかもしれません。

松尾芭蕉の墓はどこにある?希望通り義仲寺に埋葬

芭蕉は生前、「自分の遺体は義仲寺(ぎちゅうじ)に葬ってほしい」と語っていました。義仲寺は滋賀県大津市にあるお寺で、源平合戦で戦った武将・木曽義仲(きそよしなか)が眠る場所です。

芭蕉は木曽義仲に憧れを抱いており、彼のそばに眠ることを望んだのです。その願いは叶えられ、芭蕉の墓は義仲の墓のすぐ隣に建てられました。

現在でも、多くの俳句愛好家が義仲寺を訪れ、芭蕉の墓に手を合わせています。芭蕉の俳句の精神は、今でも多くの人々に受け継がれているのです。

松尾芭蕉の死因の後に:健康や持病

松尾芭蕉は、旅の達人のように思われがちですが、実は体があまり丈夫ではありませんでした。彼は生涯にわたってさまざまな病気に悩まされていたのです。

ここでは、芭蕉の健康状態や、持病について詳しく解説します。

松尾芭蕉は病弱だった?若い頃から体調不良が多かった

松尾芭蕉は、若いころから体があまり強くなかったと伝えられています。特に胃腸の調子が悪く、長旅をするたびに体調を崩していました。

江戸時代の医療は今ほど発達しておらず、栄養状態も良くなかったため、当時の人々は体調を崩しやすかったのです。芭蕉も、旅先で十分な休養や栄養をとることが難しかったため、持病が悪化することが多かったのかもしれません。

また、芭蕉はストレスを受けやすい性格だったとも言われています。彼の俳句は繊細な感性が特徴ですが、その分、精神的に疲れやすかったのかもしれませんね。

芭蕉の持病は胃腸の病?腸閉塞や結核の可能性も

芭蕉が生前に悩んでいた病気については、いくつかの記録が残っています。その中でも特に多く言及されているのが、「胃腸の病気」です。

芭蕉は頻繁に腹痛や下痢を起こしていたことが、日記などの記録から分かっています。これらの症状から、次のような病気が考えられます。

  • 腸閉塞(ちょうへいそく):腸の中で食べ物が詰まり、激しい腹痛を引き起こす病気
  • 胃潰瘍(いかいよう):胃の粘膜が傷つき、出血や腹痛が起こる病気
  • 腸結核(ちょうけっかく):結核菌が腸に感染し、下痢や腹痛を引き起こす病気

特に腸結核は、当時の日本で広く流行していた病気でした。芭蕉も、長旅の途中で感染し、徐々に悪化していったのかもしれません。

芭蕉は「痔(じ)」にも苦しんでいた?旅人の職業病?

意外かもしれませんが、芭蕉は「痔(じ)」に悩んでいたという説もあります。

長距離の旅を続けることで、お尻に負担がかかり、痔になったのではないかと言われています。実際に、芭蕉の俳句には次のようなものがあります。

「持病さへおこりて、消え入るばかりになん。」(『奥の細道』より)

この「持病」というのが「痔」ではないかという説もあるのです。長旅を続けながら、体の不調と戦っていた芭蕉の姿が想像できますね。

食生活が影響?芭蕉の好物と健康の関係

芭蕉の食生活も、彼の健康に影響を与えていたかもしれません。彼の好物として知られているのは、次のような食べ物です。

  • キノコ(特にシイタケやマツタケ)
  • うどん
  • こんにゃく
  • 魚介類(干物など)

特にキノコは、芭蕉が大好きだったと言われています。

しかし、「芭蕉の死因はキノコの食べすぎだった」という説があるように、彼の胃腸の不調を悪化させる原因になった可能性もあります。

また、当時の日本では、保存技術が未発達だったため、食べ物が傷みやすく、食中毒になることも珍しくありませんでした。芭蕉も旅の途中で傷んだ食べ物を食べてしまい、体調を崩したのかもしれませんね。

ストレスが影響?弟子のトラブルが芭蕉を苦しめた

芭蕉は、生涯にわたって多くの弟子を持っていましたが、その中には仲が悪い者同士もいました。

晩年、芭蕉は弟子たちのトラブルを解決するために大阪へ向かいました。しかし、その仲裁に奔走するうちに、体調を崩してしまったのです。

これは「ストレスが病気を悪化させた」可能性を示しています。現代の医学でも、ストレスが胃潰瘍や腸の病気を引き起こす原因になることが分かっています。芭蕉も、精神的な負担が体調悪化につながったのかもしれません。

総括:松尾芭蕉の死因を簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 死亡日・場所:1694年10月12日、大阪で病死。
  • 享年:50歳(満年齢)または51歳(数え年)。
  • 死因の可能性
    1. 胃腸の病気(胃潰瘍・腸閉塞など)
    2. 食中毒(好物のキノコが原因の可能性)
    3. 感染症(赤痢や腸結核の疑い)
  • 最期の様子
    • 9月10日から発熱と頭痛
    • 9月29日に激しい下痢
    • 門人に看取られながら10月12日に死去
  • 辞世の句:「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
    • 病に倒れても心は旅を続けるという意味
  • 持病
    • 若い頃から胃腸が弱かった
    • 痔(じ)の可能性もあり、長旅による悪化が考えられる
  • 食生活の影響
    • キノコ・うどん・こんにゃくが好物
    • 保存技術が未発達で食中毒のリスクが高かった
  • ストレスが影響
    • 弟子の仲裁のため大阪へ
    • 精神的な負担が病気を悪化させた可能性
  • 墓の場所
    • 義仲寺(滋賀県大津市)に埋葬
    • 生前から源義仲のそばに眠ることを希望していた