みなさん、歴史の授業で「南北朝時代」という言葉を聞いたことがありますか?
「天皇が二人いた」「戦国時代よりも混乱していた」などと聞くと、なんだか難しそうに思えるかもしれませんね。でも大丈夫!今日は塾長が「南北朝時代とは何か」を、分かりやすく説明していきます。
この時代は「南朝」と「北朝」という二つの朝廷が存在し、それぞれが「正統な天皇は自分たちだ!」と争っていました。さらに、武士たちもどちらかの勢力について戦い、全国で大きな戦乱が続きました。
でも、そもそもどうして天皇が二人になったのでしょうか?どんな人たちが戦い、どのようにしてこの争いは終わったのでしょうか?
この記事では、その疑問をスッキリ解決していきます!
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南北朝時代とは?分かりやすく解説!【背景・原因・経過】
南北朝時代とは、日本史の中でも特に珍しい「天皇が二人いた時代」のことを指します。期間は1336年から1392年まで、なんと56年間も続きました。
この時代は、天皇の後継者問題や、武士たちの権力争いが絡み合い、全国で大きな戦乱が起こったのです。
南北朝時代とは?いつの時代?何が起こったのかを簡単に解説
南北朝時代は、鎌倉幕府が滅亡した後に起こった、朝廷の分裂による戦乱の時代です。もともと天皇の座を巡る争いが続いていたことに加え、武士たちの政治への不満が高まり、戦いが長く続きました。
この時代には、天皇が「南朝(吉野)」と「北朝(京都)」の二つに分かれ、それぞれが「自分こそが正統な天皇である!」と主張しました。
これにより、全国の武士たちもどちらの勢力につくかを決め、戦乱が広がっていったのです。
なぜ南北朝時代が始まったのか:後醍醐天皇と両統迭立の対立
南北朝時代が始まった原因の一つは、「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という制度です。これは「持明院統(じみょういんとう)」と「大覚寺統(だいかくじとう)」という二つの天皇家が、交互に天皇を出すという決まりでした。
しかし、後醍醐天皇はこのルールを守らず、「自分の子孫だけで皇位を独占したい!」と考えました。そこで、鎌倉幕府を倒し、自分が政治を行う「建武の新政(けんむのしんせい)」を始めます。ところが、武士たちは後醍醐天皇の政策に不満を持ち、足利尊氏が反乱を起こしました。
足利尊氏は、持明院統の天皇である光明天皇を立て、「北朝」を作りました。一方、後醍醐天皇は京都を追われ、奈良の吉野で「南朝」を開きました。こうして「南朝」と「北朝」が誕生し、南北朝時代が始まったのです。
南北朝の争いの中心人物は:後醍醐天皇・足利尊氏・楠木正成
南北朝時代には、さまざまな武将や天皇が登場します。その中でも特に重要な3人を紹介しましょう。
- 後醍醐天皇:南朝を開いた人物。鎌倉幕府を倒すも、武士たちと対立して京都を追われる。
- 足利尊氏:鎌倉幕府を倒したが、後醍醐天皇と対立し、北朝を立ち上げた。
- 楠木正成(くすのきまさしげ):後醍醐天皇に忠誠を誓い、足利尊氏と戦った。湊川の戦いで壮絶な最期を迎える。
彼らの行動が、南北朝時代の流れを大きく左右しました。
全国に広がった南北朝の戦い:観応の擾乱や正平一統
南北朝の争いは全国に広がり、武士たちは南朝か北朝のどちらかにつきました。しかし、この時代はただの「南朝 vs 北朝」ではなく、「室町幕府の中での戦い」もありました。
その一つが「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」です。これは、足利尊氏とその弟・足利直義(ただよし)が、幕府の支配権を巡って争った事件です。これによって、幕府内部が混乱し、南朝の勢力が一時的に強まる場面もありました。
また、一時的に南北朝が統一された「正平一統(しょうへいいっとう)」という出来事もありましたが、すぐに崩れてしまい、戦いは続いていきました。
南北朝時代が終わった理由:足利義満による南北朝合一
南北朝の争いは、室町幕府第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の時代に終結しました。義満は、武士たちの力を借りて南朝の勢力を弱め、「もう争いをやめよう!」と南朝側に提案しました。
1392年、南朝の後亀山天皇が北朝に降伏し、「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」を北朝に渡しました。これによって南北朝は統一され、「南北朝時代」は幕を閉じたのです。
しかし、南朝が約束されていた皇位の継承は実現せず、その後も「南朝こそ正統だ!」と考える人々が現れました。この考えは、江戸時代になると「尊王思想(そんのうしそう)」として発展し、明治維新へとつながっていきます。
南北朝時代とは何か分かりやすく:出来事・勢力図
南北朝時代は、ただ天皇が二つに分かれて争っただけではありません。日本全国でさまざまな戦いが起こり、多くの武将や大名が登場しました。
また、テストでよく出る重要な出来事や語呂合わせもあるので、ここでしっかり押さえておきましょう!
南北朝時代の流れを時系列で整理すると、次のようになります。
南北朝時代の主な出来事を時系列で解説
南北朝時代の年表(1333年~1392年)
年号 | 出来事 |
---|---|
1333年(元弘3年/正慶2年) | 鎌倉幕府滅亡(後醍醐天皇が北条氏を倒し、「建武の新政」を開始) |
1335年(建武2年) | 中先代の乱(北条時行が反乱、足利尊氏が鎮圧) |
1336年(建武3年/延元元年) | 足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻す、「湊川の戦い」で楠木正成が戦死 光明天皇を擁立し、北朝が成立 |
1338年(暦応元年/延元3年) | 足利尊氏が征夷大将軍に就任し、室町幕府を開く |
1348年(正平3年/貞和4年) | 四條畷の戦い(北朝側の高師直と戦い、南朝の楠木正行が戦死) |
1350年~1352年(観応元年~文和元年) | 観応の擾乱(足利尊氏と弟・足利直義が対立、幕府内部の争いが激化) |
1351年(正平6年/観応2年) | 正平一統(南北朝が一時的に統一されるが、すぐに再分裂) |
1358年(正平13年/延文3年) | 足利尊氏死去、足利義詮が2代将軍に就任 |
1368年(正平23年/応安元年) | 足利義満が3代将軍に就任、幕府の権力が強まる |
1392年(元中9年/明徳3年) | 南北朝合一(後亀山天皇が京都に帰還し、北朝の後小松天皇に譲位) |
南北朝時代は単なる朝廷の分裂ではなく、幕府内部の争いや地方の動乱が絡み合い、複雑な展開を見せました。
南北朝時代の勢力図と戦いの構図を解説
南北朝時代は、南朝 vs 北朝の構図でしたが、武士たちの勢力も大きく関係していました。
- 南朝(吉野朝廷):後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞、北畠顕家
- 北朝(京都朝廷):足利尊氏、足利直義、高師直
また、室町幕府内部でも戦いが起こり、「足利尊氏 vs 足利直義」のように、同じ足利家でも争いが続きました。このため、単純な南北対立ではなく、各武将がどちらの勢力につくかによって戦局が変わる時代でもありました。
テストで狙われる!南北朝時代の重要用語一覧
テストによく出る南北朝時代の重要用語を整理しましょう!
用語 | 意味 |
---|---|
建武の新政 | 後醍醐天皇による天皇親政 |
両統迭立 | 持明院統と大覚寺統が交互に皇位を継ぐ制度 |
湊川の戦い | 1336年、足利尊氏 vs 楠木正成の戦い(楠木正成が戦死) |
観応の擾乱 | 1350年〜、足利尊氏 vs 足利直義の争い |
正平一統 | 1351年、南北朝が一時的に統一された出来事 |
南北朝合一 | 1392年、足利義満の仲介で南朝が降伏 |
これらの用語をしっかり覚えておくと、テストでの得点アップにつながります!
語呂合わせで覚える南北朝時代の出来事
歴史の暗記には「語呂合わせ」が最強の武器!南北朝時代に関する出来事を、分かりやすい語呂合わせで覚えましょう。
- 1333年(鎌倉幕府滅亡)
→ 「いざ、散々(1333)な幕府の終わり」 - 1336年(南北朝時代の始まり)
→ 「いざ、見ろ(1336)、南北朝の始まり」 - 1338年(室町幕府成立)
→ 「いざ、三八(1338)将軍、足利尊氏!」 - 1350年(観応の擾乱)
→ 「いざ、ゴー(1350)と対立する兄弟」 - 1392年(南北朝合一)
→ 「いざ、国(1392)まとめる足利義満」
こうした語呂合わせを活用すると、スムーズに覚えられます!
南北朝時代の影響とその後の歴史へのつながり
南北朝時代は、56年間もの長い争いでしたが、この時代の影響はその後の日本の歴史にも大きく関わっています。
- 室町幕府の力が強まる
→ 南北朝合一後、足利義満のもとで幕府の支配が強化され、全国の武士が統制されるようになりました。 - 「守護大名」の台頭
→ 各地の武士が力をつけ、戦国大名の先駆けとなる「守護大名」が出現しました。 - 「尊王思想(そんのうしそう)」の誕生
→ 南朝は「本来の天皇家」として、江戸時代になっても武士や学者たちの間で支持されました。この考えは、後に「明治維新」につながります。 - 戦国時代への伏線
→ 守護大名が力を持つようになり、やがて「戦国時代」へと突入していきます。
このように、南北朝時代はその後の歴史にも大きな影響を与えた重要な時代だったのです。
総括:南北朝時代とは何か分かりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 南北朝時代(1336年~1392年)は、日本史上唯一の「天皇が二人いた時代」
- 京都の「北朝」(光明天皇)と吉野の「南朝」(後醍醐天皇)が対立した。
- 原因:天皇家の皇位継承争い(両統迭立)と武士の権力争いが絡み合った
- 「持明院統」と「大覚寺統」が交互に天皇を輩出する制度(両統迭立)があったが、後醍醐天皇が独占を狙った。
- 鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇の政治(建武の新政)に武士が反発し、足利尊氏が離反。
- 戦いの構図:「南朝 vs 北朝」+「室町幕府内部の争い」
- 南朝(吉野):後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞、北畠顕家
- 北朝(京都):足利尊氏、足利直義、高師直
- 室町幕府内部でも、足利尊氏と弟の足利直義が「観応の擾乱」で対立。
- 主な出来事
- 1333年:鎌倉幕府滅亡、後醍醐天皇が「建武の新政」開始
- 1336年:足利尊氏が反乱、光明天皇を擁立(北朝成立)
- 1338年:足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を開く
- 1350年~1352年:「観応の擾乱」(足利兄弟の対立)
- 1351年:「正平一統」(南北朝が一時的に統一)
- 1392年:「南北朝合一」(後亀山天皇が北朝に降伏)
- 南北朝時代の終結:足利義満による南北朝合一(1392年)
- 足利義満が南朝の後亀山天皇を説得し、北朝へ合流させた。
- 影響とその後
- 室町幕府の支配強化(全国の武士を統制)
- 「守護大名」が勢力を拡大 → 戦国時代へ発展
- 「尊王思想」が生まれ、江戸時代~明治維新につながる