歴史の勉強をしていると「日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)」という言葉に出会うことがありますよね。でも、「条約ってなんだか難しそう…」と思っていませんか?
今回は、塾長の私が「日清修好条規」をわかりやすく解説します!
この条約が結ばれた理由や、その後の日本にどんな影響を与えたのかもバッチリお伝えしますよ。語呂合わせで覚えるコツも紹介するので、テスト対策もバッチリ!さあ、一緒に学んでいきましょう!
日清修好条規をわかりやすく解説!特徴や内容

日清修好条規とは、1871年に日本と清(現在の中国)が結んだ条約です。これは、日本が外国と結んだ初めての「対等条約」と言われています。「対等」とは、お互いに同じ立場で約束を交わすことですね。
では、この条約の詳しい内容を見ていきましょう!
日清修好条規とは?簡単に解説!
日清修好条規は、明治時代の初めに日本と清の間で結ばれた条約です。「修好」とは「仲良くする」という意味なので、「日清修好条規」とは「日本と清が仲良くするためのルールを決めた約束」ということになります。
この条約では、日本と清の間で正式な国交(国と国との関係)を持ち、お互いに外交使節を派遣することが決められました。さらに、両国の貿易や裁判のルールを決めた「通商章程」や「海関税則(かいかんぜいそく)」も同時に調印されています。
これによって、日本と清の関係がスムーズに進むようになりました。
日清修好条規の背景|なぜ結ばれたのか?
日清修好条規が結ばれた背景には、当時の日本と清、そして世界の状況が関係しています。
まず、日本は江戸時代の終わりに欧米諸国と不平等な条約を結ばされてしまいました。これを「不平等条約」といいます。不平等条約では、欧米の国々だけが有利になるルールがたくさんありました。そのため、日本は「今後は対等な立場で条約を結ぼう!」と考えていました。
また、清は当時「朝貢(ちょうこう)関係」といって、周りの国々を自分たちより下の国として扱う伝統がありました。しかし、西洋の勢力がアジアに進出する中で、清も考えを変え始め、日本と対等な立場で国交を持つことになったのです。
さらに、日本は朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)との国交を持ちたいと考えていました。しかし、朝鮮は清を「親分」と考えていたため、日本の国書を拒否。そこで、日本はまず清と対等な条約を結び、それを証拠にして朝鮮との交渉を進めようとしました。
このような背景から、日清修好条規が結ばれたのです。
日清修好条規の内容|5つの重要ポイント
日清修好条規の内容はたくさんありますが、特に大事なポイントを5つにまとめました!
① 互いに外交使節を派遣する
日本と清はお互いに大使館のようなものを設け、外交官(国の代表)を派遣することになりました。これにより、正式な国交がスタートしました。
② 領事裁判権をお互いに認める
「領事裁判権」とは、外国にいる自国民が犯罪を犯した場合、自分の国の法律で裁かれる権利のことです。清と日本はこれをお互いに認め合いました。これは欧米諸国が日本に押し付けた不平等条約とは違い、両国が平等な関係であることを示しています。
③ 通商章程(つうしょうしょうてい)と海関税則を定める
これは貿易に関するルールを決めたものです。貿易の仕組みを明確にし、トラブルが起きないようにしました。
④ 最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)がなかった
「最恵国待遇」とは、「一番いい待遇をする」という意味です。通常、条約を結ぶと「相手が他の国に特別な条件を与えたら、自分たちも同じ待遇を受けられる」というルールがあります。しかし、日清修好条規ではこれが含まれていませんでした。
⑤ 日清戦争で失効
この条約は1894年の日清戦争が起こると同時に失効しました。つまり、戦争がはじまったことで日本と清の「修好(仲良くする)」という関係が終わってしまったのです。
日清修好条規を結んだ人物は誰?
日清修好条規の交渉に関わったのは、日本と清の2人の重要人物です。
・日本側:伊達宗城(だてむねなり)
伊達宗城はもともと宇和島藩の藩主で、新政府の大蔵卿(お金を管理する大臣のような役職)になった人物です。彼は、清との交渉を成功させるために交渉団を率いて清へ向かいました。
・清側:李鴻章(りこうしょう)
李鴻章は清の政治家で、当時の外交を担当していました。彼は、西洋の技術を取り入れて清を強くしようと考えており、日本との交渉でも慎重に話を進めました。
この2人が交渉を行い、日清修好条規が結ばれました。しかし、日本国内では「もっと清に有利な条件を引き出すべきだったのでは?」という意見もありました。
日清修好条規の批准までに起こった問題
日清修好条規は1871年に調印されましたが、実際に日本政府が正式に認めたのは1873年でした。なぜ2年もかかったのでしょうか?
その理由のひとつは、日本国内での反対意見です。
当時、日本はまだ欧米諸国との不平等条約に悩んでいました。そのため、「清と対等な条約を結ぶことで、欧米にも対等な条約改正を求めやすくなる!」という期待がありました。
しかし、日清修好条規の内容には「最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)」が含まれておらず、日本政府内では「この条約では日本の利益にならないのでは?」という声が上がりました。
また、欧米列強の圧力もありました。イギリスやアメリカなどの西洋諸国は、「日本と清が仲良くなりすぎると、アジアがまとまって欧米に対抗してくるのでは?」と警戒しました。そのため、日本に対して「本当にこの条約を批准して大丈夫なの?」と圧力をかけてきたのです。
最終的に、日本政府は「このままでは国際関係がうまくいかなくなる」と判断し、1873年に批准しました。こうして日清修好条規は正式に発効したのです。
日清修好条規をわかりやすく:覚え方やテスト対策も紹介

日清修好条規は、日本と清の関係を大きく変えた重要な条約です。ここでは、この条約を簡単に覚える方法や、歴史のテストでよく出るポイントを紹介します。
日清修好条規の覚え方|語呂合わせで簡単に暗記!
歴史の勉強で大切なのは、楽しく覚えること!語呂合わせを使えば、日清修好条規の年号や内容もスラスラ覚えられますよ。
✅ 「いやな(1871年)修好 日清で合意」
「いやな」という言葉を使って、1871年に条約が結ばれたことを覚えましょう。
✅ 「伊達(伊達宗城)な清掃(清と条約)」
日本側の交渉役「伊達宗城(だてむねなり)」と、清(中国)を結びつけて覚えます。
このように、語呂合わせを使うとテストでもスムーズに思い出せます!
日清修好条規が影響を与えた出来事
日清修好条規が結ばれたことで、日本と清の関係だけでなく、周辺国の関係も大きく変わりました。
✅ 朝鮮との外交(日朝修好条規への影響)
日本はこの条約を使って、「清と対等な関係を結んだのだから、朝鮮とも対等に国交を持つべき!」と主張しました。その結果、1876年に「日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)」を結ぶことになります。
✅ 台湾出兵(1874年)との関係
1871年に琉球の船が台湾に漂着し、地元の人々によって乗組員が殺害される事件がありました。これに対して日本は、「台湾は清の支配下にあるのだから、清が責任を取るべきだ!」と主張しました。しかし、清は「台湾の原住民は我々の支配下ではない」と反論。結局、日本は1874年に軍を派遣し、台湾出兵という形で対処しました。
✅ 日清戦争(1894年)への影響
日清修好条規は、1894年に日清戦争が勃発するとともに失効しました。戦争によって日本と清の関係は大きく変わり、日本が清に勝利したことで、「下関条約(しものせきじょうやく)」が結ばれます。ここで、日本は台湾や遼東半島を獲得し、朝鮮の独立も認めさせました。
日清修好条規はテストに出る?重要ポイントを解説
日清修好条規は、歴史のテストでよく出題されるテーマです。特に、次のようなポイントを押さえておくと安心です!
✅ 基本情報(年号・締結国・結んだ人物)
・年号:1871年
・締結国:日本と清(中国)
・結んだ人物:日本→伊達宗城、清→李鴻章
✅ 日朝修好条規や欧米との条約との違い
・日清修好条規:日本と清が対等な条約
・日朝修好条規:日本が有利な不平等条約
・欧米との条約:日本が不平等な立場だった
✅ キーワードの意味を理解する!
・領事裁判権:外国人の犯罪を自国の法律で裁ける権利
・最恵国待遇:他の国よりも有利な条件を受けられる権利
・通商章程:貿易のルールを決めたもの
日清修好条規と他の修好条規の違い
日清修好条規と他の条約を比較すると、その特徴がよくわかります。
✅ 日清修好条規 vs 日朝修好条規
・日清修好条規 → 対等な条約(日本と清が平等)
・日朝修好条規 → 不平等条約(日本が有利)
✅ 日清修好条規 vs 欧米との不平等条約
・欧米との条約では、日本は一方的に不利な立場だったが、日清修好条規ではお互いに領事裁判権を認め合うなど、対等な関係を築いている点が大きな違いです。
日清修好条規が失効した理由とその後の歴史
日清修好条規は1894年、日清戦争が勃発するとともに失効しました。その後、日本と清の関係は大きく変わりました。
✅ 日清戦争の勃発
・日本と清が朝鮮の支配をめぐって対立
・日本が戦争に勝利し、1895年に下関条約を締結
✅ 日清修好条規の終わりとその後
・日清戦争の勝利により、日本は台湾を獲得
・清は日本の影響力が強まることを認めざるを得なくなる
・この戦争をきっかけに、中国国内では改革を求める声が強まった
総括:日清修好条規をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 日清修好条規とは?
- 1871年、日本と清(現在の中国)の間で結ばれた条約
- 日本が外国と結んだ初めての「対等条約」
- この条約が結ばれた背景
- 日本は欧米との不平等条約を改正するため、対等な条約を結びたかった
- 清も西洋諸国の圧力を受け、対等な関係を築くことを選択
- 朝鮮との国交樹立のため、まず清と対等な関係を証明する必要があった
- 日清修好条規の内容(重要ポイント)
- 外交使節の派遣 → 両国が正式な国交を持つことを決定
- 領事裁判権の相互承認 → 日本人は日本の法律で、清国人は清の法律で裁かれる
- 通商章程と海関税則 → 貿易のルールを決定
- 最恵国待遇がない → 他国との条約に影響されない
- 日清戦争で失効 → 1894年、日清戦争の勃発により無効化
- 条約を結んだ人物
- 日本側 → 伊達宗城(大蔵卿・元宇和島藩主)
- 清側 → 李鴻章(清の高官・外交責任者)
- 批准までの問題点
- 日本国内の反対 → 条約の内容に不満(最恵国待遇がない)
- 欧米列強の圧力 → 日本と清が接近しすぎることへの警戒
- 2年間の批准遅延 → 1871年に調印、1873年に正式批准
- 条約の影響
- 日朝修好条規(1876年)につながる → 日本が朝鮮との国交を開く
- 台湾出兵(1874年)の口実となる → 清が台湾を統治していないことを証明
- 日清戦争(1894年)の前段階 → 日本と清の関係悪化のきっかけ
- 覚え方(語呂合わせ)
- 「いやな(1871年)修好 日清で合意」 → 1871年に締結
- 「伊達(伊達宗城)な清掃(清と条約)」 → 交渉担当者を覚える
- 日清修好条規の終焉
- 1894年の日清戦争で失効し、日本と清の関係が大きく変わる
- 1895年の下関条約で、日本が清に勝利し台湾を獲得