「大塩平八郎って、何をした人?」という疑問を持つ人は多いでしょう。

江戸時代の歴史に登場する大塩平八郎は、武士でありながら幕府に反旗を翻した人物です。特に、1837年(天保8年)に起こした「大塩平八郎の乱」は、日本史の中でも大きな事件として知られています。

しかし、「なぜ武士だった大塩平八郎が反乱を起こしたのか?」「彼の行動はどんな影響を与えたのか?」と詳しく理解している人は少ないかもしれません。

この記事では、大塩平八郎の生涯や乱の背景、そしてその後の影響について、塾長が分かりやすく解説します!ぜひ最後まで読んで、歴史の知識を深めてくださいね。

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大塩平八郎は何した人?簡単にわかる生涯と功績

大塩平八郎は、江戸時代の末期に幕府に対して反乱を起こした重要な人物です。彼が起こした「大塩平八郎の乱」は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。

ここでは、大塩平八郎がどんな人物だったのか、その背景と共に簡単に紹介します。

大塩平八郎とは?武士であり陽明学者でもあった人物

大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は、1793年(寛政5年)に生まれました。彼は、大坂町奉行所の与力(よりき)という役職に就いていました。与力とは、奉行を補佐し、町の治安を守る仕事をする役人のことです。現在の警察のような役割を果たしていました。

大塩はとても真面目で、賄賂(わいろ)を受け取ることなく、庶民のために正義を貫こうとしました。当時の役人の中には、不正を行い、商人からお金を受け取る者もいましたが、大塩はそうした汚職を許しませんでした。そのため、彼のことを「正義感あふれる役人」として評価する人も多かったのです。

また、大塩は学問にも熱心で、「陽明学(ようめいがく)」という考え方を学びました。陽明学とは、「知っているだけではダメで、実際に行動に移さなければ意味がない」という考え方です。彼は、この思想をもとに、世の中の不正を正すために行動しようと決意します。

なぜ大塩平八郎は反乱を起こしたのか?天保の大飢饉と庶民救済

大塩が反乱を決意した最大の理由は「天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)」でした。この飢饉は、1833年(天保4年)から1837年(天保8年)にかけて起こり、多くの人々が食べるものを失い、飢えに苦しみました。

特に、大阪は日本の経済の中心地であり、多くの商人が住んでいました。しかし、当時の商人たちは、自分たちの利益ばかりを優先し、庶民が苦しんでいても助けようとしませんでした。さらに、幕府の役人たちも庶民を救うどころか、米の価格を高騰させ、ますます状況を悪化させていました。

大塩は、この状況を見て、「幕府や商人たちは庶民を見殺しにしている!」と強く怒りました。彼は何度も幕府に救済を訴えましたが、聞き入れられることはありませんでした。そして、ついに「このままではいけない。自分が立ち上がるしかない!」と決意したのです。

大塩平八郎の乱とは?わずか1日で鎮圧された反乱

1837年2月19日、大塩平八郎は仲間とともに反乱を起こしました。この反乱は「大塩平八郎の乱」と呼ばれています。彼は、仲間とともに「救民(庶民を救う)」という旗を掲げ、豪商や役人たちの家を襲いました。

しかし、この反乱はわずか1日で鎮圧されてしまいます。幕府側の軍勢がすぐに動き、反乱軍を取り囲んだため、大塩たちは抵抗することができませんでした。彼は仲間とともに逃げますが、約40日後、幕府に居場所を突き止められました。

追い詰められた大塩は、敵に捕まることを拒み、爆薬を使って自らの命を絶ったと言われています。彼の最後は壮絶なものでした。

大塩平八郎の遺した影響と幕府の対応

大塩平八郎の乱はすぐに終わりましたが、その影響は非常に大きなものでした。この事件をきっかけに、全国各地で「大塩門弟(もんてい)」や「大塩残党(ざんとう)」と名乗る人々が反乱を起こすようになりました。

また、幕府もこの事件に強い危機感を抱きました。特に、老中(水野忠邦)が中心となり、「天保の改革」という政治改革を始めました。この改革では、贅沢を禁止したり、庶民の生活を安定させるための政策が進められました。

しかし、結局のところ、大塩の訴えた問題が根本的に解決されることはなく、庶民の不満は続いていきました。

語呂合わせで覚える!大塩平八郎の乱の年号とポイント

歴史の年号を覚えるのは大変ですが、語呂合わせを使うと簡単に覚えられます。「いやみな(1837)役人やっつけろ!」というフレーズを覚えておくと、大塩平八郎の乱が起こった年を忘れずに済みます。

また、テストで押さえておきたいポイントは以下の通りです。

  1. 天保の大飢饉が背景にあった
  2. 大阪の町奉行所の役人や豪商が不正を行っていた
  3. 大塩は「陽明学」の影響を受け、行動を起こした
  4. 乱は1日で鎮圧されたが、全国に影響を与えた
  5. その後、「天保の改革」が行われたが、成功しなかった

大塩平八郎は何した人か簡単に幕府に与えた衝撃

大塩平八郎の乱は、幕府にとって予想外の出来事でした。その反乱は一時的に終息したものの、日本各地で波紋を広げ、幕府の体制に大きな影響を与えました。

ここでは、この乱がどれほど幕府に衝撃を与え、どんな後の影響を残したのかを探っていきます。

幕府にとって大塩平八郎の乱はどれほどの衝撃だったのか?

大塩平八郎の乱は、幕府にとって非常に大きな衝撃を与えました。なぜなら、大塩は「元幕府の役人」だったからです。幕府を支えるはずの与力が反乱を起こしたことは、幕府の統治が揺らいでいる証拠とみなされました。

また、乱が起こった場所が「大阪」だったことも大きな問題でした。大阪は「天下の台所」と呼ばれ、日本の経済の中心地でした。そこが混乱に陥るということは、幕府の経済的な基盤が揺らぐ可能性を示していました。

さらに、大塩の乱の影響で「庶民でも幕府に立ち向かうことができる」という考えが広がりました。これまで庶民は、幕府の命令には逆らえないと考えていましたが、大塩の乱によって「もし我々も力を合わせれば、幕府に立ち向かえるのではないか?」と思うようになったのです。

大塩平八郎の乱が全国に広がった?各地で起こった反乱

大塩平八郎の乱が起こった後、日本各地で同じような反乱や一揆が起こるようになりました。特に有名なのが、以下の反乱です。

  1. 生田万(いくた よろず)の乱(1837年)
    → 新潟県(当時の越後国)で生田万という国学者が、大塩の乱に感化されて蜂起しました。しかし、この乱もすぐに鎮圧されてしまいました。
  2. 備後三原(びんご みはら)の一揆(1837年)
    → 広島県の三原藩で起こった一揆で、大塩の影響を受けたとされています。
  3. 摂津能勢(せっつ のせ)の山田屋大助の騒動(1837年)
    → 大阪府の能勢地方でも、大塩の思想を受け継いだ者たちが反乱を起こしました。

これらの反乱は、大規模ではなかったものの、「幕府に不満を持つ者が全国にいた」ことを示すものでした。

「天保の改革」とは?幕府はこの事件をどう乗り切ろうとしたのか

大塩平八郎の乱が起こったことで、幕府は「このままでは民衆の不満が爆発する!」と考えました。そこで、老中の水野忠邦(みずの ただくに)が中心となって「天保の改革(てんぽうのかいかく)」を行いました。

天保の改革の主な内容は次の通りです。

  1. 贅沢の禁止 → 豪華な服やぜいたくな食べ物を禁止し、倹約を奨励
  2. 出稼ぎ農民の帰郷 → 江戸に出ていた農民を無理やり田舎に帰らせ、農業を安定させようとした
  3. 株仲間の解散 → 商人が独占していた市場を自由化し、物価を下げようとした

しかし、この改革は庶民からも商人からも大不評でした。特に、株仲間の解散によって商人たちは大打撃を受け、幕府に対する反発が強まりました。

結局、天保の改革は失敗し、水野忠邦は権力を失いました。このように、大塩平八郎の乱が引き起こした改革も、幕府の力を弱める結果となったのです。

幕末につながる?大塩平八郎の乱が江戸幕府を揺るがした理由

大塩平八郎の乱は、すぐに鎮圧されたものの、江戸幕府の権威を大きく揺るがしました。なぜなら、この事件が起こることで、幕府に対する不満がより表面化したからです。

その後、幕府はさまざまな改革を行いましたが、次第に国全体が混乱していきます。そして、最終的には幕府が倒れ、明治時代へと移行する大きな流れが生まれることになりました。

このように、大塩平八郎の乱は一見すると小さな事件のように思えますが、実は江戸幕府の崩壊につながる「最初のヒビ」だったとも言えるのです。

総括:大塩平八郎は何した人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 大塩平八郎とは?
    → 江戸時代末期の武士であり、陽明学者。大阪町奉行所の与力(現在の警察のような役職)として働き、賄賂を受け取らずに正義を貫いた。
  • なぜ反乱を起こしたのか?
    → 1833年からの天保の大飢饉で庶民が苦しむ中、幕府や豪商が適切な救済策を講じなかったため。幕府に何度も庶民救済を訴えたが無視されたため、自ら決起した。
  • 大塩平八郎の乱とは?
    → 1837年(天保8年)2月19日、大塩は弟子たちと共に反乱を起こし、「救民」の旗を掲げて豪商や役人を攻撃。しかし、幕府軍によってわずか1日で鎮圧される。
  • 大塩の最期は?
    → 乱が失敗した後、約40日間逃亡するも幕府に発見され、捕まることを拒み自ら爆薬で命を絶った。
  • 幕府に与えた衝撃は?
    → 元幕府の役人が反乱を起こしたことで、幕府の権威が揺らいだ。また、大阪という日本の経済中心地で起こったため、経済的な混乱を招いた。
  • 全国への影響は?
    → 大塩の思想に感化された者たちが各地で反乱や一揆を起こした。(例:生田万の乱、備後三原の一揆)
  • 幕府の対応(天保の改革)
    → 老中・水野忠邦が中心となり、贅沢禁止や経済改革を試みるも、庶民や商人の反発を受け失敗。
  • 江戸幕府の崩壊につながる?
    → 大塩平八郎の乱は庶民に「幕府に逆らうこともできる」という意識を芽生えさせ、最終的に幕末の倒幕運動へとつながるきっかけの一つになった。