今回は「憲政の神様」とも呼ばれた尾崎行雄(おざきゆきお)の子孫について、わかりやすく解説していきます。
尾崎行雄は日本の議会政治をけん引した偉大な政治家ですが、その子孫たちもとても活躍しています。
この記事では、
「尾崎行雄の子どもや孫はどんな人?」
「今も活動しているの?」「有名人はいるの?」
といった疑問に答えていきます。
それでは、さっそく見ていきましょう!
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尾崎行雄の子孫の現在は?孫や末裔の活躍
尾崎行雄は日本の政治史に大きな足跡を残した人物です。その影響力は今もなお子孫に受け継がれており、彼の末裔たちはさまざまな分野で活躍しています。
ここでは、尾崎行雄の子孫やその末裔が現在どのように社会に貢献しているのかを解説し、彼らがどんな道を歩んでいるのかを詳しく見ていきます。
尾崎行雄の三女・相馬雪香とは?難民支援の先駆者としての人生
尾崎行雄の三女・相馬雪香(そうま ゆきか)さんは、日本の国際人道支援の先駆者として知られています。1912年に生まれ、旧相馬藩の家柄に嫁ぎましたが、その後は社会活動家として活躍しました。
特に注目されたのは、1979年に設立した「難民を助ける会」(現在のAAR Japan)です。この団体はインドシナ難民、つまりボートピープルを助けるために作られましたが、のちに世界中の難民や障害者の支援に取り組む団体へと発展しました。
なんとこの団体は、1997年にノーベル平和賞を受賞した「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」にも関わっていました!雪香さんの行動力と優しさは、多くの人たちの命を救ったのです。
孫の原不二子は何してる?憲政記念館の保存運動でも注目
尾崎行雄の孫にあたる原不二子(はら ふじこ)さんは、著名な通訳者として長年活躍してきた人物です。英語に堪能で、多くの国際会議や要人とのやりとりに通訳として参加してきました。
そんな不二子さんが注目されたのが、東京都千代田区にある「憲政記念館」の保存活動です。尾崎行雄を記念して作られたこの施設が、国立公文書館との統合により取り壊しの危機にさらされました。
そのとき、不二子さんは「民主主義の象徴が消されるようなものです」と強く反対の声を上げ、各メディアにも取り上げられました。孫として、そして市民としての想いが伝わってくる行動でしたね。
ひ孫世代は今?文響社の関係者・坊城氏が語る家系と旧宅保存活動
尾崎行雄の「ひいひい孫」にあたる坊城(ぼうじょう)さんは、出版社・文響社の関係者であり、SNSやnoteなどで積極的に情報を発信しています。
坊城さんは、世田谷区にある尾崎行雄の旧宅が取り壊されると聞き、親族として保存活動に関わるようになりました。旧宅はイギリス人の妻・テオドラさんのために建てられた西洋風の建物で、地域の人々と共に署名活動やSNSでの発信を行いました。
坊城さん自身も「自分のルーツを知るきっかけになった」と語っており、歴史的な遺産を守ろうとする姿勢が伝わってきます。現代に生きる尾崎家の末裔も、立派な活動をしているのですね。
政治家や実業家に尾崎家の末裔はいる?家系図から探る現在
尾崎行雄の息子の一人、尾崎行輝(おざき ゆきてる)さんは、戦後に参議院議員を務めた政治家です。また、1951年には日本航空の取締役にも就任しています。父の意思を継いで、政界・実業界の両方で活躍していたことがわかります。
その後の子孫の中にも、名前が出てくる方がいますが、政治の表舞台に出ている人は現在少ないようです。
ただし、名家としての繋がりはさまざまな業界に残っており、文化や歴史を守る活動に関わっている末裔が多いことも特徴です。
現在も残る尾崎家の洋館と血縁者たちの保存活動の広がり
東京都世田谷区に残る「旧尾崎邸」は、明治時代に建てられたとされる貴重な洋館です。この建物が取り壊される危機にあった際、地域の住民や尾崎家の子孫、さらには漫画家の山下和美さんや笹生那実さんなど、多くの人たちが保存活動に参加しました。
クラウドファンディングで支援が集まり、2024年には修復工事を終え、ギャラリーやカフェとして公開される予定です。
尾崎行雄の精神と家族の想いは、こうして今も建物や活動として生き続けているのです。
尾崎行雄の子孫の後に:家系図・先祖・家族構成まとめ
ここからは尾崎行雄さんの「家族」に注目して、家系図や先祖、兄弟や子どもたちについて見ていきましょう。子孫だけでなく、そのルーツや人間関係を知ることで、尾崎家の歴史がより深く理解できます。子孫に引き継がれている「尾崎イズム」は、家族の中でも育まれてきたのです。
尾崎行雄の父・尾崎行正とは?幕末生まれの地方名士の背景
尾崎行雄さんの父、尾崎行正(おざき ゆきまさ)さんは1838年生まれ。三重県にルーツを持つ地方名士でした。江戸時代の終わりごろに生まれ、明治という新しい時代に家族を支えながら、子どもたちに教育の道を開いていきました。
息子である尾崎行雄は、そんな父の教えを受けて育ち、「国のために働くことの大切さ」を学んだと言われています。地方から大きく羽ばたいた尾崎行雄の原点には、立派な父・行正さんの存在がありました。
尾崎行雄の妻・英子(セオドラ)とは?国際結婚とその影響
尾崎行雄さんは、日英ハーフの英子(えいこ)さん、通称セオドラさんと結婚しました。セオドラさんは英国ロンドンで生まれ、父は日本の男爵・尾崎三良さん、母はイギリス人のバサイアさんです。
セオドラさんは英語力を活かして『日本昔話』などを翻訳し、イギリスで日本文化を広めたことで知られています。二人はすべての会話を英語で行っていたほど、文化的にも先進的な夫婦でした。
この国際結婚は当時とても珍しく、尾崎家の新しい風をもたらしました。彼女の存在が、尾崎行雄の国際的な感覚や寛容さに影響を与えたとも言われています。
尾崎行雄の子供たちは何をしていた?男女合わせて7人の足跡
尾崎行雄さんには、少なくとも7人の子どもがいたことがわかっています。
- 長女・尾崎清香(きよか)さんは、政治家・佐々木久二さんと結婚。
- 四男・尾崎行輝(ゆきてる)さんは参議院議員として活躍。
- 三女・相馬雪香(ゆきか)さんは、前述のように国際的な人道支援の先駆者となりました。
- 養子として迎えられた尾崎たま(旧姓・浅見たま)さんもおり、広島の河野家に嫁いだ後も家系の一部として知られています。
このように、尾崎行雄の子どもたちはそれぞれの分野で社会貢献し、尾崎家の精神を引き継いでいったのです。
家系図で見る尾崎行雄の子孫関係図!親戚・義理の関係も解説
尾崎行雄さんの家系には、血縁者だけでなく、養子や義理の親戚も多く関わっています。たとえば、養子の尾崎たまさんは浅見家から迎えられ、その後河野家へ嫁いでいます。また、長女の尾崎清香さんは政治家の佐々木家へ、三女の雪香さんは旧相馬藩の相馬家へ嫁ぎました。
さらに、セオドラ夫人の姪の夫が、俳優のラルフ・リチャードソンという著名人だったこともあり、海外ともつながるユニークな家系です。
尾崎行雄という一人の人物を中心に、さまざまな人々がつながり合い、それぞれの道を歩んでいったことが家系図からよくわかります。
尾崎行雄の家族にまつわる名言・エピソード!人柄がわかる逸話
尾崎行雄さんの名言で最も有名なのが、「人生の本舞台は常に将来に在り」です。これは94歳で現役議員を引退するときに語った言葉で、「どんなに年をとっても、今からが本番だ」という前向きな気持ちが込められています。
この言葉は、家族にも受け継がれています。孫の原不二子さんやひ孫世代の坊城さんも、尾崎家の価値観や信念を大切にしながら行動しているのがわかります。
また、尾崎行雄さんの健康の秘訣として「毎日卵3個と牛乳2合を飲んでいた」というエピソードも有名で、100歳近くまで生きたそのパワーの秘密として語り継がれています。
総括:尾崎行雄の子孫についてまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 尾崎行雄の子孫の現在と活躍
- 尾崎行雄の三女・相馬雪香は、「難民を助ける会」の創設者で人道支援の先駆者。ノーベル平和賞関連団体にも関わる。
- 孫の原不二子は通訳者。憲政記念館取り壊し反対運動で注目された。
- ひ孫の坊城氏は文響社関係者で、旧尾崎邸の保存活動に尽力している。
- 子・尾崎行輝は戦後の参議院議員や日本航空の取締役を務めた。
- 尾崎家の子孫は文化や歴史保全活動にも関わっており、表舞台には少ないが社会的に影響を持つ。
✅ 尾崎行雄の家族・家系図の概要
- 父・尾崎行正は三重県出身の地方名士。息子の教育に熱心だった。
- 妻・セオドラ(英子)は日英ハーフで翻訳家。日本文化を海外に紹介し、国際結婚も話題となった。
- 子どもたちは7人以上おり、政治・国際支援・教育など幅広い分野で活躍。
- 義理の親戚や養子も含め、家系図は多彩で国際的なつながりも。
- 名言「人生の本舞台は常に将来に在り」は今も子孫たちに受け継がれている。