歴史の授業で「鎌倉幕府の将軍が暗殺された」という話を聞いたことがありますか? それが源実朝(みなもとのさねとも)という人物です。
彼は鎌倉幕府の3代将軍でしたが、1219年に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で暗殺されました。暗殺したのは、公暁(くぎょう)というお坊さんでした。
でも、公暁はなぜ実朝を殺したのでしょうか? 事件の裏には黒幕がいたのでしょうか? そして、この事件が日本の歴史にどんな影響を与えたのでしょう?
今回は、塾長が分かりやすく解説していきます! 歴史が苦手な人も、最後まで読めば「なるほど!」と思えるはずです。
源実朝の死因とは?簡単に分かりやすく解説

源実朝は鎌倉幕府の3代目の将軍でしたが、28歳の若さで暗殺されました。その事件の真相について、詳しく見ていきましょう。
源実朝の死因は暗殺!公暁による鶴岡八幡宮での襲撃とは
源実朝は1219年1月27日、甥の公暁に暗殺されました。場所は鶴岡八幡宮。
この日は、実朝が朝廷から「右大臣」に任命されたことを祝う儀式がありました。その儀式が終わり、実朝が石段を下りていたとき、突然公暁が現れて「親の仇を討つ!」と叫びながら斬りかかりました。
公暁は一刀で実朝の首を落とし、そのまま逃走しました。
暗殺が起こった当日は大雪が降っていました。事件の衝撃に加え、雪が積もっていたため混乱が広がりました。実朝は暗殺されたことで、源氏の直系将軍は途絶えてしまいました。
この事件は、鎌倉幕府の歴史を大きく変えることになります。
公暁が実朝を殺した理由!「親の仇」とは本当だったのか?
公暁が実朝を殺した理由は「父の仇を討つため」だと言われています。
公暁の父は2代将軍・源頼家(よりいえ)。頼家は、鎌倉幕府の有力者である北条時政(ほうじょうときまさ)によって殺されました。
しかし、実朝は頼家を殺していません。むしろ、実朝は頼家が亡くなった後に将軍になっただけです。では、なぜ公暁は「実朝が仇だ」と思い込んでしまったのでしょうか?
これは、誰かが公暁にウソを吹き込んだ可能性が高いです。公暁は6歳のころに仏門に入り、僧侶として育てられました。そのため、実際の政治の動きには詳しくなかったはずです。
つまり、「実朝が仇だ」と教えた黒幕がいたのではないか?という説があるのです。
源実朝暗殺に隠された黒幕とは?義時・義村・後鳥羽上皇説を検証
実朝暗殺の裏には、いくつかの黒幕説があります。
- 北条義時黒幕説
→ 実朝の死後、幕府の実権を握ったのが北条義時。暗殺を知っていた? - 三浦義村黒幕説
→ 公暁の乳母夫(育ての親)が三浦義村。実朝を殺させた後に公暁を裏切った? - 後鳥羽上皇黒幕説
→ 朝廷と幕府の関係が悪化していた時期。幕府を混乱させるための策略だった? - 公暁単独犯説
→ 実朝を倒して自分が将軍になりたかった?
このように、実朝暗殺の背後にはさまざまな思惑が絡んでいた可能性があります。
暗殺を予言していた?源実朝の不吉な和歌と前兆
実朝は生前、ある不吉な和歌を詠んでいました。
「大海の 磯もとどろに よする波 割れて砕けて 裂けて散るかも」
この歌の意味は「海の波が激しくぶつかり合い、砕け散るように、自分も運命に翻弄される」というものです。
さらに、事件当日、北条義時は「気分が悪い」と言って儀式を欠席していました。これも偶然とは思えませんね。
実朝の死で何が変わった?鎌倉幕府の今後に与えた影響
実朝の死によって、源氏の直系将軍は完全にいなくなりました。
このため、鎌倉幕府は新しい将軍を探さなければなりませんでした。その結果、朝廷から「親王将軍」を迎えることになります。しかし、この動きが後の「承久の乱」につながっていきます。朝廷と幕府の対立が深まり、ついに戦いが起こるのです。
実朝の死は、鎌倉幕府だけでなく日本の歴史全体にも大きな影響を与えたのです。
源実朝の死因:公暁とは何者だったのか

公暁はなぜ源実朝を殺害したのか? 本当に黒幕に操られたのか? そして、公暁のその後はどうなったのか? 事件の真相にさらに迫っていきましょう!
公暁とはどんな人物?源頼家の子として生まれた運命
公暁は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の次男として生まれました。生まれたときの名前は「善哉(ぜんざい)」といいます。しかし、父・頼家は北条氏によって将軍の座を追われ、その後、伊豆の修禅寺で暗殺されてしまいます。
このとき、公暁はまだ4歳でした。父の死の真相を理解できるはずもなく、やがて北条政子の命令で僧侶として育てられることになります。
公暁は6歳のときに仏門に入り、「尊暁(そんぎょう)」という名前を与えられました。しかし、成長するにつれて「将軍になりたい」という野心を持つようになります。
彼はやがて、源氏の正統な血筋を引く者として、自分こそが鎌倉幕府を継ぐべきだと考えるようになっていきました。
なぜ公暁は将軍になりたかったのか?千日参籠の目的とは
公暁は18歳のとき、鶴岡八幡宮の別当(長官)になります。このころから、彼の行動には不穏な動きが見え始めます。
公暁は「千日参籠(せんにちさんろう)」と呼ばれる修行を始めました。千日参籠とは、神仏に願いをかけるため、長期間お寺や神社にこもる修行です。しかし、公暁の千日参籠には奇妙な点がありました。
・髪を剃らずに修行していた(本来、僧侶なら剃髪するのが普通)
・将軍になりたいという野心を抱いていた
・実朝に対する「調伏(ちょうぶく)」を行っていた可能性がある
つまり、公暁は僧侶の立場を利用しながらも、将軍になりたいという野望を捨てていなかったのです。
公暁の暗殺計画は本当に単独犯だったのか?黒幕の可能性を探る
公暁は一人で実朝を暗殺したのか? それとも誰かにそそのかされていたのか?
公暁は実朝を暗殺したあと、「私が新しい将軍になる!」と宣言しました。しかし、公暁は政治の知識もなく、支持してくれる御家人もいませんでした。
では、なぜ公暁は暗殺に踏み切ったのでしょうか? 本当に黒幕はいなかったのか?
ここで考えられるのが、三浦義村(みうら よしむら)の関与です。
・公暁の乳母(育ての親)は三浦義村の妻だった
・公暁は暗殺後、義村に「私を将軍にしろ」と伝えている
・義村は公暁を裏切り、討ち取った
これらの点から、三浦義村が公暁をそそのかし、利用した可能性は十分に考えられます。しかし、最終的に義村は公暁を見捨てています。これが「黒幕不在説」を支持する根拠ともなっています。
公暁の最期とは?裏切られて殺された悲劇の結末
公暁は実朝を暗殺した後、三浦義村に「自分を将軍にしてほしい」と使者を送りました。義村は「迎えに行く」と返事をしましたが、実際には北条義時に報告し、公暁を討ち取る手はずを整えていたのです。
そして、公暁は義村の家に向かう途中で討伐軍に襲われ、最期を迎えます。
暗殺後、将軍になれると信じていた公暁ですが、裏切られ、処刑されてしまいました。彼が最期に何を思ったのかは分かりませんが、結果として鎌倉幕府の歴史に大きな影響を残した人物となりました。
源実朝と公暁の事件が日本の歴史に与えた影響
この事件によって、日本の歴史は大きく変わりました。
- 源氏の直系が途絶えた
→ 実朝の死によって、源氏の血を引く将軍はいなくなった - 鎌倉幕府が朝廷から新たな将軍を迎えることに
→ 親王将軍が誕生し、幕府と朝廷の関係が複雑に - 承久の乱のきっかけに
→ 幕府と朝廷の対立が深まり、のちに「承久の乱」が勃発する原因となった
つまり、この事件は「ただの暗殺事件」ではなく、日本全体の政治体制を大きく変えるきっかけとなった出来事だったのです。
総括:源実朝の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 源実朝は1219年に公暁によって暗殺された
→ 鶴岡八幡宮での儀式の帰りに襲撃され、首を斬られた
✅ 公暁が暗殺を決意した理由は「父の仇討ち」
→ しかし、実朝は父・頼家を殺していないため、誰かにそそのかされた可能性がある
✅ 黒幕の候補として北条義時、三浦義村、後鳥羽上皇が挙げられる
→ 義時:実朝の死後、幕府の実権を握った
→ 義村:公暁をそそのかしたが、裏切って殺害した
→ 上皇:幕府の混乱を狙っていた可能性
✅ 公暁の暗殺計画は単独犯だったのか?
→ 将軍になりたかったが、御家人の支持を得られず、暗殺後すぐに処刑された
✅ 事件の影響は非常に大きかった
→ 源氏の直系が断絶し、鎌倉幕府は「親王将軍」を迎える
→ 幕府と朝廷の対立が深まり、後の「承久の乱」につながる
✅ 実朝は暗殺を予言するかのような和歌を詠んでいた
→ 「大海の磯もとどろに~」の歌が、不吉な運命を暗示していたとされる
✅ 最終的に公暁は三浦義村に裏切られ、討ち取られた
→ 自らの計画が失敗し、将軍になれないまま最期を迎えた
