今日は平安時代に生きた「三条天皇」について解説します。
三条天皇は42歳という若さで崩御(亡くなること)しましたが、その死因には「眼病」と「藤原道長との対立」が大きく関係していました。
当時の医療では眼病の治療は難しく、さらに政治の世界では大きな権力争いがありました。そんな状況で三条天皇はどのように生き、どんな最後を迎えたのでしょうか?
歴史のドラマとしても面白い内容になっているので、ぜひ最後まで読んでくださいね!
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三条天皇の死因は何?眼病と権力闘争の影響を解説
三条天皇は平安時代の67代天皇で、1011年に即位しました。しかし、わずか4年半後の1016年に退位し、その翌年に崩御しました。三条天皇の死因には「眼病の悪化」と「藤原道長との権力闘争のストレス」が関係していると言われています。
また、当時の人々は病気を「怨霊の祟り」と考えることもありました。三条天皇の時代には内裏(天皇が住む宮殿)が2度も焼失しており、それも「天皇の徳が足りないからだ」とささやかれました。このような環境が三条天皇の体調にどんな影響を与えたのか、詳しく見ていきましょう!
三条天皇の死因は眼病?最後の病状と死去の経緯
三条天皇の最大の問題は、晩年に「視力を失った」ことです。1014年頃から眼病を患い、次第に片目が見えなくなり、ついには両目がほとんど見えない状態になりました。
当時、天皇は政治の中心であり、国のトップとして公務をこなさなければなりません。しかし、視力を失うと公務を行うことが難しくなります。特に三条天皇は自分で政治を動かしたいと考えていたので、目が見えなくなったことは非常に辛かったはずです。
最終的に三条天皇は1016年に譲位(皇位を次の天皇に譲ること)しました。そして1017年5月9日、42歳の若さで崩御しました。直接の死因は記録に残っていませんが、長年の眼病の悪化やストレスが影響したと考えられています。
眼病はいつから?三条天皇の病歴と当時の医療事情
三条天皇の眼病が悪化し始めたのは1014年頃でした。しかし、平安時代には現在のような医学がなく、目の病気を治す方法は限られていました。
当時の医療では「薬草」や「加持祈祷(お坊さんがお経を唱えて病を治そうとする儀式)」が使われました。しかし、これらの治療は科学的な根拠がなく、実際に病気を治す力はほとんどなかったのです。
また、病気を治すために「神社に祈願する」ことも行われました。三条天皇も神頼みをして、各地の神社に高官を派遣し、病気が治るよう祈りました。しかし、これも効果はなく、眼病はどんどん悪化していったのです。
天皇に対する加持祈祷と呪詛の影響—病気の原因は怨霊か?
平安時代の人々は、病気になると「怨霊の祟りではないか?」と考えました。特に三条天皇のように高貴な身分の人が重い病気にかかると、「誰かが呪っているのでは?」という噂が広まりました。
さらに、当時の日本では「天狗(てんぐ)が病気を引き起こす」と考えられることもありました。人々はお坊さんにお経を唱えてもらったり、お祓いをしたりしましたが、当然ながらこれで眼病が治ることはありませんでした。
三条天皇は目が見えなくなったことで、「自分は天皇としての資格がないのでは?」と悩んでいたと言われています。この精神的な不安が、病気の悪化を加速させたかもしれません。
藤原道長との対立がもたらした精神的ストレスと健康悪化
三条天皇の治世は、藤原道長との対立に苦しめられた時代でもありました。藤原道長は当時の権力者であり、彼は自分の孫を天皇にしたいと考えていました。そのため、三条天皇の退位を画策し、さまざまな嫌がらせをしたのです。
例えば、三条天皇が病気を治すために神社へ祈願しようとしたとき、高官たちが次々と「体調が悪い」「不吉なことが起きた」などと言って出発を遅らせました。これは明らかに道長が裏で動いていたと考えられています。
また、三条天皇は自分の息子・敦明親王を皇太子にしようとしましたが、道長はこれを阻止しようとしました。このような権力争いのストレスが、三条天皇の健康を悪化させる要因になったと考えられています。
内裏の焼失と災厄が天皇の運命を決めた?
三条天皇の時代には、二度も内裏(天皇が住む宮殿)が焼失しました。これは当時の人々にとって大きな不吉の兆しでした。
最初の火災は1014年に発生し、翌年1015年には再建が完了しました。しかし、そのわずか2か月後に再び火災が起こり、新しい内裏も焼失してしまったのです。
当時の日本では「天災は天皇の徳が足りないから起こる」と考えられていました。そのため、多くの貴族たちは「三条天皇は天に見放されたのでは?」と思い始めました。三条天皇自身もこれに深く傷つき、「もう自分には天皇としての力がない」と感じたのかもしれません。
こうして、眼病の悪化だけでなく、政治的圧力や精神的ストレスが三条天皇を追い詰め、最終的には譲位へとつながっていきました。
三条天皇死因の後に:退位と最後の様子
三条天皇は1016年に退位し、翌年に亡くなりました。しかし、彼はどのような気持ちで最後の時を迎えたのでしょうか?ここでは、三条天皇の退位の経緯と、晩年の様子を詳しく見ていきます。
三条天皇が譲位を決意した理由
三条天皇が退位した最大の理由は、眼病の悪化でした。視力を失った天皇が政治を続けるのは難しく、さらに藤原道長が「天皇としての責務を果たせないなら、譲位すべきだ」と圧力をかけていたことも影響しました。
また、内裏の焼失によって精神的に追い詰められたことも大きな要因でした。2度も宮殿が焼け落ち、「天皇としての徳が足りない」という風評が広まる中、三条天皇は次第に「自分はもう天皇にふさわしくないのでは?」と考えるようになったのです。
こうして1016年の正月、三条天皇はついに退位を決意しました。そして、新たな天皇として、道長が推していた孫・敦成親王(後一条天皇)が即位することになりました。
最後の願い—息子・敦明親王を皇太子に
退位を決めた三条天皇が最後に望んだのは、「息子・敦明親王を次の皇太子にすること」でした。
三条天皇は道長の孫ではない敦明親王を皇太子にすることで、自分の血筋を守りたかったのです。しかし、藤原道長にとっては、敦明親王が天皇になることは好ましくありません。
最終的に、道長は「三条天皇が譲位するなら、敦明親王を皇太子にする」と約束しました。しかし、この約束は長くは続きませんでした。
道長の策略—敦明親王の皇太子辞退へ
三条天皇が亡くなった後、道長は敦明親王に圧力をかけ、皇太子の座を辞退させました。
敦明親王は道長に逆らう力を持っておらず、父である三条天皇という後ろ盾を失ったことで、精神的にも追い詰められていました。最終的に彼は1017年8月に自ら皇太子の地位を辞退し、代わりに後一条天皇の弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)が皇太子となりました。
この結果、三条天皇が最後に望んだ「自分の息子を次の天皇にする」という願いは叶わなかったのです。
三条天皇の最期—彼は何を思っていたのか?
三条天皇は1017年5月9日、42歳で崩御しました。彼の死因は明確には記録されていませんが、長年の眼病や精神的なストレスが影響したと考えられます。
彼が亡くなる直前に詠んだとされる和歌が、『百人一首』にも収録されています。
「心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」
(この辛い世の中を生き延びても、後になればこの宮中の月を恋しく思うだろう)
この歌には、「もうこの世に未練はないが、宮中で過ごした日々は美しい思い出として残るだろう」という意味が込められています。
三条天皇の死後—歴史に残る評価
三条天皇の治世はわずか4年半でしたが、彼は「自らの意思で政治を行おうとした天皇」として評価されています。
しかし、藤原道長という強大な権力者がいたため、彼の理想は実現しませんでした。また、眼病や宮廷内の火災など、不運な出来事が重なったことで、思うように政務を執ることができませんでした。
歴史的には「悲劇の天皇」として語られることが多いですが、彼の政治への意欲や、最後まで自分の血筋を守ろうとした意志は、現代においても評価されるべき点でしょう。
総括:三条天皇の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 三条天皇の死因
- 眼病の悪化により視力を失った。
- 藤原道長との対立による精神的ストレスが健康を悪化させた。
- 直接的な死因は記録にないが、眼病の悪化とストレスが影響したと考えられる。
- 眼病の経過と治療
- 1014年頃から視力が低下し、最終的に両目がほぼ見えなくなった。
- 当時の医療では有効な治療法がなく、加持祈祷や神社への祈願が行われたが効果はなかった。
- 眼病が悪化したことで天皇としての務めを果たすのが困難になった。
- 藤原道長との権力闘争
- 道長は自身の孫を天皇にするため、三条天皇に退位を迫った。
- 天皇の病気治癒のための神社祈願が、道長の圧力で7回も延期された。
- 息子・敦明親王を皇太子にすることを望んだが、三条天皇死後に辞退へ追い込まれた。
- 内裏の焼失と精神的負担
- 1014年と1015年に内裏が2度焼失し、「天皇の徳が足りない」と噂された。
- 三条天皇自身も精神的に追い詰められ、譲位を決意する一因となった。
- 三条天皇の退位と最期
- 1016年に譲位し、後一条天皇が即位。
- 1017年5月9日、42歳で崩御。
- 最後に詠んだ和歌が『百人一首』に収録されている。
- 歴史的評価
- 天皇親政を目指したが、藤原道長の権力に阻まれた「悲劇の天皇」とされる。
- 政治的な意欲は評価されるものの、権力争いや病に翻弄された生涯だった。