日本の歴史の中で「幕府と天皇が対立した事件」って聞いたことがありますか?
実は江戸時代には、幕府が天皇の決定を取り消してしまった「紫衣事件(しえじけん)」という大事件があったんです。
この事件をきっかけに、江戸幕府の力がどんどん強くなり、天皇の権限は小さくなってしまいました。本記事では、紫衣事件を分かりやすく解説します。
紫衣事件とは?背景から流れまでわかりやすく

紫衣事件は、1627年に発生した幕府と朝廷の対立を象徴する重要な出来事です。徳川家光が将軍に就任して間もない頃、幕府の力が一層強化される中で起こったこの事件。
朝廷の権威を示す紫衣着用の勅許が幕府によって取り消され、朝廷と幕府の関係が激しく対立したことを物語っています。
紫衣事件とは?簡単な概要とポイント
紫衣事件とは、1627年(寛永4年)に起こった江戸幕府と朝廷の対立事件です。
天皇が特定の僧侶に紫色の袈裟(けさ)を着る許可を出したのですが、幕府が「勝手にそんなことを決めるなんてダメだ!」と猛反発しました。その結果、幕府は天皇の許可を取り消し、僧侶たちの紫衣を没収したのです。
この事件の大きなポイントは、幕府が天皇の権限を無効にしてしまったことです。これにより、「幕府の決定は天皇よりも強い」と世の中に知らしめることになりました。そして、この事件に抗議した僧侶たちは流罪(るざい)になり、朝廷と幕府の関係はさらに悪くなってしまいました。
紫衣事件は、江戸時代の権力関係を決定づけた重要な出来事なのです。
紫衣事件の背景:禁中並公家諸法度と幕府の狙い
紫衣事件の原因は、江戸幕府が朝廷の力を抑え込もうとしたことにあります。
そのために幕府は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」という法律を1615年に作りました。これは天皇や貴族たちが勝手に政治に関わることを禁止するための決まりです。
この法律には「天皇は学問や文化を大切にすること」と書かれており、政治に関わることができなくなりました。また、天皇が僧侶に紫衣を与える場合は、幕府の許可が必要というルールも加えられました。
しかし、天皇は「これは昔から天皇が決めていたことだ!」として幕府の指示を無視し、勝手に紫衣を授け続けたのです。
幕府は「天皇がルールを破っている!」と怒り、紫衣の許可を取り消す決断をしました。これが紫衣事件の始まりです。
紫衣事件の発端:後水尾天皇と幕府の対立
紫衣事件が起こったときの天皇は「後水尾天皇(ごみずのおてんのう)」です。彼は幕府に対して強い反発心を持っており、「幕府の言いなりにはならない!」という姿勢を貫いていました。
しかし、幕府はすでに日本全国を支配する強大な権力を持っており、天皇の発言権は次第に小さくなっていました。そんな中、後水尾天皇は「幕府の許可なしでも紫衣を与えていい」と考え、十数人の僧侶に紫衣を授けました。
これに対し、幕府は「紫衣の許可をすべて取り消す!」と決定します。さらに、紫衣を受け取った僧侶たちを罰しようとしたことで、天皇と幕府の対立が決定的になったのです。
紫衣事件の経過:沢庵和尚らの抗議と流罪
紫衣事件では、多くの僧侶が幕府に抗議しました。特に、大徳寺(だいとくじ)や妙心寺(みょうしんじ)の僧たちは強く反発しました。その中でも有名なのが「沢庵和尚(たくあんおしょう)」です。
彼は幕府に対し、「天皇が許したものを幕府が取り消すなんておかしい!」と主張しました。しかし、幕府は「ルール違反は許さない」として、沢庵和尚を含む僧侶たちを出羽国(現在の山形県)や陸奥国(現在の東北地方)へ流罪にしてしまいました。
このように、紫衣事件は単なる「紫衣の許可」の問題ではなく、幕府がどれだけ強い権力を持っていたのかを示す事件となったのです。
紫衣事件の影響!天皇の譲位と幕府の勝利
紫衣事件の最大の影響は、後水尾天皇が「こんな屈辱には耐えられない!」と、突然天皇を辞めてしまったことです。これを「譲位(じょうい)」といいます。
後水尾天皇が譲位したことで、新しく天皇になったのが「明正天皇(めいしょうてんのう)」です。彼女はなんと、徳川家の血を引く天皇でした。これによって、幕府の支配力はさらに強まり、天皇は完全に幕府の管理下に置かれることになりました。
この事件の後、朝廷は幕府に逆らうことができなくなり、政治の中心は完全に幕府へと移りました。そして、この関係は明治時代まで続くことになるのです。
紫衣事件とは何か分かりやすく:テスト重要ポイント解説

紫衣事件の結果、幕府の権力は強まり、朝廷の権威は低下しました。この事件は、天皇と幕府の関係にどれだけ深い影響を与えたのでしょうか。後水尾天皇の譲位や、幕府の絶対的な支配の確立など、当時の日本の政治に大きな変化をもたらしました。
紫衣事件のポイントを押さえよう!テストで狙われる重要ワード
紫衣事件は、日本史のテストでもよく出題される重要な出来事です。特に、以下のワードは必ず押さえておきましょう。
- 紫衣(しえ):位の高い僧侶が着る紫色の袈裟。天皇の勅許(ちょっきょ)で与えられる。
- 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと):江戸幕府が1615年に制定した朝廷や貴族を制限する法律。紫衣の許可についても記載されている。
- 後水尾天皇(ごみずのおてんのう):紫衣事件を起こした天皇。幕府の決定に抗議し、譲位してしまった。
- 徳川家光(とくがわいえみつ):江戸幕府の3代将軍。幕府の権威を守るために紫衣の許可を取り消し、事件を決着させた。
- 沢庵和尚(たくあんおしょう):紫衣事件で幕府に抗議した僧侶の1人。幕府によって流罪となった。
- 譲位(じょうい):天皇が皇位を他の人に譲ること。後水尾天皇はこの事件の後に明正天皇へ譲位した。
これらのワードをしっかり覚えておけば、テストでの得点アップにつながりますよ!
語呂合わせで簡単に覚えよう!紫衣事件の年号(1627年)
歴史の勉強で大変なのが「年号の暗記」ですよね。紫衣事件が起こったのは1627年(寛永4年)ですが、語呂合わせを使って簡単に覚えましょう!
語呂合わせ①:「色(16)に(2)なれ(7)!紫衣事件」
→ 紫衣事件は「紫の袈裟」をめぐる争いなので、「色に慣れ=紫色に慣れる」と関連付けると覚えやすいです!
語呂合わせ②:「ヒーロー(16)にな(2)れ(7)!沢庵和尚」
→ 沢庵和尚は幕府に反発し、流罪になりましたが、後に復活しました。まるで「ヒーロー」のような存在だったと考えると覚えやすいですね!
テストで年号を聞かれたときに、これらの語呂合わせを思い出せるとスムーズに回答できます。
なぜ幕府は紫衣を取り消したの?理由を深掘り解説
紫衣事件では「なぜ幕府が天皇の許可を取り消したのか?」という疑問が浮かびますよね。これは、幕府が「朝廷が力を持ちすぎると危険だ」と考えたからです。
江戸時代の初期、幕府は戦国時代を終わらせ、日本全国を統一しました。しかし、当時の朝廷はまだある程度の影響力を持っており、特に僧侶たちが幕府に逆らう可能性がありました。
そこで幕府は、「朝廷の権力を抑えるために、天皇の決定すら取り消せる権限を持つべきだ」と考えたのです。その結果、紫衣事件では、幕府が紫衣の許可を取り消し、朝廷の力を弱めることに成功しました。
この事件の後、天皇は完全に政治の表舞台から遠ざかり、幕府の支配体制がより強固なものになりました。つまり、紫衣事件は「幕府が朝廷を支配する時代の始まり」と言えるのです。
紫衣事件と春日局の関係:大奥の影響
春日局は徳川家光の乳母で、大奥で強い影響力を持っていました。
紫衣事件の際には、幕府の意向を伝えるために後水尾天皇のもとへ派遣されたといわれています。これは、大奥の女性が政治的な交渉にも関与していたことを示す重要な出来事です。
春日局は天皇をなだめる役割を果たし、幕府の立場を守るために動きました。
紫衣事件を通じて、幕府の女性たちが単なる裏方ではなく、政権運営に関与していたことがわかります。
紫衣事件がその後の日本に与えた影響とは?
紫衣事件の影響は大きく、以下のような変化を日本にもたらしました。
- 幕府の権威が確立
→ 天皇の許可を取り消せるほどの力を幕府が持つことが証明され、江戸幕府の支配体制が強化されました。 - 朝廷の影響力が低下
→ 紫衣事件をきっかけに、天皇や公家が政治に関与することはほぼなくなり、幕府の管理下に置かれるようになりました。 - 幕府と寺院の関係の変化
→ 大徳寺や妙心寺のような有力寺院が幕府に逆らった結果、幕府の厳しい監視下に置かれるようになりました。これにより、宗教界の自由も制限されました。 - 徳川家の外戚(がいせき)支配の強化
→ 新しい天皇となった明正天皇は、徳川家の血を引く人物だったため、天皇家と幕府の関係がより密接になりました。
これらの影響により、江戸時代は260年以上も続く安定した時代になったのです。
総括:紫衣事件とは何か分かりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 紫衣事件は1627年に起こり、江戸幕府と朝廷の対立を象徴する出来事。
- 紫衣とは、天皇が許可する高僧の袈裟で、紫色が高貴な色とされている。
- 背景として、幕府は朝廷の権限を制限する「禁中並公家諸法度」を制定し、紫衣の許可も幕府の承認が必要となった。
- 後水尾天皇が紫衣を勝手に与えたことに反発し、幕府がその許可を取り消す。
- その結果、沢庵和尚ら僧侶が流罪となり、朝廷と幕府の対立が激化。
- 後水尾天皇は譲位し、明正天皇が即位。これにより、幕府の権力が強化され、天皇は政治の表舞台から遠ざかる。
- 春日局は紫衣事件の際、幕府の意向を伝えるため後水尾天皇に派遣され、幕府の立場を守る役割を果たす。
- 紫衣事件は幕府の権力強化、朝廷の影響力低下、寺院への規制強化、徳川家の支配強化に繋がり、江戸時代の安定した時代基盤を築いた。
