歴史の授業で「称徳天皇(しょうとくてんのう)」という名前を聞いたことがありますか?実は彼女は、日本史上でも特にインパクトの強いエピソードを持つ女性天皇です。
称徳天皇の死因には、病気によるものとされていますが、一方で「山芋事件」という衝撃的な逸話が残されています。この話は本当なのか?それとも作り話なのか?
今回は、称徳天皇の死因について詳しく解説しながら、彼女の人生にまつわる驚きのエピソードを紹介していきます。さあ、歴史の謎を一緒に探ってみましょう!
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称徳天皇の死因とは?史実と伝説の違いを徹底解説
称徳天皇が亡くなった原因は、公式には天然痘とされていますが、実はそれ以外にもさまざまな説や噂が存在します。彼女の死因に関する情報は、歴史書に記録された内容と後世に広まった逸話とで大きな違いが見られます。
称徳天皇の死因は天然痘?史実としての崩御の記録
称徳天皇の公式な死因は「天然痘(てんねんとう)」だとされています。『続日本紀(しょくにほんぎ)』という歴史書には、770年8月28日、称徳天皇が平城宮(へいじょうきゅう)の西宮寝殿(にしのみやしんでん)で崩御(ほうぎょ)したと記録されています。
当時、日本では天然痘が流行していました。この病気は非常に感染力が強く、一度かかると高熱や発疹(ほっしん)が出て、重症化すると命を落とすこともありました。
さらに、当時の記録によると、称徳天皇は亡くなる直前、ほとんど人と会うことがなかったそうです。女官の「吉備由利(きびのゆり)」だけが彼女のそばに仕えていたとされており、これも天然痘の特徴である「隔離(かくり)」と一致します。
しかし、後世には「天然痘ではなく、別の理由で亡くなったのでは?」という説も登場しました。
山芋事件とは?『古事談』に記された衝撃の伝説
平安時代に書かれた『古事談(こじだん)』という説話集には、称徳天皇の死因として「山芋事件(やまいもじけん)」という驚くべき話が載っています。
この話によると、称徳天皇は道鏡との関係に満足できず、自ら「山芋(やまいも)」を削って「道具」を作り、使用していたそうです。しかし、ある日、その山芋が折れてしまい、体内に詰まってしまったとか!
慌てた側近たちは医師を呼びましたが、藤原百川(ふじわらのももかわ)という人物が治療を妨害したため、最終的に命を落としたというのです。この話は、後世の人々が作り上げた「ゴシップ」の可能性が高いですが、称徳天皇の評価を貶める(おとしめる)ために広まったと考えられています。
道鏡との関係が死因に影響したのか
称徳天皇と道鏡の関係は非常に深いものでした。道鏡は僧侶でありながら、称徳天皇の側近として政治にも強い影響を持っていました。
特に有名なのが「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)」です。これは、称徳天皇が道鏡を天皇にしようとした出来事です。しかし、藤原氏をはじめとする貴族たちは猛反対しました。
結果的に、この計画は失敗し、道鏡は失脚(しっきゃく)しました。この出来事が、称徳天皇の政治的孤立を決定づけ、彼女の健康悪化にも影響したのではないかと言われています。
称徳天皇の死因に関する他の説話や逸話
実は、称徳天皇の死因に関する逸話は「山芋事件」だけではありません。例えば、『日本紀略(にほんきりゃく)』や『水鏡(すいきょう)』といった歴史書には、別の説が記されています。
ある説では「称徳天皇は藤原氏によって毒殺(どくさつ)された」とも言われています。また、道鏡が実は称徳天皇を害したのではないか?という陰謀論(いんぼうろん)も存在します。
こうした話が生まれた背景には、彼女が「女性天皇」であったこと、そして道鏡との関係があまりにも異例だったことが影響しているのかもしれません。
なぜ称徳天皇の死因には下世話な話が多いのか
称徳天皇の死因について、なぜこれほどまでに下世話な話が広まったのでしょうか?
その理由のひとつは「藤原氏の政治的な策略」です。称徳天皇は、道鏡を重用し、藤原氏の権力を削ごうとしました。しかし、これを快く思わなかった藤原氏は、称徳天皇が亡くなった後、「彼女はスキャンダラスな人物だった」という噂を広めたのです。
また、当時の日本社会では「女性が権力を持つこと」に対して厳しい目が向けられていました。そのため、称徳天皇のように権力を握った女性は、後世で悪く書かれることが多かったのです。
このように、称徳天皇の死因をめぐる話には「事実」と「作り話」が入り混じっていることを理解しておく必要があります。
称徳天皇の死因の後に:やばいエピソード
称徳天皇にまつわるエピソードの中でも特に話題になるのが、彼女と道鏡に関する数々のスキャンダルです。道鏡との関係やその後の政治的な展開には、今でも信じられないような逸話が残っています。
道鏡は本当に巨○だった?『日本霊異記』の記述
称徳天皇のスキャンダラスな話と切り離せないのが、道鏡の「巨○伝説」です。『日本霊異記(にほんれいいき)』という歴史書には、道鏡の体の特徴を示唆する詩が残されています。
特に有名なのが、江戸時代の川柳「道鏡は座ると膝が三つでき」。これは、道鏡の股間が膝のように見えたという、いかにも作り話のような内容です。
また、『日本霊異記』では「道鏡は股間に木槌(きづち)を下げている」とまで書かれています。この表現は、「とても大きかった」ということを遠回しに伝えているのかもしれません。
称徳天皇が道鏡を天皇にしようとした事件
称徳天皇と道鏡の関係が大きな問題となったのが「宇佐八幡宮神託事件」です。
この事件は、769年、宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から「道鏡を天皇にすべき」という神託(しんたく)が下ったという話から始まります。しかし、藤原氏をはじめとする貴族たちは大反対!そこで、和気清麻呂(わけのきよまろ)が真相を確かめるため宇佐八幡宮へ派遣されました。
すると、清麻呂は「天皇の位は皇族が継ぐべき」という、称徳天皇と道鏡の意向とは真逆の神託を持ち帰りました。これにより、道鏡の皇位継承の夢は完全に潰え、最終的に称徳天皇の死後、道鏡は失脚することになります。
称徳天皇の死後に道鏡がたどった悲惨な末路
称徳天皇が亡くなった後、政治の実権を握ったのは藤原百川でした。彼はすぐに道鏡を追放し、僧籍の身でありながら、政治のトップに立とうとした道鏡の存在を完全に消し去ろうとしました。
道鏡は、770年に下野国(しもつけのくに・現在の栃木県)へ流罪となり、薬師寺の別当(べっとう:寺の管理者)として細々と暮らすことになりました。それまで権力を握り、称徳天皇の側近として君臨していた道鏡にとって、これはまさに地獄のような日々だったでしょう。
その後、道鏡は歴史の表舞台に二度と姿を現すことはなく、やがてひっそりと生涯を終えました。
藤原百川が称徳天皇を死に追いやった?陰謀説の考察
称徳天皇が亡くなった時、最も得をしたのは誰でしょうか?答えは、藤原百川です。藤原百川は、道鏡と称徳天皇の関係を快く思っておらず、称徳天皇が亡くなった直後、すぐに新しい天皇(光仁天皇)を即位させました。
このタイミングの良さから「称徳天皇は暗殺されたのでは?」という陰謀説もあります。特に「山芋事件」では、藤原百川が治療を妨害し、称徳天皇が亡くなったという話も残っています。
藤原氏は、称徳天皇の死後、女性天皇を二度と誕生させないために、彼女の評判を大きく貶めました。このような陰謀が背景にあった可能性は十分に考えられます。
総括:称徳天皇の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 称徳天皇の公式な死因は天然痘
- 770年8月28日、平城宮の西宮寝殿で崩御
- 『続日本紀』によると、隔離された状態で亡くなり、女官・吉備由利のみが側にいた
- 「山芋事件」という逸話がある
- 『古事談』によると、称徳天皇が山芋を削って作った道具を使用中に折れ、体内に詰まった
- 治療を試みた尼を藤原百川が妨害し、天皇は助からなかったという伝説
- 称徳天皇と道鏡の関係が死因に影響?
- 道鏡は僧侶ながらも政治的な影響力を持ち、称徳天皇と密接な関係を築いた
- 769年の「宇佐八幡宮神託事件」で道鏡を天皇にしようとしたが、藤原氏の反対で失敗
- 称徳天皇の死後、道鏡は失脚し流罪に
- 770年に藤原百川が光仁天皇を即位させ、道鏡は下野国(現在の栃木県)に流される
- 称徳天皇の死に関する他の説
- 『日本紀略』や『水鏡』には、「藤原氏による毒殺」や「道鏡が暗殺した」などの陰謀説がある
- 称徳天皇の評価を貶める目的で下世話な話が広まった
- 女性天皇をなくしたい藤原氏の策略で、スキャンダラスな噂が広められた可能性が高い
- 道鏡の「巨○伝説」もある
- 『日本霊異記』では道鏡の股間を強調する詩が残されており、後世の噂のもとになった
- 称徳天皇の死因に関する陰謀論
- 最も利益を得たのは藤原百川であり、彼が称徳天皇を死に追いやった可能性も指摘される
- 称徳天皇の死後、日本では女性天皇がほぼ途絶えた
- 以後、明正天皇まで約900年間、女性天皇は即位しなかった
