今回は「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」について、超シンプルに、そしてしっかり理解できるように解説していきますよ!
この大政翼賛会は、戦時中の日本で国全体を一つにまとめようとしてつくられた組織でした。でも、「なぜそんな組織が必要だったのか?」や、「結局うまくいったのか?」など、知らないとモヤモヤするポイントがたくさんあるんです。
さあ、ここからは塾長と一緒に、大政翼賛会がどんな組織だったのか、その目的や流れ、メリット・デメリットまでしっかり見ていきましょう!
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓


大政翼賛会とは何か簡単に解説!目的や成立の背景
「大政翼賛会って何?」という人のために、まずはその基本をわかりやすく解説します。いつ、誰が、何のために作ったのか。そして、日本が戦争に向かっていく中で、どんな役割を果たしたのかを見ていきましょう。
大政翼賛会の基本的な定義と成立背景
大政翼賛会とは、1940年に日本で設立された、国を一つにまとめるための組織です。当時の日本は、日中戦争の真っただ中で、国民の意識をひとつにして戦争を乗り切る必要があると考えられていました。
そのため、政党(今でいう自民党や立憲民主党のようなグループ)を全部解散させ、代わりに作られたのが大政翼賛会でした。これにより、日本中の政治家・国民・団体が1つの方針のもとで動けるようにしたのです。
つまり、「国民みんなで戦争をがんばろう!」という空気を強めるために作られた組織というわけですね。
大政翼賛会設立の目的と新体制運動
この大政翼賛会が生まれた背景には、「新体制運動(しんたいせいうんどう)」という考え方があります。この運動を主導したのが、近衛文麿(このえふみまろ)という人物。当時の総理大臣でもありました。
近衛は、「今のバラバラな政治じゃ戦争に勝てない」と考えました。だから、ドイツのナチスのように、強いリーダーのもとで全員が団結する「一国一党体制」を目指したのです。
この考えを元に作られたのが大政翼賛会でした。つまり、目的は「政府と国民が一体となって、強い国をつくる」こと。言い換えれば「国民の力をまとめて戦争に勝つ」ということですね。
大政翼賛会の組織構成と指導者
では、その大政翼賛会ってどういう仕組みだったの?と思ったあなたに、分かりやすく説明しますね。
トップには総裁がいて、これは総理大臣の近衛文麿が務めました。その下には中央本部があり、さらに都道府県・市町村・町内会というように、ピラミッド型に全国に広がっていきました。
特に「隣組(となりぐみ)」というご近所同士の小さなグループまで作られ、国の考えや命令が末端まで伝わるように工夫されていたんです。つまり、政治から町内まで、全部がつながる大きなネットワークのような組織だったんですね。
近衛文麿のリーダーシップと内部対立
大政翼賛会をつくった近衛文麿ですが、実はリーダーとしては少し頼りない部分がありました。
彼は「みんな仲良くやろう」という考えが強くて、強いリーダーシップをとるのが苦手だったんです。そのため、軍部・政党・経済界などのいろんな立場の人たちが好き勝手に意見を出して、方針がなかなか決まらなかったのです。
中には「このままだと天皇を差し置いて政治を動かすことになる!」と反発する人もいて、「大政翼賛会って憲法違反じゃないの?」という声まで出てきました。
結局、近衛の優柔不断さが原因で、大政翼賛会の方向性はあいまいになり、理想通りには進みませんでした。
大政翼賛会と日本の戦時体制の関係
それでも大政翼賛会は、日本の戦時体制を支える大きな役割を果たしました。
戦争が進む中で、国民がバラバラに動いていたら勝てるはずがありません。そこで、すべての組織や団体を大政翼賛会のもとに集めて、戦争を「国全体で進める」という体制にしたのです。
例えば、労働者は産業報国会という新しい組織に、子どもたちの学校は「国民学校」と呼ばれるようにされました。つまり、全国民が「国のために動く」ように仕組みが整えられたんです。
こうして、大政翼賛会は日本の戦争体制の中心に立ち、社会全体に影響を与える存在となったのです。
大政翼賛会を簡単に:メリットとデメリットや解散の経緯
ここまでは、大政翼賛会がどのように生まれたのか、何を目的にしていたのかをお話しましたね。ここからでは、「それで結局、大政翼賛会って良かったの?悪かったの?」「最後はどうなったの?」という疑問に答えていきます。
歴史の中には、良い面と悪い面がどちらもあることがよくあります。大政翼賛会もその一つ。塾長と一緒に、メリット・デメリットをしっかり整理して、最後まで学んでいきましょう!
メリット:戦時体制の統一と効率化
大政翼賛会のメリットは、なんといっても「国を一つにまとめる力」にありました。
それまでの日本は政党がバラバラに存在していて、意見が食い違うこともしばしば。でも、戦争中には「迷ってるヒマはない!」ということで、全ての政党を解散させて一つの組織にまとめました。
これによって、国の方針がスムーズに決まり、軍や企業、国民も素早く動けるようになりました。例えば、物資の供給や労働力の動員、宣伝活動などが一気に効率よくなったのです。
つまり、「みんなで一致団結して戦争に集中できるようになった」というのが大政翼賛会の大きなメリットでした。
デメリット:独裁政治と反対勢力の抑圧
でも、良いことばかりではありません。大政翼賛会には大きなデメリットもありました。それは「独裁的な政治」になってしまったことです。
すべての政党が解散され、国の考えに反対する人たちは「反逆者」のように扱われました。言いたいことも言えない、自由に意見を出せない、そんな社会になってしまったのです。
また、新聞やラジオなどのメディアも政府の管理下に置かれ、「戦争を応援しよう!」という情報ばかりが流されました。このように、大政翼賛会は「国を一つにまとめる」代わりに、「反対意見を排除する」結果にもつながってしまったのです。
大政翼賛会解散の背景とその後の影響
では、大政翼賛会はどうして解散したのでしょうか?
それは1945年、日本が戦争に負ける直前のことです。日本はアメリカとの戦争に負け始め、国内の状況もどんどん厳しくなっていきました。
そんな中、政府は「もっと強い体制が必要だ!」と考え、大政翼賛会を解散して、「国民義勇隊(こくみんぎゆうたい)」という新しい組織をつくったのです。
でも、これはうまくいきませんでした。大政翼賛会の内部でも「そんな解散は急すぎる!」と反発する人が出てきて、混乱が起きました。そのまま日本は敗戦を迎え、大政翼賛会も新しい組織もすべて消えていったのです。
後継組織とその役割
大政翼賛会が解散したあとは、代わりに国民義勇隊が作られました。これは、戦争が日本本土にまで迫ってきたときに「国民総動員で戦おう!」という目的でつくられた組織です。
でも、アメリカ軍が上陸する前に日本は降伏したので、実際に本格的な活動をすることはありませんでした。
さらに、大政翼賛会の末端組織だった「隣組(となりぐみ)」や「町内会」などは、戦後も形を変えて地域社会に残りました。つまり、戦時体制を支えた仕組みが、戦後の日本社会の中にも部分的に引き継がれていったのです。
日本の戦争史に与えた影響
大政翼賛会が日本の歴史に与えた影響はとても大きいです。
一つは、「国民運動という形で国を動かす仕組み」ができたこと。これは戦後の民主主義社会とは逆の方向に進んでいました。みんなが自由に意見を言える社会を作るには、「大政翼賛会のような仕組みではダメだ」という反省が強く残りました。
そのため、戦後に制定された日本国憲法では「結社の自由」や「表現の自由」がしっかりと守られるようにされています。
また、大政翼賛会のように国民を一つにまとめることの「便利さ」と「危うさ」の両方を、今でも私たちは学び続ける必要があります。
総括:大政翼賛会とは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 大政翼賛会とは
1940年に設立された、日本全体を戦争体制に統一するための組織。 - 設立の目的
戦争に勝つために国民・政党・団体を一つにまとめようとした(新体制運動)。 - 近衛文麿の役割
総理大臣であり大政翼賛会の総裁。理想を掲げたがリーダーシップ不足で混乱。 - 組織の構成
全国に支部を置き、町内会や隣組などで国民を細かく管理した。 - 戦時体制との関係
労働者や学校も統制し、国全体を戦争に向けた体制に整備した。 - メリット
政策の決定がスムーズになり、戦争遂行の効率が上がった。 - デメリット
反対意見が許されず、自由が制限され独裁的な政治体制に。 - 解散の経緯
終戦直前に「国民義勇隊」に移行するも混乱。日本の敗戦と共に消滅。 - 後継組織と影響
隣組や町内会は戦後も地域組織として一部残る。 - 歴史的な教訓
国民統制の危うさを学び、戦後は「自由と民主主義」が重視されるようになった。