今日は「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」について、子どもたちにもスッキリわかるように解説していきます!
この事件は、平安時代の日本にとってとても大きな危機でした。
「刀伊って誰?」
「どうして日本が襲われたの?」
「どうやって撃退したの?」
そんな疑問に答えながら、歴史の中でも重要なポイントをわかりやすく伝えていきます。テストにもよく出る内容なので、ぜひ最後までチェックしてください!
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刀伊の入寇をわかりやすく解説!なぜ起きた?
刀伊の入寇は、1019年に起きた日本初の本格的な外敵襲来事件です。このとき、外国の武装勢力が対馬や壱岐、そして九州北部に攻めこんできたのです。
ここでは、事件の概要や背景、登場人物、朝廷の対応などをわかりやすく見ていきましょう。
刀伊の入寇とは?1019年に起きた日本初の大規模な外敵襲来事件
刀伊の入寇とは、平安時代中期の1019年に起きた、日本初の大規模な外国勢力による襲撃事件です。
「刀伊(とい)」とは、朝鮮半島の北、満州(今の中国東北部)に住んでいた「女真族(じょしんぞく)」のことです。この刀伊の一団は、海を越えて日本の対馬や壱岐、そして九州北部へと攻めてきました。
彼らは村を焼き、人々を殺し、大勢の日本人を連れ去りました。その数、なんと1300人近くにもなるといわれています。当時の日本では、これほど大規模な外敵の侵入は初めてのことでした。つまり、日本にとっては「未曾有の危機」だったのです。
刀伊(とうい)とは誰?女真族と呼ばれる異民族の正体
刀伊とは、ツングース系の「女真族(じょしんぞく)」という民族です。
彼らは中国の東北地方、つまり満州地方に住んでいた人たちで、のちに「金(きん)」という国を建てることになる民族です。
当時は、遼(りょう)という国の支配を受けながらも、半ば独立したような存在で、海賊まがいのことをする一団もいたようです。朝鮮半島にあった高麗(こうらい)では、この女真族を「刀伊(とうい)」と呼んでいました。その呼び名が、日本にもそのまま伝わったというわけです。
彼らの襲撃は、国家の命令というより、略奪目的の「海賊行為」に近いものでした。
なぜ襲ってきた?刀伊の入寇の目的は略奪と拉致だった
刀伊たちの目的は、主に「略奪」と「人さらい」だったと考えられています。
対馬では村を襲い、36人を殺して346人を連れ去り、壱岐ではさらに148人が殺され、239人が拉致されました。馬や牛、家畜なども盗まれており、完全に「物と人を奪う」ことが目的だったのです。
つまり、国を征服するための侵略ではなく、生活のための「海賊行為」だったということです。それでも、村々は焼かれ、国司までもが殺されるなど、日本にとってはとても悲惨な事件でした。
被害の規模が悲惨すぎる!対馬・壱岐での惨劇
刀伊の襲撃で最も大きな被害を受けたのが、対馬と壱岐の2つの島です。
対馬では36人が殺され、346人が連れ去られました。壱岐ではさらにひどく、148人が殺され、239人が連れ去られています。壱岐の国司である藤原理忠(ふじわらのまさただ)も、抵抗の末に殺されてしまいました。
島のほぼすべてが襲撃を受け、生き残った人はわずかだったとも言われます。
このように、刀伊の入寇は「単なる海賊被害」とは言い切れないほど、日本の人々に大きな傷を残したのです。
都と大宰府の対応の違いが明暗を分けた
この大事件に対して、朝廷(都)はどう対応したのかというと…実はほとんど何もしませんでした。
当時の通信手段では、現地から都への情報伝達に10日以上もかかっていたため、都が事件を知った時にはすでにほぼ終わっていたのです。
一方で、現地・九州を守っていた大宰府では、大宰権帥(だざいのごんのそち)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)がすぐに兵を集めて防衛体制を整え、戦いに臨みました。この差が、日本の命運を分けたとも言えます。
刀伊の入寇を分かりやすく:撃退とその後の影響
刀伊の入寇は、ただの事件にとどまらず、その後の日本社会にも大きな影響を与えました。ここからは、事件の後半戦──どうやって撃退したのか?その後の外交や歴史の流れにどんな影響があったのか──を詳しく見ていきましょう。
撃退の立役者・藤原隆家とは
刀伊の入寇を食い止めた最大の功労者は、藤原隆家(ふじわらのたかいえ)という人物です。彼は藤原道長のライバルとして知られた藤原道隆の息子で、本来は中央政界で活躍すべき名門出身でした。
しかし、とある事件で花山法皇を弓で射るというとんでもない騒動を起こし、都を追われて大宰府に左遷されてしまったのです。ところが、この“暴れん坊”が、いざという時には抜群のリーダーシップを発揮します。現地で兵を集め、指揮をとり、自ら最前線に立って戦ったのです。
都の公卿たちがのんびりしている中、彼のような地方の武士が日本を守ったというのは、歴史の大きな転換点でした。
どこでどう戦った?戦闘の流れを時系列で
刀伊の入寇は、数日間で九州各地を襲撃していきました。まず3月28日、刀伊の兵が対馬に襲来。続いて壱岐を襲撃し、大勢の被害者を出しました。そして、4月7日には筑前国(今の福岡)に上陸し、怡土郡、志摩郡、早良郡などを次々と荒らしました。
4月8日、隆家は能古島の南にある警固所に自ら赴き、現地の兵と合流して守りを固めます。4月9日には刀伊軍が博多に襲来しますが、平為賢らの活躍で撃退。さらに、4月12日には志摩郡船越津で本格的な戦闘となり、刀伊軍は敗走します。
最後に、4月13日、肥前国松浦郡に現れた刀伊軍を源知が退け、ようやく戦いは終結しました。わずか2週間ほどの出来事でしたが、日本史に大きく残る戦いでした。
日本人捕虜はどうなった?高麗による救助と返還のドラマ
刀伊に連れ去られた約1300人の日本人のうち、運よく助かった人もいました。
この救出に大きく関わったのが、朝鮮半島にあった高麗王朝です。
高麗は、日本を襲った刀伊軍の一部を自国でも取り締まっており、その過程で日本人捕虜259人を救出します。その人たちは金海府という場所に集められ、食事や衣類が与えられ、日本に返されました。
中には、対馬の役人・長岑諸近(ながみねもろちか)という人物が、高麗に渡って家族の行方を探し、捕虜の女性たちと共に帰国するというエピソードも残っています。
こうした出来事は、当時の東アジアにおける外交や人道的対応の大切さを教えてくれる貴重な事例です。
刀伊の入寇が与えた影響:武士の台頭と鎌倉時代への布石
この事件をきっかけに、日本国内では「朝廷は頼りにならない」「いざというときに動くのは地方の武士だ」という意識が強くなっていきました。それまで、政治の中心は貴族たちでしたが、刀伊の入寇を通じて武士たちの評価が一気に高まります。
藤原隆家のように、現場で指揮をとって戦う武士の姿は、人々にとって信頼の象徴となりました。そして、この流れは後に平清盛、源頼朝と続き、ついには武士による鎌倉幕府の成立へとつながっていくのです。
刀伊の入寇は、単なる事件ではなく、日本の政治構造の変化を促す大きなきっかけだったのです。
刀伊の入寇と関連する重要用語とポイント
ここで、刀伊の入寇に関連する重要な用語やテストに出やすいポイントをまとめておきましょう。
- 刀伊(とうい) … 女真族のこと。ツングース系民族。
- 藤原隆家(ふじわらのたかいえ) … 刀伊の入寇を撃退した大宰権帥。元・中央政界の人。
- 大宰府(だざいふ) … 九州の防衛拠点。今回の戦いの指揮本部。
- 拉致被害者 … 対馬・壱岐を中心に、1300人近くが連れ去られた。
- 高麗(こうらい)の対応 … 日本人捕虜を救出・返還。友好姿勢が見られた。
また、他の関連事件としては「白村江の戦い」「元寇」などとの比較もよく出ます。「外敵からの襲来とその対応」がテーマの場合は、あわせて押さえておくとよいですね。
総括:刀伊の入寇をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 刀伊の入寇とは:1019年、女真族(刀伊)が日本の対馬・壱岐・九州北部を襲撃した外敵襲来事件。
- 刀伊(とうい)の正体:中国東北部のツングース系民族「女真族」で、海賊化した一派が襲撃。
- 襲撃の目的:略奪と拉致。日本人約1300人が連れ去られ、多数が殺害された。
- 被害の実態:対馬・壱岐は壊滅状態。国司も殺害され、民衆の被害は甚大。
- 朝廷と現地の対応:都は無策だったが、大宰府の藤原隆家が現地で迅速に反撃・撃退。
- 藤原隆家の活躍:中央から左遷されたが、現地で武士団を指揮し防衛の中心人物となった。
- 戦闘の流れ:対馬→壱岐→九州北部と移動。4月8日~13日で撃退に成功。
- 捕虜のその後:高麗王朝が259人を救出し、日本に送り返した。外交的にも注目される対応。
- 歴史への影響:武士の重要性が認識され、後の武家政権(鎌倉時代)への道が開かれた。
- テスト対策用語:「刀伊」「藤原隆家」「大宰府」「女真族」「高麗の対応」などが重要ポイント。