みなさん、戦国時代に「三河武士の鑑(かがみ)」と呼ばれた武将がいたことを知っていますか? その人物こそ、徳川家康の忠臣鳥居元忠(とりい もとただ)です。
彼は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで、わずか1,800人の兵とともに西軍4万人を相手に奮戦しました。そして、最後の瞬間まで忠誠を尽くし、自ら命を絶ちました。この壮絶な戦いの跡は、今も「血天井(ちてんじょう)」として残されています。
今回は、鳥居元忠の最期をわかりやすく解説し、伏見城での戦いの様子や血天井の秘密についても詳しく紹介します。
鳥居元忠の最期とは?伏見城の戦いと壮絶な結末

鳥居元忠は、関ヶ原の戦いの前哨戦である「伏見城の戦い」で壮絶な最期を迎えました。わずか1800人の兵で4万人の西軍を迎え撃ち、13日間戦い続けた彼の戦いは、日本史においても屈指の忠義の物語として語り継がれています。
では、その戦いの詳細を見ていきましょう。
鳥居元忠の最期とは?関ヶ原前夜に散った忠臣の物語
鳥居元忠の最期は、1600年(慶長5年)の伏見城の戦いで迎えました。この戦いは、天下分け目の関ヶ原の戦いに先立つ重要な戦いであり、元忠は「徳川のために命を捧げる」覚悟で戦いました。
伏見城には約1,800人の兵がいましたが、敵である西軍は約4万人という圧倒的な大軍でした。元忠は城を守り続けましたが、戦いは13日間にもおよび、ついに城は落ちました。そして、最後の瞬間まで戦い抜いた元忠は、自害して果てたのです。
彼の忠誠心は後世に語り継がれ、今もなお「三河武士の鑑」と称えられています。
なぜ鳥居元忠は伏見城で戦うことを選んだのか?
鳥居元忠が伏見城で戦った理由は、徳川家康のために時間を稼ぐことでした。
関ヶ原の戦いの前、徳川家康は東北の上杉景勝を討伐するために軍を率いて江戸を出発していました。その隙を狙って、石田三成が挙兵し、西軍を結成したのです。家康の不在の間、伏見城は西軍の標的になりました。
家康は出陣前に元忠に城の守備を任せました。「伏見城を死守し、できるだけ長く西軍を引き止めよ」と命じたのです。元忠はこれを受けて、「伏見は私ひとりで十分守れます」と答え、覚悟を決めました。
つまり、元忠は自らの命と引き換えに、西軍の進軍を遅らせ、家康の帰還までの時間を稼ぐという大役を果たしたのです。
伏見城の戦いでの鳥居元忠の戦術とその影響
伏見城は山の上に築かれた堅固な城で、城壁や櫓(やぐら)が多く配置されていました。元忠はその地形を活かし、城に立てこもりながら戦う「籠城戦(ろうじょうせん)」を選びました。
敵の大軍を前にしても、元忠は巧みな戦術を駆使しました。城内に火矢や石を用意し、敵が攻め込んできたら一斉に攻撃するという作戦を立てたのです。また、城の門を強固に閉ざし、少数の兵で大軍を相手に持ちこたえました。
しかし、西軍も次第に戦い方を変えました。西軍の武将・長束正家(なつかまさいえ)は、城内にいた甲賀忍者(こうがにんじゃ)たちに密かに手紙を送り、「城を焼けば命を助ける」と持ちかけたのです。裏切った甲賀忍者たちは城に火を放ち、伏見城は炎に包まれました。
こうして、元忠の籠城戦は終わりを迎えました。しかし、この戦いが13日間も続いたことで、家康は西軍の動きを知り、戦いの準備を整えることができました。伏見城の戦いは、関ヶ原の戦いの勝敗を左右する重要な戦いだったのです。
鳥居元忠の最期の瞬間:自害とその理由
伏見城が炎に包まれ、ついに城内に西軍の兵士がなだれ込みました。元忠は部下たちとともに最後の戦いに挑みましたが、ついに力尽きました。
このとき、西軍の雑賀衆(さいかしゅう)の武将・鈴木重朝(すずきしげとも)が元忠に迫ります。しかし、元忠は最後まで自らの誇りを貫きました。
「徳川の忠臣として、敵に捕らえられるわけにはいかない」
そう言い残し、元忠は腹を切って自害しました。その後、重朝が元忠の首を取ったとされています。
彼の死は徳川家康に深い衝撃を与えました。そして、家康は元忠の忠誠を称え、後に彼の功績を讃えるための神社を建立しました。
鳥居元忠の最期が関ヶ原の戦いに与えた影響
鳥居元忠の最期は、関ヶ原の戦いに大きな影響を与えました。
まず、伏見城での13日間の抵抗により、西軍の進軍が遅れました。その間に家康は兵を集め、関ヶ原の戦いの準備を整えることができました。
また、この戦いのニュースが全国に広がり、「徳川軍は忠誠心が強い」という印象を与えました。これが東軍(徳川方)への支持を集める要因の一つとなり、関ヶ原の戦いでは徳川家康が勝利を収めました。
さらに、元忠の忠義を称え、彼の血で染まった城の床板は「血天井」として残されました。これは、彼と部下たちの戦いの証として、今も京都の寺院で見ることができます。
このように、鳥居元忠の最期は徳川家康の天下統一を後押しする重要な出来事だったのです。
鳥居元忠の最期:死因と血天井の秘密

伏見城で命を落とした鳥居元忠の死因とは何だったのでしょうか?そして、彼の戦いの跡が今も京都の寺院に残る「血天井」として語り継がれているのはなぜでしょうか?
彼の死の真相と、それが現代に残る理由について詳しく解説していきます。
鳥居元忠の死因は何だったのか?
鳥居元忠の死因は、伏見城での激戦の末の自害でした。
1600年8月1日、伏見城はついに西軍の手に落ちました。元忠は最後まで戦いましたが、すでに多くの部下を失い、援軍も望めない状況でした。そして、城に火が放たれたことで、逃げ場を失いました。
彼の目の前に迫っていたのは、西軍の猛将・鈴木重朝(雑賀衆)です。元忠は武士としての誇りを守るため、敵に捕まることなく切腹を決意しました。そして、見事な最期を遂げたのです。
このとき、彼の忠誠心と勇敢な戦いぶりを見た重朝は、すぐに元忠の首を取りました。後に、元忠の首は京橋に晒されましたが、京都の町人・佐野四郎右衛門が密かに回収し、供養したと伝えられています。
こうして、鳥居元忠は三河武士の誇りをかけた最後の戦いを終えました。
血天井とは?伏見城の戦いの悲劇を伝える遺構
鳥居元忠とその家臣たちの血が染み込んだ床板は、後に「血天井」として残されました。
伏見城が落城したあと、その場にあった遺体はしばらく放置されました。そのため、床板には大量の血が染み込んでしまい、いくら洗っても消えなかったといいます。
これを見た徳川家康は、「忠臣たちの魂を弔うために」と考え、その床板を京都の寺院の天井として残すことにしました。こうして、いくつかの寺院に「血天井」が伝えられることになったのです。
血天井には、手形や足跡がはっきりと残っているものもあります。これらを見ると、伏見城の戦いがどれほど壮絶だったのかを感じることができます。
血天井が見られる京都の寺院とその歴史
現在、京都には血天井が残されている寺院が6ヶ所あります。
①養源院(ようげんいん)
- 徳川家康が建立した寺院で、最も有名な血天井がある
- 伏見城の床板が天井に使われており、元忠たちの供養のために設置
- 天井には手形や足跡がくっきり残っている
②源光庵(げんこうあん)
- 「悟りの窓」「迷いの窓」で有名な寺院
- 天井に伏見城の床板が使われている
- 静寂な空間で、戦国時代の歴史を感じることができる
③正伝寺(しょうでんじ)
- 美しい枯山水庭園で有名な寺院
- 伏見城の血天井が残っており、戦国の歴史を伝える
④宝泉院(ほうせんいん)
- 伏見城の血天井の他、見事な庭園もある
- 竹林に囲まれた静かな空間で、歴史と自然を楽しめる
⑤瑞雲院(ずいうんいん)
- 伏見城で亡くなった人々を弔うために建立
- 血天井には足跡や手形がはっきり残っている
⑥興聖寺(こうしょうじ)(宇治市)
- 伏見城の床板を使った血天井がある
- 宇治の自然に囲まれた寺院で、静かな雰囲気が魅力
これらの寺院では、伏見城の戦いの悲劇を今に伝える「血の証拠」を目の当たりにすることができます。
鳥居元忠の遺品と墓所:その忠誠心はどこに刻まれているのか?
鳥居元忠の遺品は、現代にも残されています。
①鎧(よろい):「紺糸素縁縅二枚胴具足」
- 元忠が伏見城の戦いで着用していたと伝わる鎧
- 西軍の鈴木重朝に奪われたが、後に元忠の子・忠政に形見として返される
- 現在は大阪城天守閣に所蔵されている
②墓所:「京都・百万遍知恩寺」「福島・長源寺」
- 知恩寺(京都市)に墓があり、元忠の忠誠を称える碑が建つ
- 福島県いわき市の長源寺には、鳥居家の菩提寺として元忠の墓が残る
③血染めの畳:「畳塚」
- 元忠の血で染まった畳が、江戸城の伏見櫓(やぐら)に掲げられていた
- 明治維新後、畳は鳥居家に返還され、壬生城内の「精忠神社」に埋納された
こうした遺品は、鳥居元忠の忠誠心がどれほど強かったのかを伝える貴重な歴史的資料です。
鳥居元忠の最期が現代に語り継がれる理由
なぜ鳥居元忠の最期は、400年以上たった今も語り継がれているのでしょうか?
①大河ドラマ『どうする家康』での描写
2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、鳥居元忠の伏見城の戦いが描かれ、多くの人が彼の忠誠心に感動しました。特に、**「ようやく自分の番が来た」**というセリフが印象的でした。
②戦国武将の忠誠の象徴
鳥居元忠は、**「忠臣は二君に仕えず」**という言葉を体現した武将でした。彼の忠誠心は、戦国時代だけでなく、現代の日本人にも「誠実さ」「信義」を大切にすることの大切さを伝えています。
③血天井という歴史遺産
伏見城の戦いの証拠である血天井が、今も京都の寺院に残っていることも、彼の物語を後世に伝える大きな要因です。
このように、鳥居元忠の最期はただの歴史上の出来事ではなく、日本の武士道の精神を現代に伝える貴重な歴史的な教訓なのです。
総括:鳥居元忠の最期を分かりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 鳥居元忠の最期とは?伏見城の戦いと壮絶な結末
- 鳥居元忠は1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで最期を迎えた。
- 1,800人の兵で西軍4万人と13日間戦い抜き、最終的に自害した。
- 彼の忠義は「三河武士の鑑」として称えられている。
2. なぜ鳥居元忠は伏見城で戦うことを選んだのか?
- 家康が上杉景勝討伐で江戸を離れた隙を狙い、石田三成が挙兵。
- 家康は元忠に伏見城を守るよう命じ、西軍の進軍を遅らせる役割を託した。
- 元忠は**「伏見城は自分一人で十分守れる」と覚悟を決めた。**
3. 伏見城の戦いでの鳥居元忠の戦術とその影響
- 伏見城は山の上に築かれた堅固な城であり、元忠は「籠城戦」を選択。
- 石や火矢を駆使し、少数の兵で西軍を迎え撃つ作戦を展開した。
- しかし、西軍の長束正家が甲賀忍者を買収し、城内に火を放たれる。
- 13日間の抵抗が関ヶ原の戦いの勝敗を左右した。
4. 鳥居元忠の最期の瞬間:自害とその理由
- 伏見城が炎に包まれる中、元忠は最後の戦いを挑む。
- 敵に捕らえられぬため、自ら腹を切って自害。
- 彼の首は京橋に晒されたが、町人の佐野四郎右衛門が密かに回収し供養した。
5. 鳥居元忠の最期が関ヶ原の戦いに与えた影響
- 伏見城での13日間の抵抗が西軍の進軍を遅らせ、家康の勝利を助けた。
- 「徳川軍の忠誠心の強さ」が全国に広まり、東軍への支持が増加。
- 彼の血で染まった床板が「血天井」として今も京都の寺院に残る。
6. 鳥居元忠の死因は何だったのか?
- 伏見城での戦いの末、切腹して果てた。
- 西軍の雑賀衆・鈴木重朝によって首を取られる。
- 彼の死後、家康はその忠義を称え、神社を建立した。
7. 血天井とは?伏見城の戦いの悲劇を伝える遺構
- 伏見城の床板に染み込んだ血が落ちず、供養のため天井に使用された。
- 現在、京都の6つの寺院に血天井が残る。(養源院・源光庵・正伝寺など)
- 血天井には元忠や家臣の手形や足跡が残されている。
8. 鳥居元忠の遺品と墓所
- 遺品:「紺糸素縁縅二枚胴具足」(鎧)→ 現在は大阪城天守閣に保管。
- 墓所:「京都・百万遍知恩寺」「福島・長源寺」に残る。
- 「畳塚」:伏見城の血染めの畳が埋納されている。