今回は昭和の日本を大きく変えた「五・一五事件(ご・いちごじけん)」について、わかりやすく解説していきます。

この事件は、当時の内閣総理大臣・犬養毅(いぬかいつよし)が暗殺され、日本の政治の流れが大きく変わったきっかけとなったできごとです。

なぜ事件が起こったのか?
なぜ犬養毅は命を狙われたのか?
そして事件の後、日本はどう変わっていったのか?

それでは、一緒に見ていきましょう!

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五・一五事件をわかりやすく!犬養毅はなぜ殺された?

五・一五事件とは何か、なぜ起きたのか、どんなふうに進んでいったのかを、まずはわかりやすく整理していきましょう。

五・一五事件とは?犬養毅首相が暗殺された昭和のクーデター

五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた日本の大事件です。この日、若い海軍の将校たちが中心となって、当時の総理大臣・犬養毅を銃で撃ち殺しました。

事件には、海軍だけでなく、陸軍の一部や、農村の青年たちも関わっていました。彼らは政治に不満を持ち、「今の日本を変えたい!」という思いから暴力で訴えようとしたのです。

この事件は単なる暗殺ではなく、日本の「政党政治」が終わり、代わりに軍人たちの力が強くなっていく大きなきっかけになりました。つまり、日本の政治がガラッと変わる第一歩だったのです。

なぜ起きたのか?経済不況と政治不信

五・一五事件の背景には、当時の日本がとても苦しい状況にあったことが関係しています。世界では「世界恐慌(せかいきょうこう)」という大きな不景気が起きていて、日本もその影響で「昭和恐慌」に見舞われました。

とくに農村では、お米の値段が下がり、絹を作るための繭(まゆ)の値段も下がったことで、農家の人たちがとても困っていました。食べるものも足りず、学校にお弁当を持っていけない子どもたちがたくさんいたのです。

その一方で、政治家たちはお金持ちの人たちと結びついて、自分たちの利益ばかりを考えているように見えました。これに怒った若い軍人たちが、「政治家は国のことを考えていない!自分たちが国を正さなければ!」と行動を起こしたのが、五・一五事件なのです。

なぜ殺されたのか?軍部にとって“邪魔な存在”だった理由

犬養毅首相は、「政党政治」を大切にしていた政治家でした。「話し合いで物ごとを解決しよう」という姿勢を貫いていたため、軍部のように「力で物ごとを進めたい」と考える人たちからは邪魔な存在と思われていました。

また、犬養首相は、当時の中国・満州での軍の動きにも慎重でした。軍部がどんどん戦争を広げていくのを止めようとしたことも、反感を買う原因となりました。

そのうえ、ロンドン海軍軍縮条約という、海軍の船の数を減らす国際的な約束に賛成した政府に対して、海軍の中では「国を弱くする!」と不満が高まっていました。

犬養毅はその象徴のような存在とされ、最終的に標的になってしまったのです。

当日の流れをわかりやすく!襲撃の手順と首相官邸の様子

1932年5月15日の夕方、犬養毅首相がいる官邸に、9人の海軍将校が銃を持って押し入りました。将校たちは官邸の中で巡査を撃ち、食堂にいた犬養首相を見つけます。

そのとき、犬養毅は落ち着いた様子で「まず話をしようじゃないか」と語りかけました。これが有名な「話せばわかる」という言葉です。しかし、他の将校が「問答無用!撃て!」と叫び、銃を発砲。犬養首相は腹と頭を撃たれ、その日の夜に亡くなってしまいました。

同時に、ほかのグループも警視庁や政党の建物、銀行などを襲撃しようとしましたが、計画は中途半端に終わってしまいました。変電所を襲ったグループは、どうやって電気を止めたらよいかわからず、作戦は失敗に終わります。

実行犯は誰?青年将校や民間人の思想とその後

この事件を起こした中心メンバーは、海軍の若い将校たちです。代表的な人物に、海軍中尉の三上卓(みかみ たかし)や、古賀清志(こが きよし)などがいます。彼らは「昭和維新(しょうわいしん)」といって、日本をもう一度立て直すべきだと考えていました。

また、民間からも「愛郷塾(あいきょうじゅく)」という農村青年団体のメンバーが参加していて、彼らも「腐った政治を正したい」という気持ちを持っていました。

事件の後、将校たちは逮捕されましたが、多くの国民が「彼らは正しいことをした」と思っていたため、厳しい処罰は受けませんでした。懲役15年などの判決を受けたものの、多くは数年後に釈放され、普通の生活に戻っていったのです。

五・一五事件の影響をわかりやすく!その後の日本の変化

五・一五事件は、単に犬養毅首相が暗殺されたというだけでなく、日本の政治や社会、文化に大きな影響を与えた事件です。ここからは、その変化や学べる教訓を見ていきましょう。

政治的影響とは?立憲政治の終わりと軍部の台頭

五・一五事件の最大の影響は、日本の「立憲政治(話し合いを大事にする政治)」が終わりを迎えたことです。事件によって政党が力を失い、軍部の影響力がどんどん強くなっていきました。

犬養毅の後に首相となったのは、元海軍大将の斎藤実(さいとうまこと)でした。彼は「政党に属さない」内閣、つまり「挙国一致内閣(きょこくいっちないかく)」として、軍部や官僚の意見を多く取り入れる政府を作りました。

この体制のもとで、軍は政治の中心に入り込み、やがて戦争へと突き進む道が開かれていきます。つまり、五・一五事件は「軍国主義」のスタート地点でもあったのです。

世論とマスコミは事件をどう見た?

五・一五事件が起きたとき、新聞やラジオは、実行犯である青年将校たちに同情的な態度をとりました。「義挙(ぎきょ)」――つまり「正しいことをするための行動」として扱ったのです。

これは当時、多くの国民が政治家たちに不信感を持っていたことが影響しています。「悪い政治を倒してくれた」という見方が広まり、実行犯をかばう声が増えたのです。

また、新聞の中には「助命嘆願(じょめいたんがん)」といって、犯人をゆるしてあげてほしいと訴える記事までありました。こうした空気の中で、犯人たちは重い罰を受けずに済んだのです。

事件後は政府による「報道規制(ほうどうきせい)」も強まり、軍に都合のいい情報だけが流れるようになっていきました。これがのちの戦時中の「言論統制(げんろんとうせい)」へとつながっていきます。

二・二六事件の違いとは?両者の共通点と相違点

五・一五事件と、4年後に起きた二・二六事件(に・にろくじけん)は、どちらも軍の若手が中心となって引き起こしたクーデターです。しかし、いくつか違いもあります。

共通点

  • 政治の腐敗に不満を持った若い軍人たちが行動を起こした
  • 犬養毅や高橋是清(たかはしこれきよ)など、政府の要人が殺された
  • 立憲政治が終わり、軍の力が強くなった

違い

  • 五・一五事件は海軍の将校が中心でしたが、二・二六事件は陸軍の将校たちによるもの。
  • 五・一五事件は計画が未熟で短時間で終わりましたが、二・二六事件は数日間にわたって東京を占拠するなど、大きな動きとなりました。
  • 二・二六事件では政府が厳しく対応し、多くの実行犯が処刑されましたが、五・一五事件の犯人たちは軽い刑で済んでいます。

このように、五・一五事件が軍の力を増すきっかけとなり、次の二・二六事件へとつながっていったのです。

文化に与えた影響とは?文学やドラマに描かれた事件の姿

五・一五事件は、後の時代の作家や映像作品にも大きな影響を与えました。とくに有名なのが、作家・三島由紀夫(みしまゆきお)が書いた『憂国(ゆうこく)』という短編小説です。

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この作品では、五・一五事件や二・二六事件に共感する主人公が登場し、「国のために命を捧げることの意味」を問いかけています。

また、ドラマや映画でも五・一五事件は何度も取り上げられています。特にNHKのドラマ『坂の上の雲』などでは、当時の政治家や軍人の葛藤が描かれていて、事件の背景を知るうえで参考になります。

こうした作品を通して、私たちは事件の意味や時代の空気を感じ取り、歴史を自分のこととして考えることができます。

五・一五事件の教訓

最後に、私たちが五・一五事件から何を学べるかを考えてみましょう。

この事件は、国民の不満や政治の腐敗が、軍の力によって大きな暴力となり、立憲政治を終わらせてしまったという教訓を残しています。

「話せばわかる」と言った犬養毅の姿勢は、民主主義における「対話」の大切さを今に伝えてくれます。一方で、「暴力で物ごとを解決しようとすると、取り返しのつかない結果になる」ということも示しています。

現代の日本は平和で、選挙でリーダーを選べる民主主義の国です。しかし、その自由は簡単に失われてしまうこともあるのです。だからこそ、歴史を学び、何が起きたのかを知ることがとても大切なのです。

総括:五・一五事件をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 五・一五事件は1932年に起きたクーデター事件
     → 若い海軍将校らが首相・犬養毅を暗殺した。
  • 事件の背景には経済不況と政治不信があった
     → 昭和恐慌で農村が困窮、政治家への不満が高まっていた。
  • 犬養毅は軍にとって邪魔な存在だった
     → 話し合い重視の姿勢や軍縮条約への賛成が反感を買った。
  • 事件当日は首相官邸が襲撃され、犬養毅が銃撃された
     → 犬養は「話せばわかる」と語ったが撃たれ死亡した。
  • 実行犯は青年将校や民間の農村青年団体のメンバー
     → 厳罰を受けず、数年後には多くが釈放された。
  • 事件により立憲政治が終わり、軍部の力が強まった
     → 政党内閣が終わり、軍中心の政治へと移行した。
  • 世論やマスコミは事件を“義挙”とする見方をした
     → 犯人に同情的な報道が多く、助命嘆願も行われた。
  • 二・二六事件との違いもあるが、軍の暴走の始まりだった
     → 五・一五事件が後の軍国主義へとつながっていった。
  • 文学や映像作品にも影響を与えた事件だった
     → 三島由紀夫の『憂国』などで描かれ、現代にも語り継がれている。
  • 事件の教訓は「対話の大切さ」と「暴力の危険性」
     → 民主主義を守るには歴史を知り、学ぶ姿勢が重要。