今回は「二・二六事件(ににろくじけん)」について、子どもでも理解できるように、できるだけわかりやすく解説していきます。

この事件は、日本の歴史の中でもとても大事なできごとのひとつ。クーデター(国家への反乱)が実際に起こっためずらしい事件なんです。

「なぜ起きたの?」
「誰が殺されたの?」
「どうして天皇が怒ったの?」

など、よくある疑問に一つずつ答えていきますので、安心してくださいね!

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二・二六事件をわかりやすく解説!原因から影響まで

二・二六事件は、昭和初期に起きた日本史上まれに見るクーデター事件です。ここでは、「なぜ起きたのか」「どう終わったのか」「何に影響したのか」まで、流れをしっかり解説していきます。

二・二六事件とは?昭和初期に起きた軍部クーデター

二・二六事件とは、1936年2月26日に起こった、陸軍の青年将校たちによるクーデターです。場所は東京、首都のど真ん中で行われました。

このとき、約1,500人の兵士を率いた皇道派(こうどうは)というグループの若い軍人たちが、政府の要人を襲撃し、首相官邸や警視庁などを占拠しました。

事件の目的は「昭和維新(しょうわいしん)」という理想の国家をつくること。もっと分かりやすく言うと、「天皇中心のまっとうな政治をやりたい」という思いから、腐敗した政治家たちを追い出そうとしたのです。

でも、この行動は完全に間違っていました。最終的に彼らのクーデターは失敗し、事件はわずか4日間で終わりました。

世界恐慌・農村疲弊:軍部の不満が重なった理由

二・二六事件が起きた背景には、たくさんの問題が重なっていました。

まず、世界全体が不景気に苦しんでいた「世界恐慌(せかいきょうこう)」の影響です。日本も例外ではなく、特に農村では食べ物を買うお金もないほどの貧しさに見舞われていました。

そんななか、農村出身の青年将校たちは、実家や故郷の貧しい現実に胸を痛めていたのです。政治家や財閥(ざいばつ=お金持ちのグループ)が私利私欲に走っていることに怒りを覚えていました。

さらに、当時の陸軍には「皇道派」と「統制派(とうせいは)」という2つのグループがありました。皇道派は天皇親政を理想とし、統制派は現実的な方法で政治に関わろうとしていたのです。

この派閥争いも、事件が起きた大きな原因になっています。

なぜ昭和天皇は反乱に激怒したのか?討伐命令に至る真相

青年将校たちは「天皇のために立ち上がる」と言っていましたが、実はその考えは大きな間違いだったんです。昭和天皇はこのクーデターに対して、ものすごく怒りました。

「自分の名を使って反乱を起こすなんて、絶対に許せない!」と考え、近衛師団(このえしだん)という天皇の警護部隊に討伐を命じました。特に、事件で殺された高橋是清や斎藤実などは、昭和天皇が信頼していた大事な人たちでした。そのため、感情的にも許せなかったのです。

天皇が自ら「私が出陣する」とまで言い、軍部に強く命令したことで、陸軍上層部も態度を変え、反乱の鎮圧へと動いたのです。

結末は?鎮圧から軍法会議・処刑までの流れ

クーデターは2月26日から始まりましたが、昭和天皇の怒りをきっかけに、29日には鎮圧されることになります。政府は「戒厳令(かいげんれい)」という特別な法律を使って、軍がすべての権限を持つ状態にしました。そして、約24,000人の軍隊が反乱軍を包囲。

最終的に、多くの兵士たちは命令されたまま動いていただけだったため、原隊に戻っていきました。青年将校たちの一部は自決(じけつ)し、残りは投降します。

彼らは軍法会議(ぐんぽうかいぎ)という軍専用の裁判にかけられましたが、その裁判は「非公開・弁護士なし・上告不可」という非常に厳しいものでした。

中心人物17人が死刑となり、事件は3月4日には完全に終わりました。

影響とは?軍国主義台頭とその後の戦争への流れ

二・二六事件がきっかけとなって、日本はどんどん軍の力が強くなる「軍国主義(ぐんこくしゅぎ)」の時代へと突入していきます。クーデターを起こした皇道派は力を失いましたが、代わって統制派が軍の中心となり、政治にもどんどん介入していきました。

事件後すぐにできた広田弘毅内閣では、「軍部大臣現役武官制」が復活します。これは、現役の軍人でなければ大臣になれないという仕組みです。これによって、軍が総理大臣を左右できるようになってしまったのです。

その後、日本は日中戦争(1937年)に突入し、国家総動員法が制定され、やがて太平洋戦争へと進んでいきます。つまり、二・二六事件は日本が戦争へ進む大きな「分かれ道」だったとも言えるのです。

二・二六事件を分かりやすく:殺された人は誰か

ここからは「誰が殺されたのか?」「なぜその人たちが狙われたのか?」を中心に見ていきましょう。

クーデターを起こした青年将校たちは、ただ反乱を起こしたのではなく、「この人たちが日本を悪くしている!」と考えた人物を、実際に襲撃しました。ここからは、そのターゲットとなった人物たちについて、塾長がわかりやすく説明します。

殺されたのは誰?高橋是清・斎藤実・渡辺錠太郎

まず、二・二六事件で命を落とした人物は、以下の3名です。

  • 高橋是清(たかはし これきよ):大蔵大臣
  • 斎藤実(さいとう まこと):内大臣(天皇の相談役)
  • 渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう):陸軍教育総監

彼らは、青年将校たちから「日本を腐らせた張本人」だと見なされていました。

高橋是清は、お金を管理する大蔵大臣として財閥を守っているように見え、怒りの対象になってしまいました。しかも寝室で寝ていたところを襲われ、なんと寝巻き姿のまま銃殺されてしまいます。

斎藤実は、政治の中枢で重要な立場にあり、「天皇の周りで悪政をしている」と疑われました。彼も自宅で襲撃され、その場で命を落とします。渡辺錠太郎は軍の教育を担当していた人物ですが、反皇道派だったため狙われました。こちらも自宅で射殺され、娘が目撃していたと言われています。

このように、クーデターは実際に人の命を奪う、本当に悲惨な事件だったのです。

なぜ岡田啓介は生き延びた?間一髪で逃れた奇跡の理由

岡田啓介(おかだ けいすけ)首相も、もちろん襲撃の対象でした。しかし、なんと彼は生き延びたんです。

理由は「間違われたから」。反乱軍は岡田首相の義理の弟である松尾伝蔵を岡田本人と勘違いして撃ってしまいました。そのため、本物の岡田首相は女中部屋に隠れて、奇跡的に助かったのです。

襲撃から逃れた後、岡田はそのまま官邸に隠れ続け、軍部との連絡を取りながら、静かに情勢を見守っていたとされます。

この「間違いによる生存」は、クーデターの行方に大きな影響を与えました。もし岡田が殺されていたら、クーデターはもっと長引き、事態はさらに悪化していたかもしれません。

襲撃されたけど助かった人物たち

岡田首相以外にも、襲撃されたけど助かった人物がいます。

1人目は鈴木貫太郎(すずき かんたろう)。彼は海軍の偉い人で、天皇に近い立場でもありました。銃撃を受けて重傷を負いましたが、命は取り留めました。後に首相にもなった人です。

もう1人は牧野伸顕(まきの のぶあき)。元老として天皇の相談役をしていましたが、事件が起こる直前に逃げ出すことに成功し、無事でした。

彼らが命を狙われた理由も、やはり「天皇のまわりで悪い政治をしている」と思われていたからです。けれども、天皇自身はこの人たちを信頼していたため、襲撃されたことに激怒したのです。

クーデターを主導した青年将校:安藤輝三・栗原安秀ら

この事件を動かしていたのは、20〜30代の若い将校たちでした。その中でも中心人物は以下の通りです。

  • 安藤輝三(あんどう てるぞう):歩兵大尉
  • 栗原安秀(くりはら やすひで):歩兵中尉

彼らは、「昭和維新」「尊王討奸(そんのうとうかん)」を掲げ、天皇のために悪人を倒すという理想に燃えていました。でも、その行動は完全に暴走でした。天皇に反抗する形になってしまい、最終的には投降し、死刑にされてしまいます。

彼らは軍法会議で、自分たちの信念を語ろうとしましたが、裁判は非公開で行われ、世間にはほとんど伝わりませんでした。

北一輝とは何者だ?青年将校に思想的影響を与えた人物

そしてもう一人、事件の「黒幕」と言われた人物がいます。それが北一輝(きた いっき)です。

彼は政治思想家で、「国家改造」を強く主張していました。著書『日本改造法案大綱』では、天皇中心の国家を作り直すというアイデアが書かれ、青年将校たちに大きな影響を与えました。

北一輝自身は事件の計画に直接関わっていた証拠は少ないのですが、「思想の指導者」として処刑されてしまいます。

彼の考えは、ある意味では戦後の改革(財閥解体や農地解放)にも似ているとも言われており、今でも評価が分かれる人物です。

総括:二・二六事件をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 二・二六事件とは?
    1936年2月26日、東京で陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター。目的は「昭和維新」=天皇中心の政治体制。
  • 事件の背景
    世界恐慌による不景気や農村の貧困、政治腐敗への不満、陸軍内の派閥争い(皇道派vs統制派)が原因。
  • 天皇の怒りと鎮圧
    天皇は「自分のため」と称した反乱に激怒し、軍に鎮圧を命令。事件は4日で収束。
  • クーデターの結末
    反乱軍の一部は自決、他は逮捕。非公開の軍法会議で中心人物17名が死刑。
  • 事件の影響
    統制派が軍の主導権を握り、軍国主義が加速。日中戦争、国家総動員法、太平洋戦争へとつながった。
  • 殺された要人
    ・高橋是清(大蔵大臣)
    ・斎藤実(内大臣)
    ・渡辺錠太郎(陸軍教育総監)
  • 助かった人たち
    ・岡田啓介首相(誤認で生存)
    ・鈴木貫太郎(重傷)
    ・牧野伸顕(逃走)
  • 首謀者の青年将校
    安藤輝三、栗原安秀ら。理想に燃えたが暴走し、処刑された。
  • 思想的指導者・北一輝
    青年将校に大きな影響を与えた思想家。直接関与は不明だが、処刑された。