みなさん、こんにちは!塾長です。
今日は、日本の歴史に大きな影響を与えた「聖武天皇(しょうむてんのう)」の死因について解説します。奈良の大仏を作ったことで有名な聖武天皇ですが、彼の最後は多くの謎に包まれています。
「聖武天皇の死因は何だったの?」
「本当に暗殺されたの?」
「最後はどんな最期を迎えたの?」
このような疑問を持っている人も多いのではないでしょうか?
今回は、そんな聖武天皇の最後について、子供でも分かるように、やさしい言葉で解説していきます!
聖武天皇の死因:本当に暗殺されたのか?

聖武天皇の死因は、歴史の記録にはっきりとは残っていません。しかし、さまざまな説があり、大きく分けて「暗殺説」と「病死説」の2つが有力とされています。さらに、彼が仏教に深く帰依(きえ)していた ことから、 断食や修行が原因で体調を崩した可能性も指摘されています。
では、それぞれの説について詳しく見ていきましょう!
聖武天皇の死因は不明!暗殺説と病死説が存在
聖武天皇は756年6月4日(現在の6月8日)に亡くなりましたが、その死因についての公式な記録は残されていません。
歴史の記録では「崩御(ほうぎょ)」という言葉だけが使われており、これは天皇が亡くなったときに使われる表現です。しかし、病気で亡くなったのか、それとも何者かに殺されたのかは明確にされていません。
このため、後の時代の学者たちは「暗殺されたのでは?」という説を考えるようになりました。特に、当時の政治の状況を考えると、暗殺の可能性は十分にあり得るのです。
暗殺説の根拠!藤原仲麻呂による毒殺説とは?
「暗殺説」の中でも特に有力なのが、「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)による毒殺説」です。
当時の朝廷では、藤原仲麻呂という人物が大きな力を持っていました。仲麻呂は、孝謙天皇(こうけんてんのう)を支えて政治を動かしていましたが、実は聖武天皇の存在を「邪魔」と思っていた可能性があります。
なぜなら、 聖武天皇は仏教を重んじる平和主義者だったのに対し、藤原仲麻呂は政治を思い通りに動かしたい権力者だったからです。
「聖武天皇が生きている限り、自分の思うように政治ができない!」
こう考えた仲麻呂が、毒を使って天皇を暗殺したのではないか?という説が生まれました。しかし、これを証明するはっきりとした証拠は残っていません。
病死説!聖武天皇は病弱だったのか?
一方、「病死説」も有力な説のひとつです。
実は、聖武天皇はもともと体が弱かったと言われています。また、奈良時代には天然痘(てんねんとう)という恐ろしい病気が流行していました。
この天然痘は人から人へうつる病気で、かかると高熱や発疹(ほっしん)が出て、最悪の場合は命を落としてしまうという、とても怖い病気でした。
聖武天皇が亡くなる数年前にも天然痘が大流行し、多くの貴族や役人が亡くなっています。もしかすると、聖武天皇もこの天然痘にかかり、亡くなったのかもしれません。
仏教への傾倒と断食による死?
聖武天皇は、日本で最初に「出家(しゅっけ)」した天皇です。
出家とは、お坊さんになることです。彼は「三宝の奴(さんぼうのやっこ)」つまり「仏教のしもべ」であることを宣言し、すべてを仏教に捧げました。
しかし、その影響で極端な断食(だんじき)や厳しい修行を行っていたのではないか、とも言われています。食事をほとんど取らない生活を続けると、当然体はどんどん弱ってしまいます。
特に、すでに体が弱かった聖武天皇が過酷な修行を続けたことで、衰弱(すいじゃく)して亡くなった可能性もあります。
当時の記録に聖武天皇の死因は記されているのか?
では、聖武天皇の死因について当時の記録には何か書かれているのでしょうか?
代表的な歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、聖武天皇が亡くなったことは記されているものの、 具体的な死因については書かれていません。
また、聖武天皇の遺品は正倉院(しょうそういん)に残されており、当時の衣服や薬も発見されています。しかし、それらを見ても毒殺された証拠や病気で亡くなった記録は確認されていません。
つまり、聖武天皇の死因は未だに謎のままなのです。
聖武天皇の死因:最期とその影響

聖武天皇の死因は未だに明確になっていませんが、その最期はどのようなものだったのでしょうか?また、彼の死が日本の歴史や政治に与えた影響はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、聖武天皇がどのように亡くなったのか、彼の死後に起こった出来事、そして現代の歴史学ではどう考えられているのかを解説します。
聖武天皇の最期の様子!崩御直前に何が起こったのか?
聖武天皇は756年6月4日(現在の6月8日)に奈良の紫微中台(しびちゅうだい) という宮殿で亡くなりました。
しかし、その直前の様子についての詳しい記録はほとんど残っていません。当時の歴史書『続日本紀』には「天皇が崩御された」という記述があるだけで、病状や死因に関する記録はありません。
ただし、亡くなる前に体調が悪化していたという説はあります。実際、聖武天皇は体が弱く、晩年は病気がちだったと言われています。さらに、出家したことで体力が低下していた可能性もあります。
また、一部の研究者は「毒殺された場合、明確な記録を残さないようにしたのでは?」と考えています。権力争いの中で暗殺された可能性もあり、当時の権力者が死因を隠したのかもしれません。
聖武天皇の死後、孝謙天皇と藤原仲麻呂が果たした役割
聖武天皇が亡くなった後、すぐに娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)が皇位を継ぎました。
しかし、実際に政治を動かしていたのは藤原仲麻呂でした。仲麻呂は聖武天皇の死後、さらに権力を強め、孝謙天皇を自分の思い通りに操るようになったのです。
つまり、もし聖武天皇が生きていたら、仲麻呂の権力はここまで強くならなかったかもしれません。そのため、仲麻呂が聖武天皇の死に関与していた可能性も指摘されています。
また、孝謙天皇は父である聖武天皇の仏教政策を引き継ぎ、引き続き仏教を重んじた政治を行いました。しかし、仲麻呂は政治を支配するために、孝謙天皇との対立を深めていきます。
光明皇后の反応!聖武天皇の遺品が正倉院に納められた理由
聖武天皇が亡くなった後、皇后であった光明皇后(こうみょうこうごう)は、彼の遺品を東大寺の正倉院(しょうそういん)に納めました。

光明皇后は、亡き夫・聖武天皇の魂を弔うため、彼の愛用していた品々を大仏に奉納したのです。この正倉院に収められた品々は、今でも「聖武天皇の宝物」として大切に保管されています。
特に、聖武天皇が身につけていた衣服や、使っていた食器、薬なども納められており、彼がどのような生活をしていたのかを知ることができます。
光明皇后のこの行動には、聖武天皇がどれだけ信仰心の強い人だったかを後世に伝えようとする意図があったと考えられます。
聖武天皇の死は日本の仏教政策にどのような影響を与えたのか?
聖武天皇は、「仏教によって国を守る」という考えのもと、全国に国分寺(こくぶんじ)や東大寺(とうだいじ)を建立しました。
彼の死後も、この仏教政策は続きましたが、次の時代になると少しずつ変化していきます。
- 孝謙天皇は父の遺志を継いで仏教政策を続けた
- しかし、藤原仲麻呂が権力を握ると、仏教の影響を抑えようとした
- 平安時代に入ると、新しい仏教の形が生まれ、仏教は貴族文化の一部となった
つまり、聖武天皇が始めた仏教政策は、後の時代に大きな影響を与えたのです。
聖武天皇の死因は本当に暗殺だったのか?現代の歴史学の見解
最後に、現代の歴史学では聖武天皇の死因についてどのように考えられているのか?を見てみましょう。
現在の研究では、暗殺説よりも病死説のほうが有力視されています。その理由としては、以下の点が挙げられます。
- 毒殺の証拠がない
- 当時の記録には、毒殺を示す記述はなく、死因が特定できないだけである。
- 病気で亡くなった可能性が高い
- 聖武天皇はもともと病弱であり、天然痘の流行があったことから、病死の可能性が高い。
- 出家による体調悪化
- 出家して厳しい修行を行い、食事も制限したことで衰弱していった可能性がある。
ただし、暗殺説を完全に否定することはできません。なぜなら、当時の記録が意図的に改ざんされている可能性もあるからです。
つまり、聖武天皇の死因は未だに「歴史の謎」として残っているのです。
総括:聖武天皇の死因は何かまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 聖武天皇の死因は不明
→ 公式な記録には明確な死因が残っていない。 - 死因の有力説は「暗殺説」と「病死説」
→ どちらも可能性があり、証拠が不十分なため決定的ではない。 - 暗殺説の根拠
→ 政治的な対立から、藤原仲麻呂による毒殺の可能性が指摘されている。
→ しかし、毒殺を示す記録はなく、証拠も不足している。 - 病死説の根拠
→ 聖武天皇は体が弱かった。
→ 当時、天然痘が流行しており、それに感染した可能性がある。
→ 出家後の過酷な修行や断食が体調を悪化させた可能性もある。 - 『続日本紀』には死因の詳細な記録なし
→ ただ「崩御」と記されているのみで、死因に関する具体的な情報は不明。 - 死後の政治への影響
→ 聖武天皇の死後、娘の孝謙天皇が即位したが、実際に政治を動かしたのは藤原仲麻呂だった。
→ 仲麻呂の権力拡大を考えると、暗殺説も完全には否定できない。 - 光明皇后の行動
→ 聖武天皇の遺品を正倉院に納め、仏教信仰を後世に伝えた。 - 仏教政策への影響
→ 聖武天皇の仏教政策はその後も続いたが、藤原仲麻呂が権力を持つと抑えられた。
→ 平安時代に入り、仏教の役割が貴族文化の一部へと変化した。 - 現代の歴史学の見解
→ 現在では病死説が有力視されているが、暗殺説も完全には否定されていない。
→ 歴史記録の改ざんや不足により、真相は今も謎のまま。
