今日は日本の歴史の中でもとても有名な天皇、「聖武天皇」についてお話しします。
「聖武天皇って何をした人?」
「大仏を作ったのは知ってるけど、なぜそんなことをしたの?」
「聖武天皇がいたのは何時代?」
こんな疑問を持っている人も多いでしょう。実は聖武天皇は、仏教を信仰して大仏を造っただけではなく、全国にお寺を建てたり、何度も都を移したりと、いろんなことをした人物なのです。
今日は、そんな聖武天皇のことを簡単にわかりやすく解説します。
テストに出るポイントや語呂合わせも紹介するので、歴史が苦手な人も、最後まで読んでみてくださいね!
聖武天皇は何をした人か簡単に:仏教政策と遷都

聖武天皇は、奈良時代の天皇で、仏教を国家の安定のために利用した人です。
彼は東大寺の大仏を作り、全国に国分寺を建て、何度も都を移しました。このような政策を行った理由には、疫病の流行や反乱の発生など、当時の社会不安が大きく関係しています。
それでは、詳しく見ていきましょう。
聖武天皇は何をした人?大仏建立と仏教政策を進めた天皇
聖武天皇は、奈良時代(710年~794年)に活躍した第45代天皇です。彼の一番有名な功績は、なんといっても東大寺の大仏を作ったことです。
では、なぜ大仏を作ることになったのでしょうか?それは、当時の日本がたくさんの災害や戦乱に見舞われ、人々が不安な気持ちになっていたからです。
- 天然痘という恐ろしい病気が流行し、多くの人が亡くなった
- 地震や飢饉(ききん)が発生し、食べ物が足りなくなった
- 反乱が起こり、国が乱れた
こうした混乱を鎮めるために、聖武天皇は「仏教の力で国を守ろう!」と考え、大仏を作ることを決意しました。この考え方は「仏教政治」と呼ばれ、聖武天皇の時代を代表する特徴のひとつです。
聖武天皇は何時代の天皇?奈良時代の背景を解説
聖武天皇が生きたのは「奈良時代」(710年~794年)です。この時代、日本の都は「平城京(へいじょうきょう)」という場所にありました。
奈良時代は、中国の「唐(とう)」という国の影響を強く受けた時代です。仏教が盛んになり、多くのお寺が建てられました。また、役人が法律に従って国を治める「律令(りつりょう)制度」も発展しました。
しかし、この時代は平和なだけではありませんでした。
- 737年に天然痘が流行し、貴族や庶民の多くが亡くなった
- 740年には藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱が起こり、国が不安定になった
- 重い税や労働の負担に耐えられず、農民が逃げ出すことが増えた
こうした問題を解決するために、聖武天皇は仏教を利用し、国をまとめようとしたのです。
聖武天皇の遷都の理由とは?頻繁な遷都とその背景
聖武天皇の特徴的な政策のひとつに、「何度も都を移したこと」があります。なぜ都を移したのでしょうか?それは、「都を変えれば悪いことがなくなる」と考えたからです。
実際に、聖武天皇は740年から745年の間に4回も遷都しました。
【遷都の流れ】
- 740年:平城京 → 恭仁京(くにきょう)(京都府)
- 744年:恭仁京 → 難波宮(なにわのみや)(大阪府)
- 745年:難波宮 → 紫香楽宮(しがらきのみや)(滋賀県)
- 745年:紫香楽宮 → 再び平城京へ
しかし、都を移すにはたくさんのお金と労力が必要でした。結局、民衆の負担が大きくなりすぎたため、最終的には平城京に戻ることになったのです。
東大寺の大仏建立の目的と行基の役割
聖武天皇は、国の平和を願って大仏を作ることを決めました。しかし、大仏を作るのはとても大変なことでした。そこで登場したのが、「行基(ぎょうき)」という僧侶です。
行基は、もともと貧しい人たちのために橋を作ったり、井戸を掘ったりする活動をしていました。そのため、人々からとても信頼されていました。
聖武天皇は行基の力を借り、大仏建立のために協力を呼びかけました。行基が呼びかけたことで、多くの人々が集まり、大仏建立のための募金や労働に参加するようになりました。
最終的に、のべ260万人もの人々が関わる国家プロジェクトとなり、752年にようやく大仏が完成しました。
聖武天皇が出家した理由とその影響
聖武天皇は、749年に天皇の座を娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)に譲り、自ら出家しました。これは、当時の天皇としては非常に珍しいことです。
なぜ出家したのでしょうか?
- 「三宝の奴(さんぼうのやっこ)」と名乗り、仏教に完全に身を捧げることを決意した
- 大仏の完成を見届け、政治よりも信仰を優先することにした
- 病気や災害に苦しんだ人生の中で、仏教こそが救いだと考えた
聖武天皇が出家したことは、その後の日本の宗教や文化にも影響を与えました。神仏習合(しんぶつしゅうごう)という、日本独自の仏教と神道の融合が進んだのも、この頃からです。
聖武天皇は何をした人か簡単に:有名なエピソードと重要な政策

聖武天皇は、ただ仏教を信仰しただけでなく、日本の歴史に大きな影響を与えた重要な政策をいくつも行いました。ここでは、彼にまつわる有名なエピソードや、日本史のテストでよく出るポイントを詳しく解説していきます。
聖武天皇の「三宝の奴」とは?日本初の出家した天皇
聖武天皇が出家するときに名乗った「三宝の奴(さんぼうのやっこ)」という言葉を聞いたことはありますか?
これは、仏教の三つの宝「仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)」に仕える者、つまり「私は仏教のしもべです!」という意味です。
天皇は神に近い存在とされ、政治の中心でした。それなのに、天皇自らが仏教に仕え、出家するのはとても異例のことだったのです。この出来事がきっかけとなり、仏教はさらに強い影響力を持つようになりました。
後の時代にも、出家する天皇や貴族が増え、日本の宗教観に大きな影響を与えたのです。
聖武天皇が定めた「墾田永年私財法」
聖武天皇の政策の中で、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」という法律はとても重要です。これは743年に出された法律で、「新しく開拓した土地は自分のものにしてよい」というものでした。
それまでは、土地はすべて国家のものでしたが、この法律によって貴族やお寺が自分の土地を持てるようになったのです。その結果、次のようなことが起こりました。
- 貴族やお寺がどんどん土地を広げるようになった
- 農民は貴族の土地で働くようになり、自由が少なくなった
- 最終的に、平安時代に「荘園(しょうえん)」と呼ばれる私有地が増えていった
この法律は、後の日本の土地制度に大きな影響を与え、武士の時代が始まるきっかけにもなりました。
東大寺の正倉院と宝物の秘密
東大寺には「正倉院(しょうそういん)」という有名な倉庫があります。ここには、聖武天皇が使っていたものや、当時の貴重な宝物が大切に保管されています。

正倉院の特徴は「校倉造(あぜくらづくり)」と呼ばれる木材を組み合わせた建築方法です。この造りのおかげで、湿気を防ぎ、長い間宝物を守ることができたのです。
正倉院には、次のような宝物があります。
- 聖武天皇が愛用した琵琶(びわ)
- ペルシャ(現在のイラン)や中国から伝わった美しいガラスの器
- 仏教の経典や装飾品
これらの宝物は、日本が当時シルクロードを通じて世界とつながっていたことを示す貴重な資料となっています。
光明皇后と施薬院・悲田院の設立
聖武天皇の妻、光明皇后(こうみょうこうごう)は、とても信仰心の厚い人でした。彼女は困っている人を助けるために、次のような施設を作りました。
- 施薬院(せやくいん) → 病気の人に薬を配る施設
- 悲田院(ひでんいん) → 貧しい人や孤児を助ける施設
光明皇后は、実際に病気の人の体を洗ったり、看病したりするほど、積極的に人助けを行いました。このような行動から、彼女は「慈悲深い皇后」として今も語り継がれています。
この施薬院や悲田院の制度は、後の時代の病院や福祉施設の元になりました。日本における福祉の始まりともいえるのです。
聖武天皇のエピソード!語呂合わせで簡単に覚えよう
歴史を覚えるのが苦手な人のために、聖武天皇に関する出来事を語呂合わせで覚えてみましょう!
✅ 大仏造立の詔(743年) 👉 「もう、迷いはなしさ(743)!大仏を作ろう!」
✅ 墾田永年私財法(743年) 👉 「土地を開墾、永久に私のもの(743)!」
✅ 大仏開眼供養(752年) 👉 「もう来い(752)!完成だ、大仏!」
✅ 聖武天皇の遷都 👉 「苦しんで(740)都を変えた聖武天皇」
こういった語呂合わせを覚えておくと、テストのときに思い出しやすくなりますね!
総括:聖武天皇は何をした人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 聖武天皇は奈良時代(710年~794年)の天皇で、仏教の力を利用して国を治めようとした
✅ 最も有名な業績は東大寺の大仏建立(743年発願、752年完成)
✅ 疫病(天然痘の流行)や飢饉、反乱(藤原広嗣の乱)による社会不安を鎮めるため、仏教を厚く保護した
✅ 全国に国分寺・国分尼寺を建設し、仏教の力で国を守ろうとした(国分寺建立の詔・741年)
✅ 都を4回も移す(遷都)ことで災厄を避けようとしたが、最終的に平城京へ戻った
✅ 墾田永年私財法(743年)を制定し、土地の私有を認めたことで荘園制度の基盤を作った
✅ 妻・光明皇后とともに施薬院(病院)や悲田院(福祉施設)を設立し、民衆を救済した
✅ 自ら「三宝の奴」と名乗り、出家(749年)した初の天皇となる
✅ 正倉院には、聖武天皇の遺品やシルクロードを通じた貴重な宝物が保管され
