みなさんは「遣唐使(けんとうし)」という言葉を聞いたことがありますか?
歴史の授業でも習う有名な言葉ですが、「どんな人が遣唐使に行ったのか?」「どんな活躍をしたのか?」まで知っている人は少ないかもしれませんね。
遣唐使とは、約260年もの間、日本から中国(唐)へ派遣された使節団のことです。政治や文化を学ぶために、多くの優れた人物が唐へ渡りました。
しかし、その道のりはとても危険で、命を落とす人も少なくありませんでした。
この記事では、遣唐使として活躍した人物を「時代別」と「有名人」に分けて詳しく紹介します。遣唐使に選ばれた人々が、日本の発展にどれほど貢献したのか、一緒に学んでいきましょう!
【時代別】遣唐使の人物一覧:誰が行ったのか徹底解説

遣唐使として派遣された人物にはどのような人がいたのでしょうか?
まず最初に、遣唐使として派遣された人で有名人を時代別に紹介します。
遣唐使の一覧表【時代別・人物リスト】
遣唐使として派遣された人物一覧は以下の通りです。
| 出発年 | 役職 | 名前 | 帰国年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 630年 | 大使 | 犬上御田鍬(いぬかみ の みたすき) | 632年 | 最初の遣唐使 |
| 630年 | 副使 | 薬師恵日(やくし えにち) | 632年 | 唐からの使者・高表仁(こうひょうじん)と帰国 |
| 653年 | 大使 | 吉士長丹(きし の ながたん) | 654年 | 僧道昭・定恵らと渡航 |
| 653年 | 副使 | 吉士駒(きし の こま) | 654年 | |
| 653年 | 大使 | 高田根麻呂(たかた の ねまろ) | 654年 | |
| 653年 | 副使 | 掃守小麻呂(かもり の こまろ) | 654年 | |
| 654年 | 押使 | 高向玄理(たかむく の げんり) | 655年 | 唐で客死 |
| 654年 | 大使 | 河辺麻呂(かわべ の まろ) | 655年 | |
| 654年 | 副使 | 薬師恵日(やくし えにち) | 655年 | 再び渡唐 |
| 659年 | 大使 | 坂合部石布(さかあいべ の いしふ) | 661年 | |
| 659年 | 副使 | 津守吉祥(つもり の きっしょう) | 661年 | |
| 659年 | 判官 | 伊吉博徳(いき の はかとこ) | 661年 | 一時長安で抑留される |
| 665年 | 大使 | 守大石(もり の おおいし) | 667年 | |
| 665年 | 副使 | 坂合部石積(さかあいべ の いしづみ) | 667年 | |
| 669年 | 大使 | 河内鯨(かわち の くじら) | 不明 | 唐の高句麗征伐を祝賀 |
| 702年 | 執節使 | 粟田真人(あわた の まひと) | 704年 | 山上憶良・道慈らと渡航 |
| 702年 | 大使 | 坂合部大分(さかあいべ の おおきた) | 704年 | |
| 702年 | 副使 | 巨勢邑治(こせ の おおじ) | 704年 | |
| 717年 | 押使 | 多治比県守(たじひ の あがたもり) | 718年 | |
| 717年 | 大使 | 大伴山守(おおとも の やまもり) | 718年 | 吉備真備・阿倍仲麻呂・玄昉らと同行 |
| 717年 | 副使 | 藤原宇合(ふじわら の うまかい) | 718年 | |
| 733年 | 大使 | 多治比広成(たじひ の ひろなり) | 734年 | 吉備真備・玄昉が帰国 |
| 733年 | 副使 | 中臣名代(なかとみ の なしろ) | 734年 | |
| 746年 | 大使 | 石上乙麻呂(いそのかみ の おとまろ) | なし | 派遣中止 |
| 752年 | 大使 | 藤原清河(ふじわら の きよかわ) | 753年 | 鑑真を日本へ招く。唐に留まり帰国できず |
| 752年 | 副使 | 大伴古麻呂(おおとも の こまろ) | 753年 | 鑑真を伴い帰国 |
| 752年 | 副使 | 吉備真備(きび の まきび) | 753年 | 鑑真と帰国 |
| 759年 | 迎入唐大使 | 高元度(たか の もとたけ) | 761年 | 渤海経由で入唐 |
| 761年 | 大使 | 仲石伴(なかいし の とも) | なし | 派遣中止 |
| 761年 | 副使 | 石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ) | なし | 派遣中止 |
| 761年 | 副使 | 藤原田麻呂(ふじわら の たまろ) | なし | 派遣中止 |
| 762年 | 送唐客大使 | 中臣鷹主(なかとみ の たかぬし) | なし | 派遣中止 |
| 762年 | 副使 | 高麗広山(こま の ひろやま) | なし | 派遣中止 |
| 777年 | 大使 | 佐伯今毛人(さえき の いまえみし) | 778年 | 乗船せず |
| 777年 | 副使 | 大伴益立(おおとも の ますたつ) | 778年 | |
| 777年 | 副使 | 藤原鷹取(ふじわら の たかとり) | 778年 | |
| 777年 | 副使 | 小野石根(おの の いわね) | 778年 | |
| 777年 | 副使 | 大神末足(おおみわ の すえたり) | 778年 | |
| 779年 | 送唐客使 | 布勢清直(ふせ の きよなお) | 782年 | 唐使孫興進らを送る |
| 804年 | 大使 | 藤原葛野麻呂(ふじわら の かどのまろ) | 805年 | 最澄・空海・橘逸勢らが同行 |
| 804年 | 副使 | 石川道益(いしかわ の みちます) | 805年 | |
| 838年 | 大使 | 藤原常嗣(ふじわら の つねつぐ) | 839年~840年 | 円仁・円載らと渡航 |
| 838年 | 副使 | 小野篁(おの の たかむら) | 839年~840年 | 乗船せず |
| 894年 | 大使 | 菅原道真(すがわら の みちざね) | なし | 遣唐使を中止 |
遣唐使とは?目的と役割を簡単に解説
遣唐使とは、日本が唐(中国)へ送った使節団のことです。最初に派遣されたのは630年で、最後の遣唐使が決まったのは894年でした。日本の律令制度(りつりょうせいど)や仏教、文化を発展させるため、遣唐使は非常に重要な役割を担っていました。
しかし、遣唐使の旅はとても過酷でした。船で東シナ海を渡る必要があり、嵐に遭遇すると遭難することもありました。また、唐に到着しても、そこで勉強したり、交渉したりと大変な苦労があったのです。
それでは、時代ごとにどんな人物が遣唐使として活躍したのかを見ていきましょう。
飛鳥時代の遣唐使【初の遣唐使とその背景】
日本で最初の遣唐使は「犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)」です。
彼は630年、舒明天皇(じょめいてんのう)の命令で遣唐使として唐へ派遣されました。このときの唐の皇帝は「太宗(たいそう)」という人物で、当時の中国は非常に強い国でした。
犬上御田鍬は唐の文化や制度を日本に持ち帰り、日本の発展に大きく貢献しました。また、この後も吉士長丹(きしのながたん)や薬師恵日(やくしえにち)などの遣唐使が唐へ渡りました。
飛鳥時代の遣唐使は、律令制度や国の仕組みを学び、日本の政治に大きな影響を与えたのです。
奈良時代の遣唐使【律令制度と文化の大改革】
奈良時代に入ると、遣唐使の派遣がより活発になります。
この時代の遣唐使で有名な人物の一人が、粟田真人(あわたのまひと)です。彼は702年に遣唐使として派遣され、日本に「大宝律令(たいほうりつりょう)」という法律を作るための知識を持ち帰りました。
また、吉備真備(きびのまきび)や山上憶良(やまのうえのおくら)も遣唐使として活躍しました。吉備真備は数学や音楽、軍事など幅広い知識を学び、日本の政治に大きな影響を与えました。山上憶良は「万葉集(まんようしゅう)」にも登場する有名な歌人です。
奈良時代の遣唐使たちは、日本の文化や学問を大きく発展させました。
平安時代の遣唐使【最澄・空海が活躍】
平安時代になると、遣唐使の目的が変わってきます。政治よりも、仏教を学ぶことが重要になってきたのです。この時代の遣唐使で有名なのが、最澄(さいちょう)と空海(くうかい)です。
最澄は天台宗(てんだいしゅう)という仏教の一派を日本に広めました。彼は唐で密教を学び、日本に持ち帰って比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を建立しました。
一方、空海は真言宗(しんごんしゅう)を開き、高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)を作りました。
また、平安時代最後の遣唐使は藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)です。彼は838年に派遣されましたが、すでに唐の国力が衰えていたため、日本との交流は少なくなりました。そして、894年に菅原道真が遣唐使の廃止を提案し、遣唐使は終わりを迎えました。
遣唐使の人物一覧の後に:有名な遣唐使を詳しく解説

ここからは、特に有名な遣唐使について詳しく紹介します。彼らがどんな目的で唐に渡り、日本に何をもたらしたのかを見ていきましょう。
有名人は以下の通りです。
| 出発年 | 遣唐使の名前 | 役割・業績 |
|---|---|---|
| 630年 | 犬上御田鍬 | 初の遣唐使、大使 |
| 702年 | 粟田真人 | 大宝律令に貢献 |
| 717年 | 吉備真備 | 政治・学問で活躍 |
| 804年 | 最澄 | 天台宗の開祖 |
| 804年 | 空海 | 真言宗の開祖 |
| 838年 | 藤原常嗣 | 最後の遣唐使 |
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)~唐に仕えた日本人~
阿倍仲麻呂(698年~770年)は、日本から遣唐使として派遣され、唐の皇帝に仕えた人物です。彼は717年の遣唐使に参加し、吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)とともに唐へ渡りました。
仲麻呂は、唐での官僚試験(科挙)に合格し、唐の皇帝・玄宗(げんそう)に高く評価されます。そして、「朝衡(ちょうこう)」という名前を与えられ、唐の役人として働きました。
しかし、日本に帰りたいという気持ちは強く、何度も帰国を試みました。しかし、帰国の途中で嵐に遭い、結局日本に戻ることはできませんでした。
彼が詠んだ有名な和歌がこちらです。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
この歌は、「唐で空を見上げると、日本の故郷・奈良の春日山に昇る月を思い出す」という意味です。故郷を思いながらも帰れなかった仲麻呂の気持ちがよく伝わりますね。
吉備真備(きびのまきび)~唐の知識を日本に持ち帰った天才~
吉備真備(695年~775年)は、日本に唐の学問をもたらした遣唐使の代表的な人物です。彼は717年の遣唐使として唐へ渡り、20年以上にわたって勉強しました。
彼が学んだのは、数学・天文学・軍事・音楽・政治など、多岐にわたる分野でした。唐での学びを活かし、日本に帰国後は「養老律令(ようろうりつりょう)」の制定に関わり、日本の律令政治の発展に大きく貢献しました。
また、彼が日本に持ち帰った「囲碁(いご)」や「双六(すごろく)」は、日本で広く普及しました。さらに、彼は唐の「兵法(へいほう)」を学び、日本の軍事にも影響を与えました。
吉備真備はその後、右大臣という高い地位にまで上り詰め、日本の政治を支える重要な人物となりました。
最澄(さいちょう)~天台宗を日本に広めた高僧~
最澄(766年~822年)は、仏教の新しい流派「天台宗(てんだいしゅう)」を日本に広めた僧侶です。彼は804年に遣唐使として唐へ渡り、天台宗の教えを学びました。
帰国後、比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建立し、日本の仏教界に大きな影響を与えました。彼の教えは、後の鎌倉仏教にも影響を与え、日本の仏教発展の基礎を作ったのです。
最澄の目標は「一切衆生(いっさいしゅじょう)を救う仏教」でした。そのため、仏教だけでなく、学問全般を大切にする教えを広めました。これが、後の「天台学派(てんだいがくは)」へと発展していきます。
空海(くうかい)~真言宗の開祖、唐で学んだ密教~
空海(774年~835年)は、日本に密教(みっきょう)を伝えた僧侶です。彼は最澄と同じ804年の遣唐使に参加し、唐で修行しました。
空海が学んだのは、密教(みっきょう)という仏教の一派でした。これは、呪文や印を結ぶことで悟りを開くという教えです。彼は唐の僧侶「恵果(けいか)」から密教を学び、そのすべてを受け継ぎました。
帰国後、空海は高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建立し、真言宗(しんごんしゅう)を広めました。また、彼は仏教の教えだけでなく、土木技術や書道などの知識も持ち帰り、日本の文化発展に大きく貢献しました。
菅原道真(すがわらのみちざね)~遣唐使を廃止した男~
菅原道真(845年~903年)は、遣唐使の廃止を提案した人物です。彼は894年に遣唐使に任命されましたが、唐が衰退していることや航海の危険性を理由に、遣唐使の中止を提案しました。
彼の提案が受け入れられ、遣唐使はここで終わりを迎えました。道真はその後、右大臣にまで昇進しましたが、政敵によって太宰府(福岡県)に左遷され、そこで亡くなりました。
死後、彼を祀る神社「天満宮(てんまんぐう)」が建てられ、現在では学問の神様として全国で信仰されています。
総括:遣唐使の人物一覧まとめ
最後に、遣唐使の有名人一覧を残しておきます。
遣唐使の一覧表
| 出発年 | 遣唐使の名前 | 役割・業績 |
|---|---|---|
| 630年 | 犬上御田鍬 | 初の遣唐使、大使 |
| 702年 | 粟田真人 | 大宝律令に貢献 |
| 717年 | 吉備真備 | 政治・学問で活躍 |
| 804年 | 最澄 | 天台宗の開祖 |
| 804年 | 空海 | 真言宗の開祖 |
| 838年 | 藤原常嗣 | 最後の遣唐使 |
