みなさん、日本の歴史には「権力争い」がたくさんありますよね。今回は平安時代に起こった「承和の変(じょうわのへん)」という事件について、塾長がわかりやすく解説します!

この事件は、藤原氏という貴族が権力を握るために起こした「他氏排斥(たしはいせき)」の最初の例とされています。つまり、自分のライバルになりそうな人を政界から追い出す動きのことです。この事件によって、ある皇太子が廃され、藤原氏の一族がどんどん力を持っていくことになりました。

「なぜ藤原氏はそんなことをしたのか?」「排斥された人はどうなったのか?」そんな疑問を、歴史が苦手な人でもスラスラ読めるように解説していきますよ!

承和の変をわかりやすく!事件の背景から結果まで

まずは、「承和の変」とは何なのかを、詳しく説明していきます。事件が起こるまでの流れや、実際にどんなことがあったのか、排斥された人々についても詳しく見ていきましょう!

承和の変とは?842年に起こった政変を簡単に解説

承和の変とは、842年に起こった平安時代の皇位継承をめぐる事件です。簡単に言うと、「皇太子をすげ替えるための陰謀」です。

この時、天皇だったのは「仁明(にんみょう)天皇」で、皇太子には「恒貞(つねさだ)親王」が選ばれていました。しかし、ある人たちがこの恒貞親王を「邪魔者」として排除しようとしたのです。その人物こそ、「藤原良房(ふじわらのよしふさ)」でした。

藤原良房は、天皇の妃(奥さん)に自分の妹を嫁がせていて、その間に生まれた「道康(みちやす)親王」を次の天皇にしたいと考えていました。つまり、恒貞親王を廃し、自分の一族が次の天皇を支える体制を作ろうとしたのです

結果的に恒貞親王は廃され、藤原良房の計画通り、道康親王が皇太子になりました。この事件によって、藤原氏は日本の政治を支配する「摂関政治(せっかんせいじ)」への第一歩を踏み出したのです。

承和の変の原因は?藤原良房の権力拡大と皇位継承争い

この事件の原因を理解するには、当時の皇位継承のルールを知っておく必要があります。

当時、天皇の位は「兄弟で交互に継承する」のが一般的でした。つまり、天皇の兄弟やその子どもたちが交代で天皇になっていたのです。しかし、これでは貴族たちが自分の子どもを天皇にできません。そこで、藤原氏のような有力な貴族は、「天皇の外戚(がいせき)」、つまり天皇の親戚になって権力を握る方法を考えました。

藤原良房は、妹の順子(じゅんし)を仁明天皇に嫁がせ、その間に生まれた道康親王を次の天皇にしたいと考えました。しかし、すでに皇太子には恒貞親王が選ばれていました。そこで、藤原良房は「恒貞親王を支持している人たちが謀反(むほん)を企んでいる」と噂を流し、皇太子を廃してしまったのです。

こうして、藤原良房は皇太子をすげ替え、自分の一族が支配する体制を築いたのです。この動きが、後の「摂関政治」へとつながっていきます。

承和の変の流れを時系列で解説!事件の詳細をチェック

承和の変は、わずか数週間の間に急速に進行しました。その流れを時系列で見てみましょう。

  1. 842年7月10日:皇太子・恒貞親王の側近、**伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)**が、皇太子を東国へ逃がそうと計画。
  2. 7月15日:嵯峨上皇(さがじょうこう)が亡くなる。この時点で、皇太子を守る強い後ろ盾がいなくなる。
  3. 7月17日:仁明天皇が、伴健岑と橘逸勢を逮捕。「謀反(むほん)の疑いあり」とされ、六衛府(ろくえふ:宮中の警備部隊)を動員し、京の警備を強化。
  4. 7月23日:藤原良房の弟、藤原良相(ふじわらのよしみ)が、軍を率いて皇太子の住む場所を包囲。恒貞親王が皇太子の地位を廃される
  5. 8月道康親王が新たな皇太子に決定し、藤原良房が大納言に昇進

このように、事件は藤原良房にとって都合のいい形で進みました。恒貞親王が失脚し、藤原氏の権力が確立されるきっかけとなったのです。

排斥された人一覧!流罪・左遷された貴族たちの処遇

承和の変では、多くの人が排斥されました。その中でも特に大きな影響を受けた人たちを紹介します。

  • 恒貞親王(つねさだしんのう):皇太子の地位を廃され、仏門に入る。
  • 伴健岑(とものこわみね):隠岐(おき、現在の島根県)に流罪。その後、出雲(いずも)へ移される。
  • 橘逸勢(たちばなのはやなり):伊豆国へ流罪。しかし、護送の途中で病に倒れ、遠江(とおとうみ、現在の静岡県)で亡くなる。
  • 藤原愛発(ふじわらのなるたち):京の外に追放される。
  • 藤原吉野(ふじわらのよしの):九州の太宰府に左遷される。

こうして、藤原良房にとって邪魔な存在は次々と排除されていきました。この動きが、後の藤原氏による「他氏排斥(たしはいせき)」の始まりとなるのです。

承和の変ををわかりやすく:テスト対策や重要用語

承和の変は、日本の政治に大きな影響を与えた事件で、その後の藤原氏の権力拡大や、摂関政治の始まりを理解するためには非常に重要です。

ここでは、テスト対策や語呂合わせを交えながら、承和の変の影響や覚えるべきポイントを深掘りしていきます。

承和の変が日本の歴史に与えた影響とは?

承和の変は、日本の歴史に大きな影響を与えました。その影響は次の3つに分けて考えることができます。

  1. 藤原氏の権力が確立し、摂関政治の道が開かれた
    • 承和の変をきっかけに、藤原良房はさらに昇進し、大納言の地位を得ました。
    • 良房の孫である清和天皇が即位すると、彼は摂政となり、臣下として初めて政治の実権を握ることになります。
    • これが後の「摂関政治(せっかんせいじ)」につながり、藤原氏が朝廷を支配する時代が始まりました。
  2. 皇位継承のルールが変化した
    • それまでの皇位継承は「兄弟で交互に天皇を出す」方法が一般的でしたが、藤原氏の影響力が強まるにつれ、父から子へ直系で継承される形が定着しました。
    • これにより、天皇家と藤原氏のつながりがさらに深まり、貴族政治の色が強まることになります。
  3. 他氏排斥の流れが本格化
    • 承和の変以降、藤原氏は「自分たちの権力を脅かす他の氏族を排除する」動きを加速させました。
    • 例えば、866年には「応天門の変」が起こり、伴善男(とものよしお)が失脚しました。
    • 969年の「安和の変」では、源高明(みなもとのたかあきら)が左遷され、これを最後に朝廷内で藤原氏に対抗できる勢力がほぼ消滅しました。

つまり、承和の変は「藤原氏の時代の始まり」と言える重要な事件だったのです。

テスト対策!承和の変で押さえるべき重要ポイント

歴史のテストで「承和の変」に関する問題が出たとき、どのポイントを押さえればいいのでしょうか?ここでは、よく出るポイントを3つ紹介します!

  1. 年号(842年)
    • 承和の変が起こったのは**承和9年(842年)**です。
    • 語呂合わせ:「ハシ(842)から転がる恒貞親王」(恒貞親王が廃された年)
  2. 重要人物
    • 藤原良房(事件を主導した人物)
    • 仁明天皇(藤原良房と協力し、皇位継承を変更)
    • 恒貞親王(皇太子を廃される)
    • 伴健岑・橘逸勢(流罪になった貴族)
  3. 事件の影響
    • 藤原氏の勢力拡大
    • 皇位継承の仕組みが変化
    • 他氏排斥が本格化し、摂関政治の基盤が築かれる

この3つを覚えておけば、テスト対策はバッチリです!

語呂合わせで覚える承和の変!簡単に暗記できる方法

歴史の年号を覚えるのは大変ですよね。でも、語呂合わせを使えば簡単に暗記できます!ここでは、承和の変に関する語呂合わせを紹介します。

  1. 事件の年号(842年)
    • 「ハシ(842)から転がる恒貞親王」
      → 恒貞親王が皇太子から転げ落ちた年!
    • 「藤原(良房)に蹴られて去る(842)」
      → 藤原良房にやられて、恒貞親王が皇太子を辞めさせられた年!
  2. 流罪になった人物
    • 「伴(とも)に行こうよ(伊豆へ)、橘逸勢」
      → 橘逸勢は伊豆へ流された!
  3. 事件の影響
    • 「藤原(良房)が牛耳る、承和の変」
      → 事件の結果、藤原氏の支配が強まった!

語呂合わせを使えば、歴史がもっと楽しく覚えられますよ!

承和の変と関連する歴史事件!他氏排斥の流れを理解

承和の変は、日本の政治の大きな流れの中にあります。同じように「藤原氏が政敵を排除した事件」として、次の3つを覚えておきましょう!

  1. 応天門の変(866年)
    • 事件の概要:朝廷の門(応天門)が放火され、犯人として伴善男(とものよしお)が失脚
    • 結果:藤原良房が摂政としてさらに権力を強化
  2. 昌泰の変(901年)
    • 事件の概要:菅原道真(すがわらのみちざね)が藤原氏の陰謀により大宰府(だざいふ)に左遷
    • 結果:藤原時平(ふじわらのときひら)が政権を掌握
  3. 安和の変(969年)
    • 事件の概要:源高明(みなもとのたかあきら)が謀反の疑いをかけられ、大宰府に左遷
    • 結果:藤原氏が朝廷内で完全に権力を独占

これらの事件をセットで覚えると、日本の歴史の流れがよく分かります!

承和の変の登場人物を解説!藤原良房・仁明天皇・恒貞親王の関係

最後に、承和の変に関わった重要人物を整理しておきましょう。

  1. 藤原良房(ふじわらのよしふさ)
    • 事件の黒幕で、藤原氏の権力を確立した人物。
    • 自分の甥である道康親王を皇太子にするため、陰謀を仕掛ける。
  2. 仁明天皇(にんみょうてんのう)
    • 承和の変の時の天皇。
    • 藤原良房と組んで、恒貞親王を廃し、道康親王を皇太子にする。
  3. 恒貞親王(つねさだしんのう)
    • もともと皇太子だったが、事件によって廃される。
    • その後、仏門に入り、政治から完全に身を引く。
  4. 伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)
    • 恒貞親王を守ろうとしたが、謀反の疑いをかけられて流罪。

こうした人物の関係を整理すると、事件の流れがより理解しやすくなります!

総括:承和の変をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 承和の変(842年)は、藤原氏が権力を握るために起こした平安時代の政変で、皇太子の交代を目的とした陰謀。
  • 藤原良房は、仁明天皇の妹(順子)を嫁にして、道康親王を次の天皇にしようと考え、恒貞親王を排除した。
  • 事件の結果、恒貞親王は皇太子を廃され、道康親王が皇太子に決定。
  • 藤原良房は、この事件を経て大納言に昇進し、後の摂関政治の基盤を作った。
  • 事件の詳細:恒貞親王の側近(伴健岑と橘逸勢)が謀反を企てたとされ、流罪になった。
  • 流罪になった人物:伴健岑(隠岐)、橘逸勢(伊豆、護送中に死亡)、恒貞親王(仏門に入る)。
  • 承和の変の影響
    1. 藤原氏の権力強化。
    2. 皇位継承のルールが変化し、父から子への直系継承が定着。
    3. 藤原氏による「他氏排斥」が本格化。
  • テスト対策
    1. 年号(842年):「ハシ(842)から転がる恒貞親王」。
    2. 重要人物:藤原良房、仁明天皇、恒貞親王、伴健岑、橘逸勢。
    3. 事件の影響:摂関政治、皇位継承の変化、他氏排斥の加速。
  • 語呂合わせで年号や人物、事件の影響を覚えやすくする方法を紹介。
  • 関連する歴史事件(応天門の変、昌泰の変、安和の変)を理解し、藤原氏による権力掌握の流れを学ぶ。