紫式部といえば『源氏物語』を書いたすごい人ですよね。

でも、その弟がどんな人物だったか知っていますか?

藤原惟規(ふじわらののぶのり)は、姉とは違って勉強が苦手だったとも言われますが、実はとてもユーモアがあり、和歌の才能に恵まれた人物でした。
しかし、彼は若くして病気で亡くなってしまいます。

この記事では、藤原惟規の死因について、史実をもとに詳しく解説しながら、大河ドラマ『光る君へ』での描かれ方とも比較していきます。

難しい歴史の話も、できるだけ分かりやすく説明するので、最後まで読んでみてくださいね!

紫式部の弟・藤原惟規の死因とは?史実に基づく解説

藤原惟規は、平安時代中期に活躍した貴族で、和歌を詠むのが得意な人物でした。しかし、彼は40歳になるかならないかという若さで亡くなっています。その死因は一体何だったのでしょうか?

ここでは、史料に残る彼の最期を詳しく見ていきます。

藤原惟規の死因は「病死」—史料に見る最期の様子

藤原惟規の死因について、はっきりとした病名は伝わっていません。
しかし、歴史の記録によると、彼は父・藤原為時(ためとき)が越後国(今の新潟県)に赴任する際に同行し、その途中で病気になったとされています。
病に倒れた彼は、なんとか越後にたどり着いたものの、最終的にその地で息を引き取りました。

この時代、貴族が地方に行くのは大変なことでした。今のように電車や車があるわけではなく、長い旅路を徒歩や牛車で進まなければなりません。
また、地方では京のように優れた医者がいるわけでもなく、衛生状態も良くなかったため、体調を崩すと回復が難しくなることもありました。
藤原惟規も、旅の疲れや環境の変化が原因で、重い病気にかかってしまったのかもしれません。

平安時代の医療と貴族の健康事情—惟規の死因を考察

平安時代は、今のように病院があるわけではなく、薬も限られていました。
貴族は「おまじない」や「祈祷(きとう)」に頼ることが多く、病気が治るかどうかは運次第だったのです。

また、当時は「疫病(えきびょう)」と呼ばれる、今でいう伝染病がたびたび流行していました。
とくに「長徳の大疫病(ちょうとくのたいえきびょう)」という病気が流行した時期があり、多くの貴族が命を落としています。
惟規も、このような病気にかかってしまった可能性がありますね。

また、平安時代の貴族は、食事が偏りがちでした。
魚や野菜をあまり食べず、お米やお餅ばかりを食べることが多かったため、栄養不足になりやすかったのです。
旅の疲れと食生活の影響で、体が弱ってしまったのかもしれません。

惟規の辞世の句に込められた想い—「都に帰りたい」

藤原惟規は、亡くなる直前に次のような和歌を詠んだとされています。

「都にも恋しき人のあまたあれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ」

この歌は、「都には大切な人がたくさんいる。だから、もう一度都に帰りたい。」という意味になります。
しかし、彼はこの歌の最後の「ふ」の字を書き終える前に息を引き取ったと伝えられています。
父の藤原為時は、彼の無念を思い、最後の一文字を書き加えたと言われています。

この和歌からも、惟規がどれほど都に帰りたかったかが伝わってきますね。

父・藤原為時の嘆き—息子を失った親の悲しみ

藤原惟規の死は、父・藤原為時にとって大きな悲しみでした。
彼は、最愛の息子を失ったことで、すぐに京へ帰り、最終的には出家してしまいます。

当時の貴族にとって、地方に赴任することは「左遷(させん)」のように思われることもありました。
そのため、為時も内心では京に戻りたかったのかもしれません。
しかし、息子を亡くした悲しみが、彼をより一層孤独にさせたのでしょう。

「光る君へ」で描かれた藤原惟規の最期—史実との違い

NHKの大河ドラマ『光る君へ』では、藤原惟規は朗らかで優しい弟として描かれています。
彼の死も感動的に描かれ、父・為時がそばで見守る中、辞世の句を詠みながら息を引き取るシーンが放送されました。

史実では、惟規が亡くなる際の具体的な様子は詳しく記されていません。
しかし、ドラマでは彼のキャラクターを生かすため、家族の絆を強調する形で最期の場面が演出されたのです。

このように、史実とドラマでは異なる点もありますが、惟規の人柄や生き様を伝えるための工夫がされているのですね。

紫式部の弟・藤原惟規の死因:史実と光る君への比較

藤原惟規は、NHKの大河ドラマ『光る君へ』で重要なキャラクターとして描かれました。しかし、史実とは異なる点も多くあります。ここでは、ドラマと史実の違いを詳しく比較していきましょう。

『光る君へ』での藤原惟規—陽気で人懐っこいキャラクター

ドラマ『光る君へ』では、藤原惟規は姉・紫式部(まひろ)を支える、明るく人懐っこいキャラクターとして描かれています。演じた高杉真宙さんの軽妙な演技も相まって、「癒し系の弟」として多くの視聴者に愛されました。

ドラマの中で彼は、時に失敗をしながらも周囲を和ませる存在として活躍します。また、彼の和歌の才能もしっかりと描かれ、女性関係のエピソードも「ちょっとおちゃめな惟規」として表現されました。

一方、史実では彼がどのような性格だったのか、詳しい記録は残っていません。しかし、彼の和歌の内容からは「風流を好む人物」であったことがうかがえます。

そのため、ドラマで描かれた陽気な性格は、決して不自然なものではなく、史実の雰囲気をうまく再現していると言えるでしょう。

史実の藤原惟規—出世と失敗の狭間で

史実の藤原惟規は、父・藤原為時の期待を受け、宮廷で官職に就きました。しかし、彼のキャリアは決して順風満帆ではなく、挫折や失敗も経験しています。

たとえば、彼は宮廷で「蔵人(くろうど)」という天皇の秘書役を務めましたが、重要な場面で失敗をしてしまいます。『小右記(しょうゆうき)』という日記によると、ある年の年末に宮中で「僧侶に与える布」を惟規が誤って1人の僧侶にだけ渡してしまい、他の僧侶たちが布を奪い合うという混乱を引き起こしました。

この出来事について、当時の政治家・藤原実資(ふじわらのさねすけ)は「惟規は慣習を知らず、軽率な振る舞いをした」と批判しています。このように、惟規は貴族の世界で苦労しながらも、なんとか地位を築いていたのです。

「夜這い」のエピソード—惟規の恋愛と和歌の才能

藤原惟規には「夜這い(よばい)」に関する逸話があります。これは、平安時代の貴族の間で行われていた風習で、夜にこっそり女性のもとへ忍んで会いに行くことを指します。

『今昔物語集』によると、惟規はある夜、賀茂斎院(かものさいいん)という神社に仕える女性のもとへ夜這いをかけました。しかし、見張りの者に見つかってしまい、門を閉じられて逃げられなくなってしまいます。

この時、惟規はとっさに和歌を詠みました。

「神垣は 木の丸殿にあらねども 名乗りをせねば 人咎めけり」

この和歌は、天智天皇の詠んだ有名な歌をアレンジしたもので、見張りの者たちはその才に感心し、彼を許したと言われています。このエピソードからも、彼が即興で優れた歌を詠むことができる才能を持っていたことが分かります。

このような話は、現代の感覚で考えると驚くかもしれませんが、平安時代の貴族社会ではよくある出来事だったのです。

惟規の辞世の句と『光る君へ』での演出の違い

藤原惟規が亡くなる際に詠んだと言われる和歌は、ドラマでも印象的に描かれました。

史実では、彼は病に伏せる中で「都に帰りたい」という思いを込めた和歌を詠みましたが、その最後の「ふ」の字を書く前に息絶えたと伝えられています。
父の藤原為時がその字を代筆したという話は、感動的な逸話として知られています。

一方、『光る君へ』では、惟規が亡くなる場面は家族の愛情をより強調した形で描かれました。まひろ(紫式部)が涙ながらに惟規を見送り、家族の絆が描かれることで、より視聴者の心に残るシーンとなったのです。

藤原惟規の子孫—その後の家系の行方

藤原惟規は、ドラマでは独身のように描かれていましたが、史実では妻子がいたことが分かっています。彼の息子・藤原貞職(ふじわらのさだもと)は、その後も貴族として宮廷で働いていました。

さらに、貞職の曾孫には藤原邦綱(ふじわらのくにつな)という人物がいます。邦綱は、貴族の中では比較的低い地位からスタートしましたが、努力によって出世し、最終的には「正二位権大納言(しょうにいごんだいなごん)」という高い官位にまで昇進しました。

このように、藤原惟規の血筋はその後も宮廷で活躍し続けたのです。彼の子孫が平家との関わりを持つようになり、『平家物語』にも登場することは、意外と知られていない歴史の一面ですね。

総括:紫式部の弟・藤原惟規の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

✅ 藤原惟規の死因は病死とされているが、具体的な病名は不明
✅ 彼は父・為時とともに越後へ向かう途中で病に倒れ、現地で亡くなった
✅ 辞世の句を詠みながら息を引き取り、父が最後の一文字を書き足した
✅ ドラマでは、家族の愛情を強調した形で描かれた
✅ 実際の惟規は出世と失敗を経験しながらも、和歌の才能を発揮した人物だった