今日は、徳川家綱がしたことについて分かりやすく解説していきます。

「徳川家綱って誰?」
「何をした人なの?」
「簡単に知りたい!」

そんな疑問を持っている人に向けて、家綱の政策やエピソードを楽しく学べる記事を用意しました。

家綱は江戸幕府の4代将軍で、戦いの時代から平和な時代へと日本を導いた人物です。彼が行った重要な政策や、人柄が分かるエピソードをたくさん紹介するので、最後まで読んでくださいね!

徳川家綱がしたことを簡単に!主要な政策と影響

家綱の時代は、戦国時代の名残がまだあった江戸初期。しかし、彼の治世で「武力による支配」から「法律やルールによる統治」へと変わりました。

それでは、家綱が具体的にどのようなことをしたのか、5つの重要な政策を見ていきましょう!

徳川家綱がしたこと①:文治政治への転換

家綱の時代、大きな変化が起こりました。それは「武断政治」から「文治政治」への転換です。

武断政治とは?

簡単に言うと、「武力で人々を支配する政治」です。江戸幕府の3代目までの将軍は、大名たちを厳しく取り締まり、少しでも幕府に反抗しそうな者は力で押さえつけていました。

文治政治とは?

家綱の時代になると、戦争が減り、平和な社会になってきました。そこで、武力ではなく、法律やルールによる統治を進めたのです。大名たちが家を継ぐルールを緩和し、むやみに取り潰しをしないことで、日本全体が安定しました。

家綱のこの方針により、戦国時代のような混乱が減り、人々は安心して暮らせるようになったのです。

徳川家綱がしたこと②:殉死の禁止

昔の武士には「殉死(じゅんし)」という風習がありました。これは、主君が亡くなったら、家臣が後を追って自ら命を絶つというものです。

「主君のために命を捧げる!」という考え方は、武士にとって名誉なこととされていました。しかし、これでは優秀な家臣たちがどんどんいなくなってしまいます。家綱はこれを問題視し、殉死を禁止しました。

この決定により、武士たちは無駄に命を失うことなく、次の時代へと家を守ることができるようになりました。この政策のおかげで、幕府の安定にもつながったのです。

徳川家綱がしたこと③:大名証人制度の廃止

江戸幕府では、大名たちの忠誠を確かめるために「大名証人制度」という仕組みがありました。これは、大名の家族(特に子どもや妻)を江戸に住まわせ、人質のようにする制度です。

しかし、家綱はこの制度を廃止しました。なぜなら、すでに幕府の権力が強くなり、大名たちが反抗することが少なくなったからです。さらに、大名たちの家族が自由に暮らせることで、地方の統治も安定し、幕府の支配がよりスムーズになりました。

徳川家綱がしたこと④:明暦の大火後の復興

明暦3年(1657年)、江戸で大きな火事がありました。これが「明暦の大火」です。この火事では、なんと江戸城の天守閣まで焼け落ち、死者は10万人以上とも言われています。

この大火の後、家綱は「庶民の復興を最優先せよ」と命じました。江戸城の再建よりも、町人のための住まいや橋の建設を急がせたのです。このとき造られた「両国橋」は、現在も東京都に残っています。

家綱のこの対応により、江戸の人々は安心して暮らせるようになりました。まさに「人々のことを第一に考える将軍」だったのです。

徳川家綱がしたこと⑤:度量衡制度の統一

江戸時代以前、日本各地では「重さ」「長さ」「体積」などの基準がバラバラでした。例えば、同じ「一升」でも地域によって量が違うため、商人たちはとても困っていました。

そこで家綱は「度量衡(どりょうこう)」という基準を統一し、全国どこでも同じ重さや長さを使うようにしました。これにより、商売がしやすくなり、日本全体の経済が発展しました。

この政策は、現在のメートル法にもつながる重要な改革だったのです。

徳川家綱がしたことを簡単に:人柄とエピソード

家綱は政策だけでなく、人柄の面でもとても魅力的な将軍でした。今回は、彼の優しさや考え方が分かる5つのエピソードを紹介します!

罪人を思いやった家綱の言葉—「食べるものはあるのか?」

家綱がまだ子どもの頃の話です。ある日、家臣たちが罪人の処罰について話していました。当時、罪人の処罰には「死刑」と「流罪(るざい)」があり、流罪になった人は遠くの島へ送られました。

家綱はふと、家臣にこう尋ねました。

「流罪になった人たちは、どうやって暮らしているのだろう? 食べるものはあるのか?」

家臣たちは答えに困りました。なぜなら、流された人は放置されることが多く、食料も十分に与えられていなかったからです。

それを知った家綱は、「それでは命を助けた意味がない!」と言い、流罪になった人にもきちんと食料を与えるよう命じました。

この話を聞いた父・家光はとても喜び、「竹千代(家綱)の仕置き(政治の仕事)始めにしよう」と言い、すぐに実行させました。このエピソードからも、家綱が幼いころから人の気持ちを思いやる優しい心を持っていたことが分かります。

「遠望鏡」を使わなかった理由—将軍としての配慮とは?

家綱が将軍になったばかりの頃、家臣が「遠望鏡(えんぼうきょう)」を勧めました。これは、遠くの景色を見渡せる望遠鏡のような道具です。

家臣は「これを使えば、城下の様子がよく見えますよ!」と勧めましたが、家綱はこう答えました。

「もし、私が高いところから庶民を見下ろしていると知れたら、人々は監視されているような気持ちになり、不安になるだろう」

そのため、家綱は遠望鏡を城下町を見るために使うことはありませんでした。
この話からも、家綱が庶民の気持ちをとても大切にしていたことが分かりますね。

「お吸い物の中の髪」— 家臣をかばった家綱の優しさ

ある日、家綱が食事をしていたときのこと。お椀に入っていたお吸い物の中に、一本の髪の毛が入っていました。普通なら、「誰の髪だ!」と叱る人もいるかもしれません。

しかし、家綱は何も言わず、そっと箸で髪の毛を取り除きました。

給仕係(食事を運ぶ人)が慌てて新しいものと交換しようとしましたが、家綱はこう言いました。

「このお吸い物は途中で捨てず、空にして下げなさい」

これは、「おかわりしただけ」に見せるための配慮でした。もし、髪の毛が入ったことで新しいものと交換してしまったら、誰かが責められてしまいます。家綱はそんなことをさせたくなかったのです。

このエピソードからも、家綱の人を思いやる気持ちが伝わってきますね。

明暦の大火の後、最優先したのは「庶民の暮らし」

明暦3年(1657年)、江戸で大火事が発生しました。これが「明暦の大火(めいれきのたいか)」です。この火事では、江戸城の天守閣まで焼け落ち、町全体が大きな被害を受けました。

火事の後、幕府の役人たちは「まずは江戸城を修理しよう」と言いましたが、家綱はこう命じました。

「城よりも、町の人々の生活を優先しなさい!」

家綱はすぐに、住む場所を失った庶民のために新しい家を作るよう指示しました。さらに、火事の避難経路を増やすために、新しい橋をたくさん作りました。その中でも有名なのが、「両国橋(りょうごくばし)」です。

このときの家綱の判断が、後の江戸の発展にも大きく貢献しました。

趣味は「絵を描くこと」— 家綱画伯の作品とは?

家綱はとても芸術を愛した将軍でした。特に好きだったのが、絵を描くことです。

彼の作品には、「闘鶏図(とうけいず)」「小鳥図(ことりず)」「鶏図(にわとりず)」などがあり、どれも繊細なタッチで描かれています。特に「雄鶏図(おんどりず)」という作品は、力強く描かれた雄鶏が特徴的です。

また、父・徳川家光も絵を描くのが好きだったため、家綱はその影響を受けたのかもしれませんね。将軍でありながら芸術の才能もあった家綱の一面を知ると、ますます興味が湧いてきますね!

総括:徳川家綱がしたことを簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

✅ 主要な政策

  1. 文治政治への転換
    • 「武力で支配」する武断政治から、「法律で統治」する文治政治へ移行。
    • 大名の家を取り潰すことを減らし、社会を安定させた。
  2. 殉死の禁止
    • 主君の死後、家臣が後を追って命を絶つ「殉死」を禁止。
    • 優秀な武士が無駄に命を失うことを防ぎ、幕府の安定につなげた。
  3. 大名証人制度の廃止
    • 大名の家族を江戸に人質のように置く制度を廃止。
    • 大名が自由に統治できるようになり、幕府の支配が強まった。
  4. 明暦の大火(1657年)後の復興
    • 江戸城の再建よりも庶民の生活再建を優先。
    • 避難経路の確保のため、新たに「両国橋」などの橋を建設。
  5. 度量衡制度の統一
    • 地域ごとにバラバラだった「重さ」「長さ」「体積」の基準を統一。
    • 商業の発展を促進し、日本の経済を安定させた。

✅ 家綱の人柄が分かるエピソード

  1. 罪人を思いやる心
    • 「流罪の人たちはどうやって生きるの?」と疑問を持ち、食料支給を命じた。
  2. 遠望鏡を使わなかった配慮
    • 「将軍が高いところから町を見下ろしていたら、庶民が不安になる」として使用を拒否。
  3. お吸い物の髪の毛事件
    • 食事中に髪の毛が入っていたが、誰も責めずに配膳係をかばった。
  4. 明暦の大火後の対応
    • 住民の生活復興を最優先し、幕府の対応を庶民目線で指示。
  5. 絵を描くのが趣味だった
    • 「闘鶏図」や「小鳥図」など、芸術作品を残した。