江戸幕府最後の将軍 「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」 について解説します。
「徳川慶喜ってどんな最期を迎えたの?」「晩年はどう過ごしていたの?」と気になっている人も多いでしょう。
彼は、激動の幕末を生き抜いた後、穏やかな晩年を送りました。しかし、その死因には意外な理由があったのです。
今回は、徳川慶喜の死因や晩年の暮らし、そして何歳で亡くなったのか をわかりやすく説明します!
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徳川慶喜の死因とは?何歳で亡くなったのか解説
幕末の歴史を大きく動かした徳川慶喜ですが、実は歴代将軍の中で最も長生き した人物でもあります。彼は77歳(満年齢76歳)で亡くなり、その死因は「急性肺炎」でした。
ここでは、彼の死因や最期の様子を詳しく見ていきましょう。
徳川慶喜の死因は「風邪をこじらせた肺炎」だった
徳川慶喜の死因は「風邪から悪化した急性肺炎」です。当時は風邪が原因で命を落とすことも珍しくありませんでした。
慶喜が体調を崩したのは1913年(大正2年)11月5日のことです。この日、彼の九男・徳川誠(まこと)が「男爵」という爵位を授けられました。そのお礼を伝えるため、宮中(天皇のいる場所)へ出かけたのですが、すでに風邪気味だったのです。
体調が悪い中、外出したことで風邪が悪化し肺炎を発症してしまいました。その後、病状はどんどん悪くなり11月22日午前4時に亡くなりました。
徳川慶喜は何歳で亡くなった?歴代将軍の中で最も長寿
徳川慶喜は77歳(満年齢76歳)で亡くなりました。これは歴代の徳川将軍の中で最も長生きした記録です。
たとえば、初代将軍・徳川家康は73歳、8代将軍・徳川吉宗は67歳でした。それに比べると、慶喜はとても長生きだったといえます。
また、彼が亡くなったのは明治天皇が崩御(亡くなった)した 1年4カ月後 でした。そのため「天皇の死を追うように亡くなったのでは?」という説もあるのです。
徳川慶喜の最期の様子 – 死の直前に語った言葉
徳川慶喜は死の直前まで冷静でした。
彼は亡くなる前日に息子の慶久(よしひさ)と家臣の豊崎信を呼び、こう言いました。
「今度の病気はとても回復は見込めない。私は死ぬる。決して慌ててはならないぞ。」
まるで自分の死を予言していたかのようですね。実際、この言葉を残した数時間後に静かに息を引き取ったのです。
徳川慶喜の葬儀は歴代将軍と異なる「神式」で行われた
歴代の徳川将軍たちは、仏式(お寺で行う葬儀)で執り行われました。しかし、慶喜の葬儀は「神式」で行われたのです。
これは、彼が天皇を敬っていたからだと言われています。実際、彼は「自分の葬儀は神式にしてほしい」と遺言を残していました。
葬儀の際には、多くの人々が参列し、沿道には彼の最期を見届けようとする人々が集まりました。慶喜の死は江戸幕府の最後の名残が消えた瞬間として、多くの人に深い感慨を与えたのです。
徳川慶喜の墓所と墓の特徴 – どこに眠っているのか?
徳川慶喜の墓は東京都台東区の谷中霊園にあります。歴代の将軍たちの墓所は上野の寛永寺や芝の増上寺ですが、彼は「将軍の墓には入りたくない」と望みました。
彼の墓は円墳型という珍しい形をしています。また、彼の正妻・美賀子(みかこ)や側室たち、子どもたちも同じ場所に眠っています。
このように、慶喜の最期は他の将軍とは違う特別なものだったのです。
徳川慶喜の死因が分かったら:晩年の人生とは
徳川慶喜は32歳で幕府を去り、政治とは関わらずに生きました。
彼は趣味に没頭し、まるで「一般人」のような生活を送ったのです。ここでは、彼の晩年について詳しく見ていきましょう。
徳川慶喜の晩年は「趣味三昧」だった – 政治から完全に引退
徳川慶喜は32歳で静岡へ移住し、政治の表舞台から完全に身を引きました。彼は「自分の代で幕府を終わらせてしまった」という後悔があり「二度と政治には関わらない」という強い意志を持っていたのです。
では、彼は何をして過ごしていたのでしょうか?
答えは「趣味三昧の生活」です!
彼が夢中になった趣味を挙げると、
- 狩猟・鷹狩り・投網(魚を捕る技術)
- 囲碁・将棋・謡曲・能(日本の伝統芸能)
- 写真撮影・洋画(西洋の絵画)
- 蓄音機(レコード)、アイスクリーム作り
など、まるで江戸の貴族のような多彩な趣味を楽しんでいました。特に写真撮影は彼の最大の趣味のひとつで、当時の日本では珍しい「将軍カメラマン」でもありました。
「写真愛好家」としての徳川慶喜 – 日本初の「将軍カメラマン」
徳川慶喜は日本の写真文化に大きな影響を与えた人物です。当時、カメラはとても高価で珍しいものでしたが、彼は自らカメラを操作し、多くの写真を撮影しました。
彼が撮影した写真の中には、
- 自分の姿を鏡に映して撮った「セルフポートレート」(今でいう自撮り)
- 静岡の美しい自然や風景
- 鷹狩りの様子
などがあり、現代にもその写真が残っています。
また、彼は写真愛好家向けの雑誌に投稿していたこともあり、単なる趣味ではなく、本格的にカメラを研究していたことがわかります。
こうして、徳川慶喜は「日本で最初のカメラ好きな将軍」としても有名になったのです。
明治30年に静岡から東京へ移住 – その理由とは?
徳川慶喜は32歳から長年静岡で暮らしていましたが、1897年(明治30年)に突然東京へ移住しました。
なぜでしょうか?
実は、この移住には2つの理由があります。
1. 健康のため
晩年の慶喜は体調を崩しやすくなっていました。東京には当時最高レベルの医療があり、静岡に比べると名医が多くいたため、病気を治すために移ったのです。
2. 子どもたちの独立
慶喜の子どもたちは成長し、静岡を離れて東京で暮らしていました。そのため、静岡にいる理由がなくなり、家族と過ごすために東京へ移住したのです。
こうして、晩年の慶喜は東京・巣鴨(現在の文京区)で静かに暮らしました。
徳川慶喜の「公爵叙任」とその後の貴族院議員生活
明治政府は元将軍である徳川慶喜を「公爵」にすることを決めました。これは、慶喜が明治政府と敵対せず、静かに暮らしていたことが評価されたためです。
1902年(明治35年)、慶喜は正式に「公爵」の爵位を授与 され、日本の政治を支える「貴族院議員」になります。
しかし、彼は「政治には二度と関わらない」という信念を貫き、実際にはほとんど貴族院に出席しませんでした。
そして、1910年には隠居を決意し、爵位を息子・徳川慶久に譲ることになります。彼の人生の中で「将軍」「貴族院議員」という肩書きを持ちながらも、どちらも実質的には何もせず静かに暮らしていたというのが慶喜らしいですね。
「徳川慶喜の子孫」と「慶喜家」 – その後の家系の行方
徳川慶喜は10男11女、合計21人の子どもに恵まれました。しかし、その多くは幼い頃に亡くなってしまいました。
特に、後継者となった徳川慶久 は1922年に脳溢血で急死し、一部では「自殺だったのでは?」という噂もあります。その後、慶喜の家系(徳川慶喜家)は存続し、現在でもその子孫が文化・歴史の分野で活躍しています。
慶喜の子孫の一人徳川慶朝(よしとも)氏は、歴史研究家として徳川家の歴史を広める活動をしていました。また、彼の子孫の中には現代の企業経営者や文化人もいると言われています。
このように、徳川慶喜の血筋は現代にも受け継がれているのです。
総括:徳川慶喜の死因&晩年の様子まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 徳川慶喜の死因と最期の様子
- 死因は「風邪をこじらせた急性肺炎」
- 1913年11月5日、九男・徳川誠の男爵授与の「お礼まわり」で宮中へ外出 → 風邪を悪化させる
- 11月22日午前4時、77歳(満年齢76歳)で逝去
- 死の直前に「私は死ぬる。決して慌ててはならない」と発言
- 歴代徳川将軍の中で最も長寿(77歳)
2. 葬儀と墓所について
- 葬儀は歴代将軍と異なり「神式」で実施(天皇への敬意から)
- 墓所は東京都台東区・谷中霊園(将軍家の墓ではなく自ら選択)
- 墓は珍しい 「円墳型」 で、正妻や側室、子どもたちも近くに眠る
3. 晩年の暮らし – 政治を捨て、趣味に没頭
- 32歳で静岡に移住し、政治から完全引退
- 趣味:狩猟、鷹狩り、囲碁、将棋、写真撮影、洋画、アイスクリーム作り
- 「将軍カメラマン」として写真撮影に熱中し、自ら雑誌にも投稿
4. 晩年の東京移住と公爵叙任
- 1897年(明治30年)、健康と家族のために静岡から東京へ移住
- 1902年、明治政府から「公爵」の爵位を授与される
- 貴族院議員に任命されるが、ほとんど政治活動には参加せず
- 1910年に隠居し、爵位を息子・徳川慶久に譲る
5. 徳川慶喜の子孫とその後
- 10男11女(計21人)の子どもをもうけるが、多くが早世
- 徳川慶久は 1922年に脳溢血で急死(一部で自殺説もあり)
- 子孫は現在も存続し、歴史研究や文化活動に関与
- 徳川慶朝(よしとも)氏は歴史研究家として活動
