今日は「南満州鉄道株式会社(通称:満鉄)」について、子どもたちにも分かりやすく解説していきます。

名前だけ聞くと、ただの鉄道会社のように思えるかもしれませんが、じつは日本が中国の満州という地域に進出するうえで、とても重要な役割をもっていた会社なんです。

誰が作ったの?どんなメリットがあったの?という疑問に答えながら、しっかり学んでいきましょう!

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南満州鉄道株式会社をわかりやすく!設立の背景と役割

南満州鉄道株式会社(満鉄)は、1905年の日露戦争後、日本がロシアから引き継いだ鉄道利権を活用するために設立された国策会社です。単なる鉄道会社ではなく、日本の中国大陸への進出を支える重要な役割を持っていました。

南満州鉄道株式会社とは?日露戦争後に生まれた国策会社

南満州鉄道株式会社、略して「満鉄」は、1906年に日本政府が設立した「半分は政府、半分は民間」の会社です。これは日露戦争で日本が勝ったことにより、ロシアから満州の鉄道を運営する権利をもらったのがきっかけです。

この満鉄はただの鉄道会社ではありませんでした。

鉄道を走らせるだけでなく、満州という広大な地域で日本が植民地のように支配していくための“足がかり”として活躍したのです。つまり、満鉄は日本の大陸進出を支えるとても大切な「国策会社」だったのです。

誰が作った?後藤新平と児玉源太郎の関係

この満鉄を作ったのは、政治家で医師でもあった「後藤新平(ごとうしんぺい)」です。満鉄の初代総裁(社長)に就任した人物で、じつは台湾の発展にも大きく貢献したすごい人なんです。

後藤を満鉄に推薦したのは、軍人の「児玉源太郎(こだまげんたろう)」将軍でした。児玉さんは「満州でも台湾のように成功してほしい」と思い、信頼できる後藤さんに会社のトップを任せたのです。

この2人のタッグによって、満鉄はただの鉄道会社を超えた“日本の満州開発の中心”として動き出すことになりました。

目的は?軍事・経済の二つの顔

満鉄の目的は大きく2つあります。ひとつは鉄道を使って人や物を運ぶ経済的な役割、もうひとつは軍隊の移動や情報収集をする軍事的な役割です。

満州という土地は広くて資源も豊か。そのため、日本はそこを自分たちの経済や軍事のために利用したいと考えていました。満鉄はその“道具”として、鉄道だけでなく、港や炭鉱(たんこう)などの運営にもかかわっていきます。

さらに、沿線には「鉄道付属地」という特別な地域を持ち、そこでは日本の法律が通用するなど、まるで日本の領土のような扱いをされていたのです。つまり、満鉄はただの会社ではなく、日本の満州支配の柱だったのです。

南満州鉄道株式会社のメリット

満鉄が日本にもたらしたメリットはたくさんあります。特に大きかったのは経済的な利益情報収集の力です。

満州では大豆や豆油、豆かすといった「大豆三品」がたくさん生産され、それを満鉄が運ぶことで日本にとって大きな収入源となりました。また、石炭や鉄鉱石などの資源も満鉄の手でどんどん輸送され、製鉄業やエネルギーの供給にも役立ちました。

さらに注目すべきは「満鉄調査部」というシンクタンクの存在です。この調査部は、満州や中国、さらには世界の情勢を調べて、日本政府や軍に報告していました。つまり、満鉄は経済と情報の中心的な存在だったのです。

本社はどこ?大連が拠点だった理由

満鉄の最初の本社は日本の東京にありましたが、のちに中国の大連(だいれん)という都市に移されました。これはなぜかというと、大連は満州にある大きな港町で、交通の要所でもあったからです。

現地に本社を置くことで、鉄道の運営や他の事業をすばやく判断・実行できるようになりました。たとえば、炭鉱の管理や港の整備、輸送計画なども、現地で決めるほうがスムーズだったからです。

こうして大連は満鉄の拠点となり、満鉄のビルや電車、ガス、水道など、都市のインフラまで整えられていきました。つまり、大連は日本の満州支配の“中心地”となったのです。

南満州鉄道株式会社と中国進出の関係をわかりやすく

南満州鉄道株式会社(満鉄)は、日本が中国大陸に進出していくうえで中心的な役割を果たしました。

ここでは、満州事変や満州国との関係、さらには戦争とのつながり、満鉄の終わりについてわかりやすく見ていきましょう。

南満州鉄道と満州事変の関係

1931年、日本の関東軍は満州である事件を起こします。自分たちで満鉄の線路を爆破し、それを中国軍のしわざだとウソをついたのです。この事件が「柳条湖事件」と呼ばれ、これをきっかけに始まったのが「満州事変」です。

関東軍は、この爆破事件を理由に戦いを始め、満州の大部分を占領しました。つまり、満鉄の線路は戦争のきっかけとして使われたのです。このように、満鉄は単なるインフラではなく、軍の行動を正当化するための口実にもなっていたという点が、とても重要なのです。

南満州鉄道株式会社と満州国の関係

1932年、日本は満州に「満州国(まんしゅうこく)」という新しい国を作ります。しかしこれは、実際には日本がコントロールしていた「傀儡国家(かいらいこっか)」でした。表向きは中国から独立した国のように見せていましたが、実際の支配者は日本だったのです。

満鉄は、この満州国で非常に重要なインフラ企業として活動しました。鉄道の運営だけでなく、経済、交通、資源開発などにも関わり、多くの満鉄社員が満州国政府の役人としても働いていました。つまり、満鉄は国家を動かす人材の供給元でもあったのです。

事業内容は?鉄道以外にも多岐にわたる経営

満鉄は、鉄道だけでなく、さまざまな事業に関わっていました。たとえば、炭鉱の運営、製鉄業、港の整備、ホテル経営、ガスや電気の供給、農業・畜産事業などです。

さらに、満鉄は「大連汽船」や「南満州電気株式会社」などの子会社をたくさん作って、物流やエネルギー供給まで手がけていました。このようにして、満鉄はひとつの巨大企業グループ(コンツェルン)として、大きな経済圏をつくっていったのです。

こうした経済の広がりは、日本の満州支配を強める手段でもありました。満鉄はただの鉄道会社ではなく、満州を日本色に染めていくエンジンのような存在だったのです。

終焉はいつ?敗戦によってソ連に接収される

1945年、日本が第二次世界大戦で敗れると、満鉄にも大きな転機が訪れます。満州に進軍してきたソ連軍によって、満鉄は接収(せっしゅう)されてしまいました。

これにより、南満州鉄道株式会社という会社は消滅し、路線や資産は「中国長春鉄路」として再編され、中国に引き継がれていきました。

最盛期には、鉄道営業キロ数1万キロ以上、社員は20万人以上を誇った巨大企業も、戦争の終わりとともに消え去ったのです。

南満州鉄道株式会社の評価と歴史的意義

南満州鉄道株式会社は、日本にとって多くのメリットをもたらしました。経済的な利益、満州開発、インフラ整備、情報収集など、国を支える存在だったことは間違いありません。

しかしその一方で、中国への侵略や戦争の加速、植民地支配の道具として使われた面も否定できません。満鉄は軍と深く関わり、満州事変や日中戦争のきっかけのひとつともなりました。

だからこそ、歴史のなかで満鉄を学ぶときは、「良い面」だけでなく「悪い面」もあわせて考えることが大切です国策会社とは何か?日本が過去にどのような行動をしたのか?を知るうえで、南満州鉄道株式会社はとても重要な存在といえるでしょう。

総括:南満州鉄道株式会社をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 南満州鉄道株式会社(満鉄)は、1906年に日本政府が設立した国策会社で、鉄道運営だけでなく、満州支配の中心的な役割を果たした。
  • 設立のきっかけは、日露戦争に勝利してロシアから鉄道利権を得たこと。
  • 後藤新平が初代総裁で、児玉源太郎の推薦により就任した。
  • 満鉄の目的は経済活動と軍事支援の両面があり、資源輸送や軍の移動にも使われた。
  • 満鉄は大連を本社に置き、都市インフラの整備にも大きく貢献した。
  • 満州事変では、関東軍が満鉄の線路を爆破し、中国軍のせいにして戦争を始める口実とされた。
  • 満州国では、満鉄が経済やインフラを支える中心企業として機能し、政府人材の供給元にもなった。
  • 鉄道以外にも炭鉱、港、電気、ホテルなど多方面の事業を展開した。
  • 1945年の日本の敗戦後、満鉄はソ連に接収されて消滅した。
  • 経済的利益や発展の一方で、戦争や植民地支配の手段として使われた負の側面も持つ。
  • 満鉄の歴史を学ぶことで、日本の過去の行動や国策会社の役割を理解できる。