今回は「GHQは日本に何をしたか?」というテーマを、簡単に分かりやすく解説していきます。

戦後の日本は、アメリカを中心とする連合国軍に占領されていました。そしてその中心にいたのが「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)」です。GHQは、日本にさまざまな改革を命じ、新しい社会のかたちを作っていきました。

この記事では、その政策や目的、そして日本にどんな影響を与えたのかを、小学生でも分かるようにまとめました!

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GHQは日本に何をしたのか?政策一覧を簡単に解説

戦後の日本は、GHQによる占領のもとで大きく生まれ変わりました。その目的は、「二度と戦争をしない平和な国」をつくること。GHQはそのために、政治、教育、経済、社会制度にいたるまで、たくさんの改革を行いました。

ここでは、GHQが日本に行った主な政策を5つのポイントで紹介していきます!

「非軍事化」と「民主化」を目的に占領政策を実施

GHQが日本に行った最大の目的は、「非軍事化」と「民主化」でした。簡単に言うと、「軍隊をなくして戦争できないようにする」ことと、「国民が自由に意見を言えて、政治にも参加できる社会にする」ということです。

戦前の日本は軍部が力を持ちすぎていて、国民の自由はほとんどありませんでした。GHQはそれを根本から変えるために、まずは軍隊を解体し、戦争犯罪の責任者を裁きました(東京裁判)。さらに、国民一人ひとりの自由や権利を守る社会をつくるよう、日本政府に指示を出しました。

憲法改正を指示し日本国憲法の基礎を作った

GHQの指示で、戦前の「大日本帝国憲法」は新しく「日本国憲法」に生まれ変わりました。この新しい憲法は、1946年に公布され、翌年から施行されました。

最大のポイントは3つあります。 1つ目は「主権在民」――つまり国の主人公は国民であるという考え方。 2つ目は「戦争放棄」――日本はもう戦争をしないという約束です(第9条)。 3つ目は「基本的人権の尊重」――自由や平等など、すべての人が生まれながらに持っている権利を守ることです。

この憲法によって、日本は軍国主義から脱却し、平和と民主主義の国への第一歩を踏み出したのです。

教育制度を民主化:6・3・3・4制と義務教育を導入

教育の分野でも、GHQは大きな改革を行いました。戦前の教育は軍国主義的で、天皇への忠誠を教える内容が多く含まれていました。GHQはこれを問題視し、教科書の軍国主義的な部分を墨で塗りつぶすよう指示しました(いわゆる「墨塗り教科書」)。

そして、学校制度をアメリカにならった「6・3・3・4制」に変更しました。小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年という今の基本的な制度です。さらに、小中学校の9年間を「義務教育」と定め、すべての子どもが教育を受けられるようにしました。

これにより、教育が特権的なものではなく、すべての国民にとっての権利となったのです。

女性の参政権や労働者の権利を保障した五大改革を実施

GHQは、戦後の民主化を進めるために「五大改革指令」という政策を出しました。その中で特に重要なのが、女性の選挙権の実現です。これにより、1946年の選挙ではじめて女性が投票できるようになりました。

さらに、労働者にも大きな変化がありました。GHQは労働組合の結成を認め、労働者が自分たちの権利を守るために団結できるようにしました。加えて、秘密警察(特高)や治安維持法など、言論の自由を制限する法律も廃止されました。

これにより、日本社会の中で声を上げる力を持てる人が増えたのです。

財閥解体と農地改革で経済の民主化を進めた

GHQは経済面でも大きな改革を行いました。その1つが「財閥解体」です。戦前、日本の経済を支配していた財閥(三井・三菱・住友など)は、巨大な力を持っていました。GHQはこれを問題視し、企業グループの分割を命じました。

もう1つが「農地改革」です。これまで多くの農民が地主に土地を借りて農業をしていましたが、GHQは地主の土地を国が買い上げ、それを農民に安く売ることで、自分の土地を持てるようにしました。

この改革で農民の生活は安定し、日本の農業も大きく改善されたのです。

GHQは日本に何をしたか簡単に:その後の政策転換と評価

GHQの占領政策は、日本に大きな改革をもたらしましたが、時間の経過とともにその方針も変化していきました。特に、冷戦の始まりや朝鮮戦争の影響によって、GHQは日本に再び「軍事」と「経済強化」を求めるようになります。ここでは、GHQの政策がどのように転換したのか、そしてそれが日本にどんな影響を与えたのかを見ていきましょう。

朝鮮戦争をきっかけに再軍備と経済重視の方針に転換した

当初、GHQは「日本から戦争の可能性をなくすこと」を目的に、徹底した非軍事化を行いました。しかし1949年、中国で共産党が政権を取り、1950年には朝鮮戦争が始まります。アメリカは「アジアでも共産主義が広がってしまう」と危機感を抱くようになりました。

そこでアメリカは方針を変更し、日本に「共産主義の防波堤」としての役割を期待し始めます。その結果、1950年に警察予備隊(のちの自衛隊)が設置され、日本は再び軍事力を持つ方向に進んでいきました。GHQの方針転換により、日本は安全保障と経済復興を同時に進める時代へと入ったのです。

ドッジ・ラインで日本経済を安定させた

戦後の日本は深刻なインフレ(物価が急激に上がる状態)に苦しんでいました。これに対してGHQは、アメリカの経済顧問ジョセフ・ドッジを招き、「ドッジ・ライン」と呼ばれる経済政策を実施します。

ドッジ・ラインでは、赤字の出ない「均衡予算」を基本とし、政府の支出を抑えることが命じられました。また、1ドル=360円の単一為替レートが設定され、日本経済が国際的に安定するようにしました。

さらに、「シャウプ勧告」により、直接税中心の税制(所得に応じて税率が変わる仕組み)が導入され、現在の日本の税体系の基礎が築かれました。これらの政策によって、日本経済は次第に立ち直り、成長への道を歩み始めたのです。

「ララ物資」など人道的支援が行われた

GHQは、日本の生活を支えるために、食料や衣料、医療品などの人道的な支援も行っていました。その代表が「ララ物資」です。

「LARA(ララ)」とは、「アジア救済連盟」のことで、アメリカの宗教団体や社会団体が集まって、困っている人々を助ける活動をしていた団体です。このララがGHQと協力し、日本に物資を送ってくれたのです。

脱脂粉乳、石けん、衣類、さらには山羊や牛まで送られました。戦後の食料難の時代に、多くの子どもたちがこの支援で救われました。国会では感謝決議が出されるなど、日本国民にとって大きな支えとなった支援でした。

検閲や言論統制も存在

GHQの改革はすべてが「自由と平和」のためだったかというと、実はそうでもありません。実際には、報道・出版・映画などへの厳しい検閲も行われていました。

日本政府やマスコミは、GHQの方針に反する内容を発表することができず、「GHQを批判してはいけない」「原爆の被害については報道するな」など、自由な表現が制限されることが多々ありました。

これは、言論の自由を重視する民主主義の理念と矛盾するものでした。GHQによる占領には、理想的な面と現実的な制限の両方が存在していたのです。

戦後改革に大きな影響を与えたが日本人の努力も不可欠だった

GHQの政策が日本を大きく変えたのは事実です。しかし、それを受け入れて実際に動かしたのは日本人自身でした。例えば、新しい憲法を学ぶために使われた中学校の副読本「あたらしい憲法のはなし」は、GHQの意向を受けつつも、日本人の手で作られました。

この本では、「国の主権は国民にある」という民主主義の考え方が、子どもたちにも分かるように説明されています。また、復興や民主主義の実現には、政治家や役人だけでなく、教師や市民、農民、労働者などあらゆる人たちの協力が不可欠でした。

GHQと日本人の努力が合わさって、今の日本の平和で民主的な社会が形づくられたのです。

総括:GHQは日本に何をしたか簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

✅ GHQの占領政策の目的と改革内容

  • GHQは「非軍事化」と「民主化」を目的に日本を占領
  • 日本国憲法を制定し、「戦争放棄」「主権在民」などを実現
  • 教育制度を民主化し、6・3・3・4制や義務教育を導入
  • 女性の参政権や労働者の権利を保障する「五大改革」を指示
  • 財閥解体・農地改革により経済の民主化を推進

✅ 占領後期の政策転換とその影響

  • 冷戦と朝鮮戦争により再軍備と経済重視の政策へ転換
  • ドッジ・ラインやシャウプ税制で日本経済の安定を図る
  • 「ララ物資」などアメリカからの人道支援が行われた
  • GHQによる検閲や表現の制限も存在した
  • 日本人の努力とGHQの指導がともに戦後復興を支えた