今回は、

「東京裁判で生き残った人は誰だったのか?」
「死刑になったのはどんな人たちか?」


という疑問にズバリ答えていきます。

東京裁判は第二次世界大戦後、日本の戦争責任を問うために開かれた裁判です。A級戦犯として裁かれた28人のうち、死刑になった人もいれば、生き残って戦後に政界復帰を果たした人もいました。

この記事では、その“生き残り組”を中心に、分かりやすく一覧で紹介し、さらに一人ひとりの人物像を深掘りしていきます。

まずは「東京裁判で生き残った人」たちを詳しく見ていきましょう!

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東京裁判で生き残った人:不起訴や絞首刑を免れた人物一覧

東京裁判ではA級戦犯として28名が起訴されましたが、そのうち絞首刑を免れた19名がいます。彼らのなかには、戦後に政界へ復帰した人物もいれば、終身刑や有期刑で服役し、その後に恩赦で出所した人もいました。

ここではまず、不起訴になった1名と、有罪判決を受けたものの死刑を免れた18名を、一覧表にまとめて紹介します。

東京裁判の生き残り一覧表

絞首刑を免れたのは以下の人物です。

名前役職・肩書判決備考
松岡洋右元外相不起訴裁判中に病死(公判前に不起訴)
重光葵元外相有期刑(7年)出所後に政界復帰、外相を再任
賀屋興宣元大蔵大臣有期刑(7年)出所後に政界復帰
木戸幸一内大臣、昭和天皇側近終身刑恩赦で仮釈放
広瀬豊作陸軍中将終身刑
小磯国昭元首相終身刑
南次郎朝鮮軍司令官終身刑
平沼騏一郎元首相終身刑
星野直樹内務官僚有期刑(5年)
永野修身元海軍大将終身刑
東郷茂徳元外相有期刑(20年)
嶋田繁太郎元海軍大臣有期刑(7年)
鈴木貞一陸軍官僚有期刑(7年)
橋本欣五郎陸軍軍人・皇道派の中心人物有期刑(7年)
岡敬純海軍軍人有期刑(7年)
佐藤賢了陸軍軍人有期刑(7年)
木村兵太郎陸軍軍人終身刑
大島浩駐独大使有期刑(10年)
佐藤東四郎陸軍軍人有期刑(7年)

重光葵|戦後に外相復帰した東京裁判被告の軌跡

重光葵(しげみつ まもる)は、外務官僚として戦前から外交の最前線に立っていた人物です。戦中は外相を務め、1945年の降伏文書に日本代表としてサインしたことでも知られています。

東京裁判ではA級戦犯として起訴され、懲役7年の有罪判決を受けました。しかし、服役中に恩赦を受け、1950年に出所。その後、1954年には吉田内閣で再び外相に任命され、政界復帰を果たします。

戦犯からのカムバックという珍しい経歴を持ち、戦後の日本外交を再び担った重要人物です。

賀屋興宣|戦犯から政界復帰した「恩赦組」の代表格

賀屋興宣(かや おきのり)は、戦時中に大蔵大臣を務めた人物で、戦争遂行に必要な財政政策に関与していたため、A級戦犯として起訴されました。

東京裁判では懲役7年の刑に処されましたが、重光葵と同様に恩赦で出所。その後、1953年の総選挙で衆議院議員に当選し、政界に復帰します。最終的には岸信介内閣で法務大臣も務めました。

「戦犯から国政へ戻った人物」としては象徴的な存在であり、日本の戦後政治の複雑さを体現しています。

木戸幸一|昭和天皇の側近としての罪と裁き

木戸幸一(きど こういち)は昭和天皇の側近であり、内大臣として重要な助言を行っていた人物です。裁判では「天皇の意向を汲みながら戦争遂行に関わった」として終身刑を言い渡されました。

終身刑ながら1955年には恩赦を受け、服役からわずか数年で出所しています。木戸は戦後も沈黙を守り続け、「天皇を守るために自分が裁かれた」という見方もされています。

南次郎・平沼騏一郎など|その他の終身刑組のその後

終身刑を言い渡された被告の中には、南次郎(陸軍大将・朝鮮軍司令官)や平沼騏一郎(元首相)といった大物政治家・軍人もいました。

彼らは晩年を獄中で過ごしましたが、1950年代に順次恩赦で釈放されています。とくに平沼は戦前の保守政治の象徴的存在であり、終戦後は思想的にも注目された人物です。

また、永野修身や小磯国昭といった人物も終身刑を受けましたが、政治活動には復帰していません。いずれも日本の戦争指導層に属する人物であり、戦争責任の一端を担ったとされました。

東京裁判生き残った人の後に:死刑となったのは誰か

東京裁判で最も重い判決――それが「絞首刑(死刑)」です。被告28人のうち7人がこの判決を受け、1948年12月23日未明に巣鴨プリズンで刑が執行されました。

死刑となった7名は、日本の戦争指導者の中核を担っていた人物ばかりで、軍人・政治家それぞれの立場から戦争責任を問われました。それでは一覧で確認していきましょう!

東京裁判で絞首刑になった人物一覧

絞首刑になった人物は、以下の7名です。

名前役職・肩書主な罪状
東條英機元首相・陸軍大将侵略戦争の主導、残虐行為の黙認
広田弘毅元首相・外交官文官ながら軍の侵略行為を黙認
板垣征四郎陸軍大臣・満州事変主導満州事変の首謀、戦争拡大に関与
土肥原賢二関東軍特務機関長謀略・諜報活動による侵略戦争の助長
松井石根中支那方面軍司令官南京事件の責任
武藤章参謀・陸軍軍人南京事件およびビルマ方面の残虐行為
木村兵太郎ビルマ方面軍司令官捕虜虐待、民間人への残虐行為

東條英機|日本を戦争へ導いた元首相の最期

東條英機(とうじょう ひでき)は、戦時中の内閣総理大臣であり、日本の開戦決定に深く関わった中心人物です。陸軍出身で、軍事・政治の両面で国家運営を担っていました。

東京裁判では、真珠湾攻撃の責任や、戦争拡大の指導、捕虜への残虐行為の黙認などが問われました。終始「自分が全責任を負う」と主張し、部下や天皇の責任を庇うような発言を繰り返しました。

1948年12月23日、絞首刑が執行。最期の言葉は「天皇陛下万歳」でした。

広田弘毅|文官で唯一の絞首刑

広田弘毅(ひろた こうき)は外交官出身で、首相や外相を歴任しました。軍人ではなかったにもかかわらず、死刑判決を受けたことで当時も大きな議論を呼びました。

その理由は、軍部の暴走を止めず、黙認していたという「不作為の責任」によるものでした。特に中国侵略の拡大や、民間人への非人道的行為を止めなかった点が重く見られました。

裁判中も一貫して冷静で、最期まで感情を表に出さなかったと言われています。

板垣征四郎・土肥原賢二|満州事変を仕掛けた張本人たち

板垣征四郎(いたがき せいしろう)と土肥原賢二(どいはら けんじ)は、満州事変を起こした陸軍の中心人物です。

板垣は陸軍省で政策立案を担当し、満州の実効支配を進めました。土肥原は関東軍の特務機関長として謀略活動を担当し、中国の内戦に介入するなど、侵略戦争を煽ったとされました。

2人とも中国への侵略行為とその後の戦争拡大の責任を問われ、死刑となりました。

松井石根・武藤章・木村兵太郎|南京事件やビルマ戦線

松井石根(まつい いわね)は中支那方面軍の司令官として南京攻略を指揮。南京事件の責任者として裁かれました。「自分は現地の様子を知らなかった」と主張しましたが、統治責任は免れませんでした。

武藤章(むとう あきら)は南京事件当時の参謀で、命令系統にいたことから共犯とされました。さらにビルマ戦線でも残虐行為の責任を問われました。

木村兵太郎(きむら へいたろう)はビルマ方面軍の司令官で、捕虜虐待や住民への暴行などが取り沙汰されました。3人とも「現場の軍人としての責任」が重く問われ、死刑となりました。

総括:東京裁判で生き残った人まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

①東京裁判で生き残った人一覧

名前役職・肩書判決備考
松岡洋右元外相不起訴裁判中に病死(公判前に不起訴)
重光葵元外相有期刑(7年)出所後に政界復帰、外相を再任
賀屋興宣元大蔵大臣有期刑(7年)出所後に政界復帰
木戸幸一内大臣、昭和天皇側近終身刑恩赦で仮釈放
広瀬豊作陸軍中将終身刑
小磯国昭元首相終身刑
南次郎朝鮮軍司令官終身刑
平沼騏一郎元首相終身刑
星野直樹内務官僚有期刑(5年)
永野修身元海軍大将終身刑
東郷茂徳元外相有期刑(20年)
嶋田繁太郎元海軍大臣有期刑(7年)
鈴木貞一陸軍官僚有期刑(7年)
橋本欣五郎陸軍軍人・皇道派の中心人物有期刑(7年)
岡敬純海軍軍人有期刑(7年)
佐藤賢了陸軍軍人有期刑(7年)
木村兵太郎陸軍軍人終身刑
大島浩駐独大使有期刑(10年)
佐藤東四郎陸軍軍人有期刑(7年)

②東京裁判で絞首刑になった人一覧

名前役職・肩書主な罪状
東條英機元首相・陸軍大将侵略戦争の主導、残虐行為の黙認
広田弘毅元首相・外交官文官ながら軍の侵略行為を黙認
板垣征四郎陸軍大臣・満州事変主導満州事変の首謀、戦争拡大に関与
土肥原賢二関東軍特務機関長謀略・諜報活動による侵略戦争の助長
松井石根中支那方面軍司令官南京事件の責任
武藤章参謀・陸軍軍人南京事件およびビルマ方面の残虐行為
木村兵太郎ビルマ方面軍司令官捕虜虐待、民間人への残虐行為