今日は「与謝野晶子(よさのあきこ)」の死因について、わかりやすく説明します。
与謝野晶子は、「君死にたまふことなかれ」などで知られる有名な女性歌人(かじん)です。けれど、どうやって亡くなったのか、最後はどんな様子だったのか、学校の教科書ではあまり詳しく教えてくれませんよね。
この記事では、晶子の死因や亡くなるまでの流れ、葬儀の様子、そして晩年の生き方までを、やさしくくわしく紹介していきます。最後まで読むと、明治・大正・昭和を生きた一人の女性の姿が、もっとよく見えてきますよ。
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与謝野晶子の死因は何だったのか?最期の様子
与謝野晶子は、明治から昭和初期を生きた偉大な歌人として知られています。彼女の死因は、長年の病気との戦いが影響していました。ここでは、晶子の最期の様子や、死因に至るまでの経緯について詳しく解説します。
与謝野晶子の死因は尿毒症・心不全・脳溢血が引き金
与謝野晶子の死因(しいん)は、「尿毒症(にょうどくしょう)」と「心不全(しんふぜん)」だといわれています。
でも、いきなりこの2つの病気になったわけではありません。もともとの原因は、数年前におこった「脳溢血(のういっけつ)」という病気でした。脳の血管が切れて、意識を失ったり、体が動かなくなったりする病気です。
晶子は1937年(昭和12年)に1度目の脳溢血を起こし、1940年(昭和15年)に2度目の発作で右半身が動かなくなってしまいました。それからは車いすでの生活になり、体調もどんどん悪くなっていきます。
そして1942年5月には尿毒症という病気になりました。これは、腎臓(じんぞう)がうまく働かなくなって、体の中に毒がたまってしまう状態です。この尿毒症が心不全を引き起こし、晶子はそのまま亡くなってしまったのです。
与謝野晶子は何歳で亡くなったのか?63歳でこの世を去る
与謝野晶子が亡くなったのは、1942年5月29日のことです。このとき晶子は63歳でした。
いまの時代だと「63歳で亡くなったの?若いね」と思うかもしれません。でも、明治時代に生まれて昭和のはじめまで生きた人としては、63歳というのはけっこう長生きなほうだったんですよ。
当時の日本人の平均寿命(へいきんじゅみょう)は、今よりもずっと短くて、女性でも50歳前後くらいでした。それを考えると、晶子はしっかりと自分の人生を生ききった人といえるでしょう。
子育てをしながら歌を詠み続け、社会にもたくさんの影響を与えた晶子。そんな彼女の人生の幕がおりたのが、63歳だったのです。
最期はどんな状態だった?昏睡状態が続き家族に見守られて死去
晶子が亡くなる前、5月のはじめごろに体調が急に悪化しました。尿毒症になってしまい、意識がなくなる「昏睡(こんすい)状態」になったのです。
昏睡というのは、眠っているように見えるけれど、声をかけても反応しない状態のことです。お医者さんたちも一生けんめい治療したようですが、意識が戻ることはありませんでした。
そして5月29日の午後4時30分、晶子は東京都杉並区荻窪(すぎなみく・おぎくぼ)にある自宅で、静かに息を引き取りました。
そのときは家族や子どもたち、仲のよかった同人(どうじん:詩や歌を一緒につくっていた仲間)たちが、晶子のまわりに集まっていたそうです。だれもが心をこめて、最後の時間を見守ったのでしょう。
死の前兆はいつから?狭心症や脳溢血の発作が続いていた
晶子の体調が本格的に悪くなり始めたのは、1940年の脳溢血の発作からでした。右半身が動かなくなり、歩くこともむずかしくなってしまいました。それでも、晶子は歌を詠みつづけました。
さらに1942年1月には「狭心症(きょうしんしょう)」という病気の発作も起こりました。これは、心臓の血管がせまくなって、胸がしめつけられるように苦しくなる病気です。このときは命の危険もあったそうですが、なんとか乗り越えました。
しかし体調は良くならず、5月には尿毒症を発症します。そしてそのまま昏睡状態になり、亡くなるまで目を覚ますことはありませんでした。いろんな病気が少しずつ重なって、最期の時を迎えたのです。
死後の葬儀と埋葬先は?与謝野鉄幹とともに多磨霊園に眠る
晶子の葬儀(そうぎ)は、1942年6月1日に「青山斎場(あおやまさいじょう)」という場所で行われました。葬儀の導師(どうし:お経を読むお坊さん)は、夫の与謝野鉄幹の葬儀でもお経をあげた「信楽真純(しんぎょう・しんじゅん)」というお坊さんでした。
葬儀では、彫刻家でもあり詩人でもある高村光太郎(たかむら・こうたろう)が、心をこめた追悼の詩(ついとうのし)を読み上げました。また、詩人の堀口大学(ほりぐち・だいがく)も、晶子に向けた挽歌(ばんか:亡くなった人をしのぶ歌)を詠みました。
そして晶子の亡がらは、東京都府中市にある「多磨霊園(たまれいえん)」に埋葬されました。そこにはすでに亡くなっていた夫の鉄幹も眠っており、ふたりは今も仲よくならんでお墓に眠っているのです。
与謝野晶子の死因のあとに:晩年と弟への想い
与謝野晶子の人生は、華やかに見えて、じつは苦労の連続でした。晩年も病気とたたかいながら、創作の炎を消すことなく生きたのです。そして、彼女の心にはいつも「家族」や「弟」への深い愛情がありました。
ここでは、死因につながる体調の変化だけでなく、彼女が晩年に何を考え、どんな歌を残したのかもくわしく見ていきましょう。
与謝野晶子の晩年はどんな生活?
病気で体が思うように動かなくなってからも、与謝野晶子は歌を詠むことをやめませんでした。1940年の脳溢血で右半身が動かなくなっても、車いすに座って筆をとり、歌集の執筆や文筆活動を続けていたのです。
そんな中で完成したのが、遺作となる『白桜集(はくおうしゅう)』です。この歌集には、病と向き合いながらも母として、そして歌人として、最後まで前を向こうとした晶子の気持ちがこめられています。
また、1941年の太平洋戦争開戦後には、戦地に行く子どもたちを思う歌も詠まれました。自分の病気よりも、子どもたちや若者の未来を案じる気持ちが、晩年の晶子を支えていたのです。
弟・鳳籌三郎への愛が与謝野晶子の代表作につながる
「君死にたまふことなかれ」という有名な詩を知っている人は多いと思います。これは、晶子が弟・鳳籌三郎(ほう・ちゅうさぶろう)を思って書いた詩です。
日露戦争が始まった1904年、晶子の弟に召集令状(しょうしゅうれいじょう)が届き、戦場に行くことが決まりました。姉として、そして一人の女性として、晶子は弟に「死なないでほしい」という思いを込めて、この詩を『明星』という雑誌に発表したのです。
当時の日本は、戦争を美化する空気が強く、「君死にたまふことなかれ」のような詩は「国に逆らう言葉」だと非難されました。「非国民」と言われたり、批判されたりしても、晶子は自分の想いを曲げませんでした。
弟への深い愛と命の大切さを訴えるこの詩は、今も多くの人に感動を与えつづけています。
病気の中でも洗礼を受けた?二女七瀬の言葉に応じた宗教観の変化
晶子は生涯、特定の宗教に強くこだわるタイプではありませんでした。しかし、亡くなる少し前に、キリスト教の「洗礼(せんれい)」を受けたという話があります。
これは、クリスチャンだった二女の七瀬(ななせ)さんが、「お母さんが仏教のままだと、天国で会えなくなってしまう」と言ったことがきっかけだったそうです。
晶子は、「それなら、いいですよ」とやさしく答え、洗礼を受けたといいます。洗礼名は「ヘレナ」でした。最期のときに、家族の気持ちを大切にした晶子のやさしさと、家族との絆の深さがよくわかるエピソードです。
「死の間際に詠んだ歌」は何?白桜集に込められた覚悟と静けさ
与謝野晶子の最後の歌集『白桜集』には、死を意識した歌がいくつも入っています。とくに有名なのが、次の歌です。
子が船の黒潮越えて戦はん日も甲斐なしや病する母(白桜集)
この歌は、戦地に向かう子どもを思い、病にふせる母としてのつらい気持ちを詠んだものです。
また、晶子はお墓に入るときのことを思って、次のような歌も詠みました。
今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西の武蔵野
これは、亡き夫・与謝野鉄幹のとなりに眠りたい、という晶子の願いが込められた歌です。死を前にしても、家族を思い、静かに受け入れる姿勢が、この歌から伝わってきます。
与謝野晶子の死因から見る、当時の医療や寿命の限界とは?
与謝野晶子の死因である「脳溢血」や「尿毒症」は、今では治療できる可能性もある病気です。でも、昭和の初めごろは、医療技術が今ほど進んでいなかったため、命を落とすことがよくありました。
また、当時の平均寿命は50歳前後。そんな中で、晶子は63歳まで生き、多くの作品を残しました。これはとてもすごいことです。
たくさんの子どもを育てながら、創作活動を続け、社会にも大きな影響を与えた晶子。その人生は、今の時代を生きる私たちにも、大切なことを教えてくれます。
総括:与謝野晶子の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 与謝野晶子の死因は「尿毒症」と「心不全」で、もともとの原因は「脳溢血」だった
✅ 1942年5月29日、63歳で東京都杉並区荻窪の自宅にて家族に見守られながら死去
✅ 晩年は車椅子生活となり、狭心症や昏睡状態も経験していた
✅ 葬儀は青山斎場で行われ、多磨霊園に夫・与謝野鉄幹とともに埋葬された
✅ 晩年も歌集『白桜集』を完成させ、戦時中も家族への思いを詠み続けた
✅ 有名な詩「君死にたまふことなかれ」は弟への愛から生まれた
✅ 最期にキリスト教の洗礼を受け、洗礼名は「ヘレナ」
✅ 当時の医療では脳溢血や尿毒症の治療は難しく、63歳は長寿だった
