今回は「与謝野晶子(よさのあきこ)ってどんな人?」という疑問にお答えしていきます。与謝野晶子は明治から昭和にかけて活躍した、とても有名な女性の歌人(たんかをつくる人)です。
でも、「なんとなく名前は知ってるけど、何をしたの?」という人も多いはず。
この記事では、与謝野晶子の生涯や代表作、そして彼女がどれほどすごい人だったのかを、子どもでもわかる言葉でやさしく解説していきます。
最後まで読めば、きっと「与謝野晶子ってすごい!」と思えるようになりますよ!
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与謝野晶子はどんな人?簡単に生涯や代表作を解説
与謝野晶子は、日本の近代文学を代表する歌人であり、詩人としても広く知られています。彼女はただの文学者ではなく、家庭や社会においても非常に影響力を持った人物でした。
ここでは、与謝野晶子の生涯を簡単に振り返りながら、彼女がどんな人物であったのかを解説します。
情熱的な短歌で有名な明治〜昭和の女性歌人
与謝野晶子は、恋や感情をストレートに表現した短歌でとても有名な人です。代表作には、恋する気持ちを大胆に歌った『みだれ髪』や、戦争に行った弟を心配する気持ちを詠んだ『君死にたまふことなかれ』があります。
とくに『みだれ髪』では、「好き!」という気持ちを遠まわしに言わず、ハッキリと伝えていて、それが当時の人々にとってはとてもショッキングだったのです。
でも、それが若者たちには「かっこいい!」「本音を言ってる!」と大人気に。晶子は、「心のままに詠む」ことで、新しい時代の風をつくったのです。
生涯を簡単に紹介|大阪の和菓子屋に生まれた才女
与謝野晶子は、1878年に大阪の堺市という町の和菓子屋さんに生まれました。
本名は「鳳 志やう(ほう しょう)」といいます。小さいころから本を読むのが大好きで、『源氏物語』や歴史書などもどんどん読んでいたんです。
16歳くらいから自分で短歌をつくって、雑誌に投稿していたら、どんどん注目されるようになりました。そして、有名な歌人・与謝野鉄幹(てっかん)と出会って恋に落ち、結婚します。
晶子は11人もの子どもを育てながらも、歌を詠み続けました。まさに「才能と努力の人」といえるでしょう。
代表作『みだれ髪』とは?当時の社会に衝撃を与えた理由
晶子の名前を一気に有名にしたのが、1901年に出版した『みだれ髪』という歌集です。この中の歌は、恋愛の気持ちをとても大胆に、情熱的に書いています。
たとえば、「やは肌の あつき血しおに ふれもみで さびしからずや 道を説く君」という短歌では、「私を好きなら触れてよ!」というような強い気持ちが表れています。当時は、女性がそんな気持ちを表に出すのは「いけないこと」とされていたので、批判する人もたくさんいました。
でも同時に、「本音を出していいんだ!」と感動する人も多く、若者を中心に大人気になりました。晶子は短歌の世界に、新しい風を吹き込んだのです。
『君死にたまふことなかれ』の意味と背景
『君死にたまふことなかれ』は、1904年に起こった日露戦争のときに詠まれた詩です。晶子の弟が戦争に行くことになり、「死なないでほしい」という気持ちをこめて書かれました。
「あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」という言葉は、「弟よ、死んではいけません」という強い願いを表しています。でも、この詩は戦争を応援する空気の中で「非国民だ!」と強く批判されました。
それでも晶子は、「まことの心を歌わない歌に、意味はない」と言って、自分の気持ちを貫きました。自分の思いを正直に詠む晶子の姿勢は、今でも多くの人に尊敬されています。
与謝野晶子の現代語訳『源氏物語』とは
与謝野晶子は、あの有名な古典『源氏物語』を、現代の人にも読みやすく書き直すという大仕事もやってのけました。1909年から翻訳を始めましたが、途中で関東大震災が起こり、原稿がすべて燃えてしまったのです。
しかし晶子はあきらめませんでした。もう一度書き直し、なんと60歳のときに『新訳源氏物語』を完成させたのです。これにより、たくさんの人が『源氏物語』に親しむきっかけになりました。
晶子はただの歌人ではなく、古典文学を未来につなぐ役割も果たしたのです。
与謝野晶子はどんな人か簡単に:すごさまとめ
与謝野晶子の凄さは、その文学的な才能だけでなく、彼女が生きた時代背景において果たした多方面での貢献にもあります。文学、教育、社会運動、家族の面でどのように彼女が影響を与えたのかを探ります。
ここでは、彼女がどれほど多才であり、困難を乗り越えてどんな功績を残したのかを紹介します。
家計も支えた働く母としてのパワフルさ
与謝野晶子は、なんと11人もの子どもを育てながら、歌人・作家として活躍し続けました。夫の与謝野鉄幹は仕事にムラがあり、生活が苦しくなることもたびたび。そんな中、晶子は小説や詩を書き、家計を支えました。
当時は「女性が家庭を守るもの」とされていた時代。それなのに、晶子は家事・育児・執筆をすべて一人でこなしたのです。
「家庭か仕事か」で悩むのではなく、「どっちもやる!」という姿勢は、現代のワーキングマザーにも通じる生き方です。芯の強さと行動力が、彼女の凄さの一つです。
女性の地位向上を訴えた先駆者
晶子は短歌や詩の世界にとどまらず、社会運動にも積極的に参加しました。
特に力を入れたのが「女性の権利」についての活動です。1918年には、平塚らいてうと「母性保護論争」を展開し、「女性は保護される存在ではなく、自立すべき」と主張しました。
また、女性の参政権(せんきょで投票できる権利)を求める「婦人参政権運動」にも参加し、『婦選の歌』という応援歌も作りました。当時、女性は政治にも口を出せない時代でしたが、晶子はそれを変えようと声を上げ続けたのです。
男女共学の文化学院で教育にも尽力
晶子は夫・鉄幹とともに、1921年に「文化学院」という学校の創設に関わりました。この学校の大きな特徴は、日本で初めての本格的な“男女共学”だったことです。
「男も女も同じように学べる学校をつくりたい!」という思いで、晶子は自らも先生として教壇に立ちました。自分の経験や思想を若い世代に伝えたいという情熱があったのです。
教育者としての晶子の姿も、忘れてはいけない彼女の功績の一つです。
大胆でストレートな表現が文学を変えた
与謝野晶子の作品の特徴は、何と言っても「本音を隠さない」ことです。『みだれ髪』では、恋愛や感情を赤裸々に詠み、多くの人に衝撃を与えました。明治時代の女性たちは、表立って自分の気持ちを語ることはタブーとされていましたが、晶子はそれを打ち破りました。
しかもそれは、一時的な流行では終わりませんでした。晶子の表現は、石川啄木や北原白秋といった他の有名な歌人にも影響を与え、日本の近代文学そのものの流れを変えていったのです。
表現の自由を広げた革命家ともいえるでしょう。
生涯で5万首の歌を詠み続けた圧倒的な創作力
与謝野晶子が生涯で詠んだ短歌の数は、なんと約5万首!
これは毎日欠かさず作り続けたとしても、相当な努力と才能がなければできないことです。恋愛、家庭、教育、戦争…さまざまなテーマを歌い続け、どの時代も自分の言葉を信じて発信し続けました。
病気で体が不自由になってからも筆を止めることはなく、最後まで創作を続けたその姿は、多くの人に勇気と希望を与えました。「最後まであきらめない」——これもまた、晶子の凄さなのです。
総括:与謝野晶子はどんな人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 与謝野晶子は明治〜昭和に活躍した情熱的な女性歌人で、短歌や詩で有名。
- 代表作は恋愛を大胆に表現した『みだれ髪』と、反戦の想いを詠んだ『君死にたまふことなかれ』。
- 大阪の和菓子屋に生まれ、若い頃から文学に親しみ、与謝野鉄幹と恋に落ちて結婚。
- 11人の子どもを育てながら創作を続け、家計も支えたパワフルな女性。
- 『源氏物語』の現代語訳を完成させ、古典文学の普及にも貢献。
- 女性の自立・参政権を訴えるなど、社会運動にも積極的に参加。
- 男女共学の文化学院を創設し、教育にも尽力。
- 自分の気持ちを隠さないストレートな表現が、当時の文学界に衝撃を与えた。
- 生涯で約5万首の短歌を詠むなど、驚異的な創作力を持っていた。
- 晶子は文学・家庭・社会で活躍し続けた、多才で芯の強い女性だった。