みなさん、こんにちは塾長です。

今日は「足利義満」という歴史上の人物について、分かりやすく解説していきます。歴史の授業で「金閣寺を建てた人」として習ったことがあるかもしれませんね。

でも、それだけではありません!

彼は、室町幕府を最盛期に導き、日本の歴史を大きく動かした人物なんです。足利義満が何をしたのか、一緒に詳しく見ていきましょう!

足利義満は何した人簡単に解説:したことまとめ

足利義満は、室町幕府の3代目の将軍として、大きな政治の改革を行いました。彼が登場する前の日本は、南北朝に分かれて天皇が二人いる状態でした。

このような混乱した状況を義満がどうやって変えていったのか、詳しく見ていきましょう!

足利義満は南北朝を統一した!60年続いた対立を終結

足利義満の最大の功績の一つが、60年も続いた「南北朝時代」の終わりを実現したことです。もともと、日本の天皇は一人しかいませんでしたが、後醍醐天皇が幕府と対立したことがきっかけで、南朝と北朝の二つに分かれてしまいました。

義満は、北朝の後小松天皇に「もう争いをやめよう!」と呼びかけ、南朝の後亀山天皇に譲位を促しました。こうして1392年に南北朝の統一が実現したのです。

これは、義満の外交手腕によるもので、武力でねじ伏せるのではなく、話し合いで解決した点が評価されています。

足利義満は室町幕府の権力を強化!守護大名を制圧

南北朝の統一を成し遂げた義満ですが、次に目を向けたのは「守護大名の力を抑えること」でした。当時の守護大名はそれぞれの土地を支配し、大きな権力を持っていました。

義満は、これでは幕府がコントロールできないと考えたのです。

特に「六分一殿」と呼ばれた山名氏は、日本全国の6分の1もの領地を支配していました。義満はこの山名氏を討伐するために「明徳の乱(1391年)」を起こし、大きな勢力を削減しました。

さらに、大内氏や土岐氏といった有力な守護大名も次々と抑え、室町幕府の将軍権力を強めていったのです。

足利義満は金閣寺を建設!「北山文化」の中心人物

「金閣寺を建てた人」として有名な義満ですが、これはただのお寺ではありません!金閣寺は彼の権力を示すために建てられたもので、公家文化と武家文化が融合した「北山文化」の象徴でもあります。

なぜ金色なのかというと、それは「極楽浄土の世界」を表しているからです。

また、義満は公家の力を超えることを示したかったとも言われています。建築の構造にも意味があり、一階は公家の住む寝殿造り、二階は武家造り、三階は禅宗の影響を受けた建築になっています。

このように、義満の思想が反映された建物だったのです。

足利義満は勘合貿易を開始!明(中国)との外交

義満は国内の政治だけでなく、海外との貿易にも力を入れました。特に「勘合貿易」という貿易制度を作り、中国(当時の明)との貿易を活発にしました。

明と正式に貿易をするために、義満は「日本国王」という称号を受け入れました。これには賛否がありましたが、中国と貿易をすることで、日本には多くの利益がもたらされました。

特に、銅や刀剣、扇子などを輸出し、中国からは生糸や陶磁器などを輸入していました。これにより、日本経済が発展したのです。

足利義満は天皇になろうとした?皇位簒奪の噂

足利義満は「武士のトップである将軍」としての地位だけでは満足せず、公家の世界にも深く関わりました。そして、最終的には天皇の地位すら狙っていたのではないかと言われています。

義満は朝廷内での地位をどんどん上げ、最後には「准三后(じゅさんごう)」という、天皇に匹敵する地位を得ました。さらに、太政大臣にまで昇進し、まるで天皇のような振る舞いをするようになりました。

しかし、義満が突然亡くなったことで、天皇になるという計画は実現しなかったのです。

足利義満は何した人か簡単に功績と影響を深掘り

足利義満がどのように日本を変えたのかを、さらに詳しく見ていきましょう!彼の政治のやり方、死後の影響、さらにはちょっと面白いエピソードも紹介します!

義満の死後:室町幕府はどうなった?

足利義満が1408年に亡くなると、息子の足利義持が4代目将軍となりました。しかし、義満が築き上げた政治体制は、すぐに崩れ始めてしまいました。

義持は義満とは異なり、中国との「勘合貿易」をやめてしまいました。また、義満が抑えていた守護大名たちが再び力を持ち始め、室町幕府の将軍の権威が弱まっていったのです。この結果、義満の時代に最盛期を迎えた幕府は、次第に衰退の道をたどることになります。

この流れは、最終的に戦国時代へと続いていきました。義満が築いた強い幕府体制は、彼がいたからこそ成り立っていたのかもしれませんね。

足利義満の性格は?「野心家で計算高い」人物像

義満は単なる政治家ではなく、非常に計算高く、野心的な人物だったと言われています。

・南北朝統一を成し遂げたが、完全に武力ではなく、交渉を駆使した
・守護大名を討伐する際も、直接戦わずに争いを誘発させて弱らせた
・公家の世界にも入り込み、天皇のような振る舞いをした

このように、義満は一つ一つの行動に計算をしながら、自分の権力を拡大していきました。さらに、彼はとても贅沢好きで、金閣寺の建設にもその豪華さが表れています。ただし、こうした性格が周囲からの反感を買うこともありました。

義満暗殺説!?本当に自然死だったのか?

義満は49歳で突然亡くなりましたが、実は「暗殺されたのではないか?」という噂があります。

当時の記録では「病死」とされていますが、義満は将軍を辞した後も権力を持ち続け、朝廷すら支配しようとしていました。そのため、多くの公家や武士たちが義満に不満を抱えていたのです。

暗殺の可能性としては以下の説があります。

  1. 朝廷が義満を殺害した説
     義満は天皇の地位に近づきすぎたため、朝廷側が危機感を抱いたという説です。
  2. 側近による暗殺説
     義満の側近たちが彼の権力を恐れ、命を奪った可能性もあります。
  3. 単なる病死説
     単純に病気で亡くなった可能性もありますが、あまりにも突然すぎるため、疑問を持たれています。

いずれにせよ、義満の死後、幕府の勢力が衰えたことからも、彼がいかに強いリーダーだったのかが分かりますね。

義満の残したもの:その後の日本への影響

義満の死後、彼が残した影響は多くの分野に及びました。

政治面:幕府の権力を最大化し、中央集権的な統治を行った
文化面:「北山文化」を築き、能や茶道などの日本文化の基礎をつくった
経済面:「勘合貿易」による日中間の貿易で日本の経済を発展させた

義満がいなかったら、室町幕府がこれほど強い力を持つことはなかったかもしれません。また、彼の影響は江戸時代の徳川幕府にもつながっていくのです。

足利義満を覚えやすくする語呂合わせ

歴史のテスト対策として、足利義満に関する語呂合わせを紹介します!

📌 南北朝統一(1392年)「いざ国(1392)、統一だ!」
📌 勘合貿易開始(1404年)「いーよー(1404)貿易、儲かるぞ!」
📌 明徳の乱(1391年)「いざ食い(1391)止める山名氏!」
📌 金閣寺の建設(1397年)「いざ行く(1397)ぞ、金ピカ寺!」

このように、数字を語呂合わせにすると歴史の年号も覚えやすくなりますね!

総括:足利義満は何した人か簡単に解説のまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

足利義満の基本情報

  • 室町幕府の3代将軍として日本の政治を大きく変えた
  • 「金閣寺を建てた人」として有名だが、それ以上に多くの功績を残した

足利義満の主な功績

南北朝の統一(1392年)

  • 約60年間続いた南北朝の対立を終結
  • 武力ではなく交渉を駆使して統一を実現

守護大名の勢力を抑え、幕府の権力を強化

  • 有力な守護大名(山名氏・大内氏など)を討伐し、幕府の統制力を高めた
  • 明徳の乱(1391年)で「六分一殿」と呼ばれた山名氏を弱体化

金閣寺の建立(1397年)と「北山文化」の発展

  • 公家文化と武家文化を融合した新たな文化を創出
  • 金閣寺の三層構造は、それぞれ公家・武家・禅宗の影響を示している

明(中国)との貿易を開始(勘合貿易)

  • 日本は明から正式に「日本国王」と認められた(外交的な功績)
  • 貿易により日本経済が大きく発展(銅・刀剣・扇子の輸出/生糸・陶磁器の輸入)

天皇の地位を狙ったとされる(皇位簒奪説)

  • 朝廷内での地位を急速に高め、「准三后(じゅさんごう)」の称号を得る
  • 太政大臣に昇進し、天皇に匹敵する権力を握る

足利義満の死後と影響

  • 1408年に急死(病死とされるが、暗殺説もある
  • 義満の死後、室町幕府は徐々に衰退し、戦国時代へと向かう
  • 義満の文化政策は、後の「桃山文化」や「江戸時代の基盤」に影響を与えた